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スケッチ



 週に一度のキーラーゴでのカードゲームを終えて、山の中腹にあるアトリエの横にある家に戻った時、朝から降っていた雨は上がろうとしていた。
 家の玄関先に、黒い人影が蹲っていた。
 家政婦が帰って明かりの落ちた家の玄関には、頼りない外灯がついているが、その明かりだけではその人物を特定することはできない。
 丸まった背中は革のジャンパーに覆われている。
 襲い掛かってくるような様子はない。
 項垂れ、ぴくりともしない。
「誰だね?」
 それでも用心して数歩離れて声を掛けると、男はのろりと頭を上げた。
 見ればその髪の毛はしっとりと水を含んでいる。
「坂井か?」
 よく知った青年だった。
「………おかえりなさい」
 掠れた声が発せられる。
 おかしい。
 こんな時間に坂井がずぶ濡れでここにいることもだが、何よりその表情が。
 どこか虚ろで、シェーカーを振っている時の隙のない雰囲気が全く無い。
「坂井?」
「カード、ですか?」
 蒼白の顔に浮かんだ淡い笑みも、幼い。
「おい、坂井」
 ただならぬ様子に見かねて、肩に手をやる。
 一瞬掠めた頬が、驚くほど熱い。
「いつからここにいた?」
 返事が返ってくることを期待せずに問うと、充血した眼が縋るように見上げてくる。
 小刻みに震える手が、私のジャケットの裾をしっかりと掴んだ。
 首筋に触れる。
 リンパ腺が腫れ上がっていた。
 坂井は私の手の甲に猫のように頬を寄せ、気を失った。


 大崎女史はすぐに駆けつけてくれた。
「これはただごとじゃないわね」
 ベッドに運んだ坂井の脈拍と血圧を取りながら大崎女史は言った。
「何か、病気かね?」
 いかにも健康そうな坂井からは想像もできないが、医者の話だ。
「いいえ、そうじゃありません。坂井くんが、遠山先生のところに来たってことがですよ」
 手際良く、診察――と言ってもキーラーゴからの帰りによってくれたので診察道具は何一つ無いが――している。
「病名は風邪。酷くこじらせてますね。坂井くんくらい頑丈ならしばらく安静にしてたら治りますよ。ところで、遠山先生は何があったのかご存知?」
「いいや。帰ってみたら、坂井は玄関に座り込んでいた。私も驚いたよ。おまけに目の前で気を失ってくれるし」
 坂井はあれから死んだように眠り続けている。
「下村とか、川中さんとか。まぁ、何か一悶着あったんだろうな。それで、すぐには見つからない場所を探してここに来たのか」
「でしょうね。下村くんと痴話喧嘩はしょっちゅうしてるけど、だいたいキーラーゴかレナか……宇野さんのところで終わるのにね。今回は坂井くんも思い切ったわね」
 言いながら大崎女史は坂井の額に掛かる髪の毛を払ってやる。
 僅かに坂井が身動ぎ、苦しげにうめいた。
「可愛い寝顔してるわね。さぁて、遠山先生どうされます?」
 大崎女史は面白くなると踏んだのか、企みを持った女の表情を浮かべている。
 退屈しない街に、退屈させてくれない連中だ。
 老若男女問わずに。
「暫らく、預かろうかなと思っている。随分と傷心のようだからね」
 それでよろしいとばかりに大崎女史は微笑んで、明日薬を持ってくると言って足取りも軽やかに去って行った。
 とっておきの傍観席に着けたわけだ。
 誰かの気配、吐息を感じる部屋。
 悪くないなと、一人苦笑った。


