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君がそんなに可愛いから



「っくしゅっ」
 小さな小さな意外なほど可愛らしいくしゃみがカウンターの中からした。
 グラスを空にした川中は一瞬驚いたような顔で、向かいのバーテンを見た。
 口元を押さえたバーテンは、もう一度もどかしそうに息を吸う。
「くしゅんっ」
 とくしゃみをして、すまなさそうに川中とその傍らの藤木を見てから、もう一度。
 今度は深く俯いて、
「へっくしっ」
 やはり可愛らしいくしゃみをする。
 見ている方がもどかしくなるくしゃみの仕方だ。
「どうした、坂井。風邪でもひいたのか?」
 連続したくしゃみがおさまったらしいところで、川中が問えばいくらか鼻にかかったような声で、
「かもしれません」
 生理現象に滲んだ涙をふいて答えた。
「熱は?」
「ないです……と思います」
 曖昧な坂井の答えに藤木が眉を僅かに寄せて、こいこいと指で手招く。
 大人しく坂井はカウンター越しに身を乗り出すと、藤木のひんやりとした手の平が額を覆った。
 ほうっと坂井が息を吐く。
 藤木は手首にかかる吐息と額の熱に大いに顔を顰めて見せた。
「熱、ありますね。頭痛はしないのか?」
 前半は川中に、後半は坂井に言う。
「ちょっとぼーっとするけど……あと、なんか寒いです」
 当の本人はどこか人事のように言ってのけるが、確かに焦点も声も普段に比べてしっかりしていない。
「意地っ張りな奴だな」
 川中が苦笑を浮かべる。
「奥で休んでろよ。客にうつっても困るし、風邪をこじらせてもらっても困るんだ」
 飼い主の言葉に、坂井は素直に頷いた。
 もしも、この時間に川中に会っていなければ頑としてカウンターに立っただろう。
 ふうと深い溜息をついたと思ったら坂井はその場にしゃがみこんだ。
 病は気から。
 自覚した途端にダメージが押し寄せてきたのだろう。
「坂井?」
 藤木がカウンターの中に入って、坂井の体を抱え上げる。
「おい、大丈夫か? 坂井?」
「……うー、だいじょーぶです」
 額に手を当てて、ただでさえ暗い照明をそれでも更に遮って力なく答える。
「まいったな。俺はこの後、東京まで出張なんだ。藤木が店を開けるわけにもいかんしな。大崎女史にでも連絡して……」
 川中が、ぐったりして藤木にもたれる姿を見ながら困惑していると、顔パス状態で開店前・閉店後も入店できる叶が悠々とした足取りでやってきた。
 いつもと様子のおかしい店内の様子にひょいっと片眉を上下させる。
「どうした?」
 声をかけると川中と藤木の間に長い沈黙が降りる。
 たっぷりの逡巡。
 コホンと坂井が苦しげに咳き込んだのをきっかけに、川中が思いっきり舌打ちしそうな顔で叶を見上げた。
 いまいち事情の掴めない叶は、なんだなんだと言う顔。
「この際、仕方ないな」
「仕方ないですね」
 そんなやり取りが交わされる。
 そして……