 雨は上がったが、快晴にはほど遠い天候だった。
 台風が近付き、去ってはまた新たな台風がやってくる。
 そんな季節だ。
 深夜の突然の来訪者は、未だ眼を覚まさずに気を失ったように眠り込んでいる。
 蒼白だった顔色は少しはましになっている。
 寝汗がひどい。
 拭いてやろうと水に浸したタオルで触れると、低い唸り声を上げて睫毛を振るわせた。
 周囲を確認するように薄っすらと眼を開け、それからパチリと眼を覚ました。
「………あ?」
 戸惑ったような声は相変わらず掠れていた。
 眼は昨晩のように虚ろではない。
「起きたか?」
 声をかけると、驚いたように坂井は私を視界に入れた。
 憔悴してはいるが、意識はしっかりあるらしい。
「遠山先生……、俺……」
「ここは、私の家だ。昨日、君を玄関先で拾ったものでね。責任を持って世話を焼いてみた」
 坂井は記憶を手繰るように眼を閉じて、すぐに開いた。
「すみません。ご迷惑、おかけして」
 気だるそうな声でカウンターの中にいる時のような物言いをする。
「しばらく、眠りなさい。随分、高い熱が出ている。もうすぐ、大崎先生が往診に来てくださる」
 そこで初めて自分の体調に気付いたらしい。
 バツが悪そうに私を見上げる。
「すみません」
「いいんだ。拾った時に飼い主に届ければ私の手間にはならなかったが、毛並みが気に入ってね。飼い主が探しに来るまでは世話をしようと思う」
 動物扱いに異議を申し立てようとして、咳こんだ。
 笑いながら背をさすってやると、荒い息をつきながら呼吸を整える。
「川中さんや下村には知られたくなくてわざわざ雨の中、こんな山奥まで歩いてきたんだろう? 無茶なことをするね。風邪をひいて当然だ」
 川中と下村の名前を出すと坂井が複雑な表情を浮かべた。
「一晩だけ、泊めてもらおうと思ったんです。まさか、自分が風邪なんか…」
「なんとかは風邪をひかないと言うしな」
 坂井の口元に苦笑が浮かんだ。
「で、家出をしたわけか」
「家出じゃないですよ。あの部屋は俺のです」
「そうだった。下村と喧嘩か?」
 ぐっと、坂井が言葉につまる。
 迷惑をかけた手前、黙秘はできないと思ったのだろう。
 どう話そうかと坂井が思案していると、玄関のチャイムが鳴った。
「大崎女史かな。もし、違うようならしらばっくれていよう」
 何か言いたそうな坂井に言ってやってから、私は客人を確認する。
 大崎だった。
 そう大きくはない診察鞄を下げている。
「おはようございます。遠山先生。子猫ちゃんのお加減はいかがかしら?」
「さっき、眼を覚ましたよ。上がってくれ。家出の理由が拝聴できるかもしれん」
 大崎女史は坂井に明らかに何か企んでいるにこやかな笑顔を見せると、不安がる坂井を他所にさっさと診察を始めた。
「38度7分。点滴の必要はなさそうね。寝汗が酷いわ。先生、何か着替えを貸してやって」
 頷いて寝室を出て行こうとする私に坂井が礼を言おうとするが、女史に服を剥かれてそれどころではない。
 大人しくしなさいと言う女史の叱責の声と坂井の情のない呻き声が聞える。
 珍しく賑やかな我が家の風景に私は思わず笑い出していた。


「で、喧嘩の原因は何かしら?」
 自分で煎れたコーヒーを口に運びながら大崎女史が切り出した。
 家政婦はまだ出勤していない。
 坂井が飲んでいるのは大崎女史が無理矢理に持たせた、ブランデーを垂らしたホットミルクだ。
「大したことじゃ、ないですよ」
「言いなさい」
 言いにくそうに言葉を濁す坂井に、大崎女史が刑事の如く詰め寄る。
「診察料がそれよ。何があったのか、洗いざらい吐きなさい」
 年上の女性の迫力に押された坂井が観念したように項垂れた。
 面白い。
「ホント、くだらないですよ」
 そう前置きをして坂井は俯き加減で話し始めた。


 それは、昨日の昼下がりから始まっていた。
 下村が何者かに襲われ、返り討ちにしたらしい。
 下村は買い物にでていて、不意に背後から硬い物を押し付けられ狭い路地裏に連れていかれたらしい。
 突きつけられたのは拳銃ではなく、モデルガンで相手は一人。
 10代か20代の若者だった。
 どこかで見たなと思ったのは、問答無用で腹にブロンズを叩き込んだ後だった。
 一発KOされた少年は、誰に雇われたのでもなく個人的に恨みがあったのだと言う。
「それが、俺が世話してるガキだったんですよ」
「ほう。坂井を慕っている少年が兄貴分の相方を襲ったのか」
「理由はなに?」
 好奇心に満ちた視線の先で、坂井がまいったように肩をおとす。
 随分と躊躇した後に、坂井は再び話し始めた。


「おい、なんのつもりだよ」
 地べたで苦しげにのた打ち回る少年の状態など気にも留めずに下村が尋ねると、少年は怯えたような眼だが、まだ怒りが収まらないと睨み上げてきた。
「まさか、坂井に言われた、なんてことはないだろうな」
 心当たりがあるからでてくる呟きは、少年の耳に届いたらしい。
「坂井さんは関係ねぇよ!! 俺があんたを気に入らなかったんだ!!」
「本人を前に断言するなよ」
 軽く鳩尾を蹴り上げながら下村が言う。
 坂井の舎弟に因縁をつけられるような事はしていないはずだが。
「俺がお前に何かしたか?」
「うるせぇ!!」
 一発で倒れたわりには根性があって、再び下村に襲い掛かってくる。
 タックルしてくる少年を軽くかわすと、無防備な腰に蹴りを入れた。
 それからしばらく下村は少年の相手をして、頃合を見て本格的に脅しにかかった。
 少年は憤怒のためか涙を流しながら自白した。
「俺、俺、坂井さんのことが好きだったんだよ!! なのに、あ、あんたが坂井さんとできてるって聞いて……。噂で、あんたがその左手で坂井さんのこと脅して無理矢理って聞いて、俺、腹が立って、あんたが許せなくて、それで………」