『仕方ないからお前に預けるが、こいつは今病人なんだ。責任を持って預かれる自信はあるか?』
 と前置きされて、それじゃ自分は性欲の権現みたいじゃないかと心外そうに言い返したら、違うのかと返された。
 じゃあ、お前が出張から帰ってくるまでには、全快させておいてやると宣言した。
 で、叶の理性とプライドを揺さぶっているのが、ベッドに沈んでいる子猫……いや、坂井。
 あれから、叶が坂井を預かって自室に運んだ。
 大崎女史に一応診察してもらって、薬をいただいた。
 その際にも、
『坂井くん、しっかり寝て安静にしていれば治るんだから、余計なマネはしないように』
 などと言われてしまった。
 そんなに信用がないのかと思い返してみるが、坂井に関してだけは自分の理性は頼りにならない代物ではあると実感した。
 寝乱れたこの姿を見せ付けられて。
「……んっ、あつ……」
 着替えは大崎女史がやったらしい。
 叶が出したパジャマ姿なのだが……なんせ体格が違う。
 おまけに熱がって脱ごうと無意識に試みるものだから、大きく胸元が肌蹴ている。
「……おい、坂井」
 それを直してやろうと手を伸ばしかけたところで、坂井が寝返りをうつ。
 誰かが自分の理性を試している。
 そう叶に思わせるタイミングで、ぷつりとパジャマの一番目のボタンが切れた。
「………………………………………………」
 肩のラインが、露わになった。
 苦しげに上下する肩。
 逞しいはずのそのラインが、今はどこか頼りなく見える。
 慌てて眼を逸らしつつ、枕に落ちた濡れタオルを額に乗せる。
 普段であれば、眼をそらすこともないままそのまま食らいつくところだが、今回はそうはいかない。
 ここで坂井を抱いて風邪を悪化させたりしたら、川中に何を言われるものかわかったものじゃない。
「くそっ、これほど惜しい状況もないな」
 残っている僅かな理性を総動員させて、ずりおちたパジャマを直す。
「熱は下がらないしなぁ」
 意識のない坂井は無防備すぎる。
 ぱらぱらと枕に波打っている坂井の髪を梳いて、叶は苦笑した。
 熱を持った指が、叶の袖口を捉えている。
「……どうした? 坂井」
 返事を期待しないまま問えば、坂井が潤んだ眼を開けた。
 掠れきった声が、名前を呼んだ。
 その声が、情事の翌朝によく聞くものと似ていて叶は思わず髪を梳く手を止めた。」
 気だるげに持ち上がる手が、叶の肩を引っ掻くような仕草を見せてぱたりと落ちた。
 意図を読んだ叶はその唇に自分の唇を押し付ける。
 熱い。
 仕方ないじゃないかと叶は自分に言い聞かす。
 坂井が心細そうにしてるから。
 罪悪感にちりちりと苛まれながら、叶はベッドに入り込む。
 すぐに擦り寄ってくる坂井の体を抱きしめて、額に唇を押し付けた。
 それだけで、止めておこうとは思っていたのだ。
 叶の中に生まれたのは穏やかな庇護欲で、性欲そのものには直結しないはずだった。
 だが……
「……んっ……」
 苦しそうに時々呻くその声だとか。
 叶の首筋を通り抜けていく熱い吐息だとか。
 汗で濡れている肌だとか。
 薄っすらと開いている唇だとか。
 苦しさに寄せられる眉だとか。
 そーゆーものが叶を容赦なく煽るのだ。
「誰も、襲うなとは言ってないよなぁ」
 自分に言い聞かせ、叶は肘をついて体を支えて坂井の顔を覗き込んだ。
 意識も朦朧としているようだ。
「おい、坂井」
 呼ぶと、なんとか瞼を上げる。
「……な……に?」
 さすがに理性がもたないとは言えないで、睦言のかわりに口付けた。