 数時間後、坂井の耳に下村と弟分が派出にやりあったと言う報告が入った。
 なんだそりゃと思いながら、現場となった工場跡に駆けつけると、数人の少年が地面に這いつくばっていて、それを見下ろす位置に下村が一服していた。
 周りには呆然と立ち尽くしている少年達。
「な…んだよ。これ」
 唖然とした坂井に肩を竦める下村。
 二人の間で幾人かの呻き声が上がる。
「なにやったんだよ、お前ら。まさか、下村に喧嘩売ったんじゃねぇだろうな」
「売られちゃねぇな。健気な敵討ちさ」
 煙を吐き出しながら下村が茶々を入れるが、その声が不機嫌なことは坂井にもわかった。
「どういうことだよ。説明しろ」
 下村は黙っている。
 説明したのは坂井を呼びにきたカズと言う少年だった。
 説明を聞いているうちに坂井の顔色が変わっていく。
「と、言うわけだ」
 話が終わる頃に下村が割り込んできた。
「俺は身の潔白を証明しようとしただけだよ。少なくとも強姦魔にはなりたくない」
 煙草を消して、下村がゆっくりと坂井の方に歩み寄る。
「………こいつらのしたことについては謝る。悪かった」
「いくら説明してもこいつらは信じようとしないんでな。ご本人にご足労願ったわけだ」
 距離は1メートル。
 空気が張り詰めているのを感じる。
「下村、ガキ相手にこれはやり過ぎだ」
「へぇ、そんない可愛いのか。妬けるね」
 皮肉な態度。
 言葉。
 らしくないほど、感情を露わにして下村は怒っていた。
 坂井も同じだった。
 確かに、弟分達のしたことは軽率だし坂井自身腹が立つ。
 しかし、下村はやり過ぎた。
 倒れているのは4人。
 どれも骨折しているようだし、意識がない奴もいる。
 原因が原因だけに、坂井にとってはどちらも屈辱を煽ってくれる。
「下村………」
「羨ましいよ。いろいろ大切なものを持っててさ」
 伸びてきた下村の腕が坂井の腕を取る。
「証明しろよ。こいつらの前で。無理矢理じゃないだろう? 同意の上で、自分も悦くて抱かれてるって」
「下村!!」
 右手が坂井の顎をとらえ、左手が腰を抱きこむ。
 突き飛ばそうとした時にはもう遅かった。
 下村は坂井の口唇を貪っていた。
 視線。
 面倒を見てきた少年達の目の前で、男に蹂躙されている自分がいる。
 プチンと、頭の中で切れた。
 堪忍袋の緒が。
 鳩尾に一発入れた。
 倒れなかった下村の横顔にもう一発。
 それでも倒れない。
 それでいい。
 ぶったおそうとは思っていない。
 ただ、怒りをぶつけたかっただけだ。
 下村の眼。
 感情が読み取れなかった。
 無表情なわけではない。
 わからなかった。
「お前ら、もう馬鹿なことするんじゃねぇぞ」
 下村から視線を剥がして、さっきから一歩も動けないでいる連中を一瞥すると、坂井は工場跡から去った。
 ひどく、惨めでやりきれない思いだった。
 その日、店にはいつも通りに出た。
 下村は坂井に殴られて痣を作っていたせいか、フロアには出てこなかった。
 川中は何があったのか知っていて、ほどほどにしとけよとだけ言って店を出た。
 それから、下村と一言も会話をしないままアパートに戻ると、先に下村が来ていた。
 自分の塒に帰れよ。
 そう言った坂井に、下村は険のある視線を向けてから抱かせろと言う。
 かっとなってもう一発殴って、坂井は踵を返した。
 歩きながら考えた。
 誰にも会いたくない。
 川中にもだ。
 ことに過剰な反応を示す自分が情なくなる。
 冷静になって、それからいろいろ考えよう。
 何に対してこんなに腹が立つのか。
 下村が何を考えているのか。
 とにかく、どこか、あまり人に会わない所へ……………………財布がない。
 車のキーもアパートだ。
 取りに帰る気は起きなかった。
 ふっと思いついたのが遠山のアトリエだった。
 そこまで歩けば冷静にもなれるだろう。
 突然振り出した雨が、冷静にするどころか躰の熱まで奪いに奪ってこの状況に至る。

 居た堪れないのか、坂井はカップを口元にあてがい顔を隠している。
「嫉妬してるのね、下村くん」
 まるで、保健室の先生と悩み多き生徒のような図だ。
「それにしても、モテるな。坂井は」
 男に。
 という言葉は飲み込んで、言ってやる。
「あいつら、馬鹿なんですよ」
 情ない声で坂井が呟く。
 自分を陵辱した男と同じ職場で仕事ができる人間がどこにいる。
 だいたい、坂井がやられてそのままにしているわけがない。
 少し考えればわかる。
「下村もやりすぎだな」
 らしくなく熱くなっているのは、坂井が絡んでいるからか、大崎女史の言うように嫉妬のせいか。
「事情はだいたいわかったわ。いつもの痴話喧嘩に少し色がついてるみたいだけど、大丈夫よ。好きあってるからできる喧嘩よ。それは」
 坂井は黙ってカップを傾ける。
 それに微苦笑を浮かべ、大崎女史は腰を上げた。
「お店の方には私から連絡してあげるわ。遠山先生だとばれてしまうし。下村くんを慌てさせながらお酒飲んでこようっと」
 ご馳走様と美麗に微笑んで、大崎女史は去っていった。
 残された坂井は気まずそうに躰を小さくしている。
「女性は怖いな」
 言うと、坂井は笑おうとして咳き込んだ。
「寝ていなさい。まだ、熱は下がっていないんだ」
「呆れたでしょう?」
 大人しく枕に頭を落としながら、坂井が困ったような笑みを張り付かせた。
 疲れたようにも見える。
「いいや。羨ましいよ。眠りなさい。気絶するほどの熱を出したんだ。躰を休ませないと」
 近付いて額に濡れたタオルを換えてやる。
 坂井は気持ちよさそうに眼を閉じた。
 猫のようだ。
 そういえば、叶がブラッディ・ドールでこんなことを言っていたことがある。
 坂井は猫の皮を被った犬だと。
 仕草は猫のようにしなやかなのに、性格は犬のように懐っこい。
 坂井は今のように困ったように笑ってグラスを磨いていた。
 疲労と憔悴に引き摺りこまれるように坂井は眠りだした。
 構えるだけの気力もない坂井の寝顔はあどけない。
「息子、か」
 玲子を娘のようだと感じて、男女の関係を結んだことを後悔した時期があった。
 その苦い思いとは違う。
 息子だなどと思いようもないくらい成長した青年だ。
 が、こうして見るとまだまだ若いのだ。
 未熟だとは言わないが、まだまだ若いのは確かだ。
 たまには、悪くない。
 親子ごっこも。

 坂井が寝付いてから私はアトリエに降りて、ラフスケッチを描きはじめた。
 珍しく人物画が出来始めていた。
 無意識に表れてくるシルエットに苦笑して鉛筆を置く。
 一休みしようかとイーゼルの前から立ち上がったところで、遠慮がちなノックが聞えた。
「どうぞ」
 家政婦かと思って応えたが、入ってきたのは坂井だった。
「どうした?」
 聞くと、また困ったように笑って、
「一人だと、寝れなくて」
 そんなことを言った。
「子供みたいなことを言う。入りなさい」
 坂井を中に入れ、家政婦に毛布を持ってくるように言う。
 坂井は、アトリエの隅に置いてある来客兼休憩用のソファーに寝かしつける。
 長身の坂井だが、足が飛び出ることもなくうまく収まった。
「邪魔になりませんか?」
「邪魔をしてもらった方がインスピレーションが沸くかもしれない。そんな状態でね。気にすることはない」
 家政婦の持ってきた毛布で坂井を包み、安静にしてやる。
 額に手をやると先刻と変わらない熱を訴えている。
 ソファーに埋もれる姿が小さく見える。
「病気の時は誰でも心細くなるものだ。側にいてやれば良かったな」
 頭を撫でてやると、坂井が俯く。
「変な、夢みたんです。もう、二度と見たくないような」
 俯いた顔を覗くと、辛そうに顔を歪めている坂井が見える。
 眼が潤んで見えるのは熱のせいだけだろうか。
「どんな夢だ?」
「え?」
「言葉にしてしまえば、私が夢だと笑ってやれる」
 必要以上に私は坂井を甘やかしたがっている。
 坂井の胸のうちに、この存在を広げようとしている。
 おかしな感じだったが、やはり不快ではない。
 自分で自分を少し呆れるだけのこと。
「優しいですね。先生」
 頭を撫でられていることに照れるのか、はにかみながら坂井が言った。
「どんな夢だった?」
 問うと坂井は眼を閉じる。
 頭を撫でている私の手に擦り寄るような仕草を見せる。
 叶の言葉は的を得ている。
「人が死ぬ夢でした。たくさん。最初は親父の顔してた人が、藤木さんや叶さんや、その、知ってる人達に変わってって、それから………」
 まだ、坂井の前で生きている連中の顔になる。
 悪夢だろう。
 死んでいった者達を夢に見るだけならいい。
 例え悪夢であろうと、連中が自分の中で生きている証拠だと言える。
 坂井になんらかの物を託して死んでいく者たち。
 そんな物を残して欲しいわけではないのに、残され、遺して逝ったモノを抱えることになっている。
「俺は何もできなくて、ただ見てるだけだった」
 苦い告白は夢についての告白だろうか。
「夢だ。ただの、性質の悪い夢さ」
 言ってやると、坂井は淡い笑みを口元に刻んで見せた。
「寝付くまで………」
 言いにくそうに坂井が言う。
「俺が寝るまで、手、そうやっててくれますか?」
 思わぬ甘えを見せる。
「随分と弱っているようだな」
 笑ってやると、
「病気ですから」
 と返した。
「そうだったな。わかった。子供扱いしておこう。眠れるうちに眠りなさい」
 クシャリと割に柔らかい髪の毛に指を埋める。
 熱が逃げるのか、坂井は喉を鳴らしそうな表情を浮かべている。
 それから、暫らくして安らかな寝息が聞え始めた。
 それでも、私の手は坂井から離れなかった。