 翌日。
 ブラディ・ドールが閉店してから数時間後。
 叶のマンションのインターフォンが鳴った。
 来たぞ来たぞと叶は思いながら、ドアを開けた。
「遅くにすみません」
 一言告げたのは藤木だった。
「かまわないが」
「川中から電話がありまして、そのままをお伝えします。『お前にはやっぱりうちの可愛いバーテンを任せられない』だそうですので、坂井を連れて帰ります」
 伝言にしてはきっちりと感情がこもっていたように思う。
 藤木の普段の様子から比べても。
 何も言い返せない叶は、大人しく藤木を部屋に入れた。
 坂井は寝室のベッド。
 昨日より熱は悪化していた。
 今は静かに眠っている。
 が、その呼吸は荒い。
 藤木の手が坂井の額に触れ、一拍置いて一瞬だけ殺気を投げつけられた。
 警戒するとかと言う問題でなく、素直にその居心地悪い視線を受けた。
「スマン」
 とだけ言ってみる。
 藤木は視線を外すと、彼にしては大きなリアクションで肩を竦めてみせた。
「わからないでもないですが」
 小さな独り言のような呟きに、叶は一瞬眼を見開いた。
 布団をはぐると、自分が着ていたコートで坂井をくるんで抱き上げる。
「……ふじき、さん?」
 そこで眼が覚めたらしい坂井が、不思議そうに自分を抱える男の名前を呼んだ。
 藤木はちらりと笑みを刻んで見せて、視線を坂井から剥がした。
 そりゃ……藤木に任した方が坂井の健康は保障されるだろう。
 叶は面白くなさそうに玄関まで二人を送る。
「お世話をかけました」
「いーえ、こちらこそ余計なマネをいたしました」
 素直に非を認めると、藤木はまた微かに笑った。
「また、店に顔を出すと坂井に」
「わかりました」
 藤木はちょっと頭を下げると、そのままスタスタと去っていった。
 やれやれと肩を落して、ドアを閉める。
 と、
「へっくしぃっ」
 景気よくくしゃみが出てきた。
 ぞぞっと背中を寒気が這い上がる。
「…………まさか」
 出しっぱなしの体温計を脇に挟んで暫し待つ。
 ピピッ。
 …………38度。
「…………自業自得か」
 病人が意識を飛ばしているのをいいことに抱いたのだ。
 坂井の無意識の復讐かもしれない。
 表示された自分の熱の数値を見た途端にはっきりしてくる体の重さに舌打ちしつつ、叶は電話を手にとった。
 しばらくの躊躇いの後に、昨日もかけた番号を押す。
 電話に出た大崎女史に散々からかいと説経を受けながら、叶は渋々往診を頼んだ。
 やって来た大崎女史は、
「ま、本望なんじゃないの? 可愛いネコちゃんにうつされた風邪なんなら」
 呆れ果てたようにそう言った。
 確かにそうかもしれないと、ひどく苦しい思いをしながら思った。


 次の日、すっかり全快して手土産片手にやってきた坂井は、未だ熱の下がらない叶の枕元でこう言ってにぃっと笑った。
「叶さん、セックスしません?」
 危うく口に含んだ薬を噴出しそうになる。
 眼を見開いて叶が坂井を見れば、坂井は小悪魔的な笑みを湛えている。
 滅多に見せないその余裕の笑みも可愛いと思う。
「したいのか?」
「俺はしたいけど…………」
 ちらりと考えるような仕草を見せて、ベッドサイドに引き寄せていたスツールごと少し離れた。
「あんまり高熱出すと、役立たずになっちまうらしいから、ダメ」
 可愛らしく言って、叶の魔の手を避けている。
「…………この野郎…………」
 忌々しげに呟いた叶に、坂井はご満悦とばかりの笑みを見せた。
 これが一番の薬かなと思いながら、叶は大人しく眼を閉じた。
 クスクスと耳に心地良い笑い声。
 額から後頭部へと坂井の指が流れていく。
 眼を開くと、坂井が見たこともないくらいに優しく微笑んでいる。
 その笑みを浮かべている唇が近付いて、額に触れた。
 その柔らかな感触を感じながら、叶は深い眠りに誘われていった。


2001/03/24
6474HITの由貴さまからのリクストで「風邪ねた、叶坂編」でした。
何気に社長と藤木さんにも愛されまくりの坂井です(笑)堪え性のない叶さんと、小悪魔坂井。いかがでしたでしょうか。危うく藤坂OR社坂に走りそうでした(笑)
ネタを思いつくと、下坂に加工され、叶坂とリクエストまでいただいたのに、危うい叶さん(笑)好きなんですけど、なんか私の書く話しでは報われにくい人です(笑)

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