 夕方になって、下村から電話が入った。
 声に張りがない。
 一日中、N市を走り回ったのだがどうしても坂井の居場所が掴めない。
 店は欠勤すると言ってきたのは、なんと大崎女史だ。
 大崎女史が絡んでいるということは、この雨の中を飛び出していって風邪でもひいいたと言うことか。
 車を使っていないからそんなに遠くにはいけないはずだ。
 この際仕方ないと、坂井の手下共とも協力しているが、成果はない。
 晩方からは手段を電話に絞り、心当たりを片っ端から当たっているらしい。
 みんながみんな、
『坂井にまた何かしたのか』
 と、味方にはなってもらえそうもないセリフばかりをくれるのだと。
 何があったのかと、白々しく尋ねると下村は言葉を濁し、自分が悪いのだとだけ言った。
 もう暫らく傍観するかと知らぬフリをすると、下村はそうですかと言って割とあっさりと電話を切った。

 翌日、坂井は完全に熱を下げ、すっきりと眼を醒ました。
 私が朝、眼を醒まし外を眺めると夜が明けようとしている海の方を眺めている坂井の背中を発見した。
 煙草を銜えているのか、白い煙がふうわりと頭上に立ち昇っている。
 フローリングの上に座り込んで、膝を抱えるようにしている。
 後姿はどこか置いてけぼりを食らわされた子供のような印象を受けてしまう。
 どうもやたらと坂井の、子供らしさを見出してしまう。
 ふっと、坂井が振り向いた。
「あ、おはようございます」
 近くに持ってきていた灰皿に吸殻を押し付けて挨拶されたが、その声は案の定掠れてしまっている。
 全快というわけにはいかないようだ。
「あぁ、おはよう。体の調子はどうだ?」
「悪くないです。ちょっと喉がいがいがするけど」
 言いながら、喉をさすってみる。
「それで、煙草なんか吸ってちゃな」
「一本だけです」
 灰皿を定位置に戻し、はにかむ。
「すみません、なんか、滅茶苦茶迷惑かけて」
 ぺこりと頭を下げる。
 顔色はいい。
 体調は確かに悪くないようだ。
「朝食は入るかな?」
「俺、作りますよ。大したものできませんけど」
 今日は家政婦は休みだ。
 坂井の申し出はありがたく受け入れることにした。
「昨日の夕方に下村から電話があった」
 簡単ながらも、男料理だと馬鹿にできない朝食を食べている途中に言い出すと、坂井はトーストを口に運んでいた手がピタリと止まった。
「とぼけておいたが、どうも大変なことになっているらしい」
「……大変なこと、ですか?」
「お前の世話をしている連中と共同で、探し回ってるんだと」
 瞬間、坂井はひどくいやそうな顔をした。
 ことが大きくなりすぎたと悔やんでいるのだろう。
「そろそろ帰ってやらないと、今度は下村がダウンするんじゃないか?」
 先生は見方じゃなかったのかと、眼で語られる。
 苦笑すると、坂井は嘆息しつつトーストを齧った。
 胸内には迷い。
 その姿がどうも微笑ましく思えて、私は忍び笑った。

 ドアのチャイムが鳴ったのは、昨日下村から電話があった時間。
 ブラディ・ドールの開店時間間際だ。
「坂井、来てませんか?」
 昨日の電話の口調と同じ、僅かに疲労を滲ませた声。
 さすがに、ここまでされるととぼけるわけにはいかないような気がしてしまう。
 自己嫌悪に苛まれる様は哀れに映る。
 ふっと視線を家の中に投げると、
「お邪魔、してもいいですか?」
「あぁ」
「すみません」
 遠慮しながら下村が上がりこむ。
 坂井はリビングのはずだ。
 朝から起きだして、世話になった礼だとか言って、アトリエの整理を手伝ってくれたはいいが、やはり病み上がりでの労働は酷だったのか、午後になってリビングのソファーで仮眠をとっている。
 ベッドで寝ろと言えば、店には出たいからベッドで寝れば行けなくなると、ソファーに転がった。
 下村を先に通して後を追うと、下村はぐるりと部屋を見渡して坂井を見つけると、肩を落とした。
「ったく。人が街中駆けずり回ってる間にお前はぐーすか寝てたのかよ」
 苦い笑いを混ぜて呟くと、ソファーに歩み寄り膝をついた。
 再び吐き出された溜息に、下村がここまで抱えていた不安が溶け出していくのを感じる。
「普段は冷静なのに、どうしたんだ?」
 その背中に話し掛ければ、下村は参ったとでも言うように頭を掻いた。
「冷静に見えますか?」
 困ったような笑みを浮かべた口元は歳相応。
 ダイニングに手招きして、坂井がいれてくれていたコーヒーをメーカーから注ぐ。
 店はどうしたのかと問えば、遅刻か欠勤だと言ってあると言う。
「冷静に、見えるがな」
「とんでもないですよ。俺は坂井にいかれてるんですから」
 臆面もなく吐き出された言葉にどんな顔をすればいいのかわからなくなる。
「できることなら、坂井の記憶の中から藤木って人や叶さんなんかのことを消してしまって、どこか誰の手にも触れないところにでも監禁しておきたいくらいですよ」
 虹彩の薄い双眸はガラスでできているようで、この双眸を害為す者として見ればぞっとするだろうと想像させる。
 凶悪なセリフだが、下村の素直な気持なのだろう。
「でも、そんな坂井じゃ俺が惚れなかっただろうから、自業自得と言う気もしてはいるんですよ。そんなトコロにガキが吠えてくるから腹がたったんです」
 溜息とともに下村は続ける。
「こんなんだから、ガキが言うように坂井もひょっとしたら無理矢理って思ってるのかもしれないとか考えたら、たまんないんですよ」
 そんなことを考えていたのかと驚かされる。
 普段そんな素振りは欠片も見せないくせに。
 素直じゃないのは坂井だけではないらしい。
 開き直りが早いのは下村の方が、早いのかもしれないが。
 周りの人間はこの二人の仲のよさを疑いもしないが、本人達はそれなりの悩みを抱えているらしい。
 普段荒っぽいことをこなしている屈強な男二人が、初々しくも恋人の胸中を計りかねて困惑している様子は滑稽にも、微笑ましくも映る。
「坂井が熱を出して寝ている間に、寝言で君を呼んでいた」
 ちらりと下村が私の表情をうかがう。
 どうやら、自信喪失中らしい。
「心細かったんだろう」
 暫らくの沈黙。
 ごそりとソファーで坂井が寝返りをうつ気配。
「……しも……む……」
 微かだが聞えた。
 下村がふっと笑う。
 『惚れた弱味』そのままな笑い方だった。
 またソファーの上の坂井が蠢く気配。
 かと思うと、どさっと派手な音がしてソファーから転げ落ちた。
「痛っ」
 小さな悲鳴に、目を丸くしていた下村も笑い出した。
 私も失礼かと思いながらも笑いを殺せない。
 下村が甘い嘆息を吐き出して、立ち上がった。
 すたすたとソファーに近付き、ひょいと膝を折った。
「よう」
 そんな第一声に、坂井が目の前に現われた男の名前を呼んで絶句した。
「なんで……」
 床のラグの上に転がったまま、坂井は寝起きの声で問う。
 下村はその顔を真上から見下ろして笑っている。
「行方不明になった天使を探してたんだよ」
「……遠山センセ……っ」
 裏切ったなと言う目を向けられる。
「遠山先生の通報じゃないぜ? 俺が心当たりの家出先にガサ入れしてきたんだ」
 と言うことは、川中の家にも言っただろうしキドニーの所も桜内の所も捜索済みと言うことか。
 この様子だと、土崎の船にまで顔を出したのかもしれない。
「なんだよ」
 坂井が不機嫌丸出しの視線を厳しく下村に向ける。
 困ったように下村が苦笑している。
 この二人の夫婦喧嘩のパターンはなんとなく想像がついてしまう。
「ごめん」
 零れるように発せられた謝罪の言葉に、一瞬だが坂井が泣き出しそうな顔をした。
 ほんの一瞬だったが。
「ごめん」
 もう一度、下村が言う。
 坂井はきゅっと眉間に皺を寄せて、転がったままの体勢で、下村の頬に手を伸ばした。
 お邪魔だろうかと考えていたところに、ばちーんと言う痛々しい音が響いた。
「イッテ―!?」
 両頬を押さえた下村が悲鳴をあげる。
「なにすんだよー」
「うるせぇ、ばーか。少しは反省したのかよ」
「したよっ」
「ホントかよ」
 坂井の声から険しさが抜け、からかいの色を含む。
 まったくいいコンビだ。
「やれやれ、仲直りは終わったのか?」
「なんとか」
 答えたのは下村だった。
「ご迷惑をおかけしました」
 少々かしこまって坂井が頭を下げる。
「この貸しは酒で返してもらうよ」
 坂井が頷く。
 時計を見ればブラディ・ドールの開店時間寸前だ。
「遅刻だな」
「お前、熱出したんなら今日はやめとけよ」
「治った。行く」
「はいはい」
 鴛鴦夫婦め。
「今晩、飲みに行くよ」
 お待ちしてますとの返事。
 こうして家出天使は、この家を去った。
 お喋りなわけではないが、表情や背中が雄弁だった坂井が去るだけでがらんとした家になる。
 これは飲みに行かなければ。
 奇妙な淋しさが胸をしめる。
 こんな時にはキャンバスを前に集中してしまったほうがいい。
 イーゼルにたてかけたままのキャンバスには、家出天使をイメージしてしまった人物のラフスケッチが描かれているはずだ。


 その日のブラディ・ドールには数日振りににツーカーのバーテンダーとフロアマネージャーが揃い、問題なく店を運営した。
 やってきた顔見知りの連中に夫婦喧嘩は終わったのかなどとからかわれながらも、ポーカーフェイスを崩さない坂井の酒を飲む。
 適量飲んだところで、今日はキーラーゴでのゲームをしに向かおうと席を立った。
「遠山先生」
 車のドアに手をかけたところで、川中の声に呼び止められた。
「うちの弟たちがお世話になったそうですね」
「世話というほどの世話もしてないが、君のところのネコを数日預かったくらいだよ」
「アレ、面白いでしょ?」
 子供のように白い歯を見せて言った。
「そうだな。ネコも可愛いが、マネージャーも負けず劣らず可愛かったよ」
 ほう、と意外そうな顔になる。
 いいモノ見ましたねとのこと。
 まったく、遊び心を忘れない連中ばかりだ。


2001/04/24
リクエストは、坂井がみんなに愛されてる話だったのですが、世にも珍しい遠坂……!?あんまり大勢を絡ませることができませんでしたね(^^;)下村もあんまり出てないし。遠山先生一人称です。ちょっと軽めな先生になってしまいましたが。親子ごっこですね。コレは。もうちょっと深い話しが書きたかったのですが………坂井の舎弟連中がシモムに喧嘩売るのとか、もう一回やりたいです(笑)

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