開店前のブラディ・ドールは凍りつくような寒気にみまわれていた。
日本には四季があって、夏の次は過ごしやすい秋のはずなのにブラディ・ドールはその秋を通り越して真冬である。
氷河期である。
氷河期到来の原因はカウンターの坂井と、そこから一番離れたところにいる下村の存在だった。
従業員はただそこにいるだけで緊張感を持たせる二人の機嫌の悪さに、いつも以上に張り詰めていた。
そして、こうも思った。
(また痴話喧嘩か……)
従業員がそれぞれこっそりと溜息をついたところで、いつもの時間。
川中が入ってきた。
まず入口で下村と言葉を交わし、すぐに事情を察したのかにやりと笑った。
それからポンと下村の鳩尾に手の甲をぶつけて、歩をカウンターの方に進めてきた。
スツールに座って一呼吸おいて、すっといつもの酒が差し出される。
冷たいうちに飲み干して、それから揶揄の含まれた視線を向けた。
「何か?」
業務用の言葉遣い。
開店前、カウンターに座るのが川中しかいない時、坂井の口調は砕けたものになることが多いのだが。
「また喧嘩か? フロアがピリピリしてるぞ。気付いてやれよ」
「ピリピリしてんの、あいつだけですよ」
言われて川中は顔を上げ、しみじみと坂井の顔をうかがった。
確かに今回の喧嘩はいつもと違うようだ。
喧嘩をしたような雰囲気の時の坂井は不機嫌さを滲み出していて、表情を見れば一目瞭然。
どちらかと言えば、下村の方が余裕気味で坂井の反応を楽しんでいる節があった。
それが今日は形勢逆転しているようだ。
坂井は悪ガキに罰を与えて、それを離れてみている大人の顔をしている。
冷静ないつもの手付きでグラスを磨いて準備をしているのだ。
意外だ。
「何をやらかしたんだ、下村は」
入口で言葉を交わした下村は確かに少し元気がなかったように思われた。
「浮気してたんで、俺も似たようなことしたってだけですよ」
背後の下村にちらりと視線を投げていた川中は、そんな坂井の言葉に耳を疑い、彼にしては珍しく驚いたように坂井をもう一度見た。
坂井は薄く笑みを浮かべたように見えた。
すいっと長い手が伸びてきて、空になったグラスを下げた。
こんな坂井は見たことがないと川中は思う。
「夫婦喧嘩からもう離婚か?」
「誰が夫婦ですか。そんな大事じゃないですよ。ちょっと頭冷やしてやってんです」
言いながら視線が一瞬フロアの隅に向かう。
思わず気にしてしまったというようないつもの視線の流し方ではなく、どんな様子かなと観察するような余裕のソレ。
「だいたい、あの野郎がそんな簡単に別れてくれるわけないですよ」
川中は今度こそ耳を疑った。
そして、しげしげと自慢のバーテンを見つめた。
これは偽物じゃないだろうかとでも言うように。
しかしさっき口にしたドライ・マティニィは紛れもなくいつもの味だった。
グラスを磨く音も耳に慣れた音。
坂井はそんな視線に不審そうな顔をする。
さっきのセリフは川中にはかなりの惚気に聞えたのだが、坂井が伝えたい真意は違ったのだろうか、それとも自覚がないのか。
『あの野郎がそんな簡単に別れてくれるわけないですよ』
つまりは、別れる心配なんかないくらいに下村は自分に惚れているのだと言うことではないか。
確かにそうだが。
坂井の口調はあくまでうんざりしたような呆れたものだが、きっと気持ちのどこかではそんなどこか甘い、普段の二人の関係とはまた違う信頼があるのだろう。
駆け引きを楽しんでいるような。
店が終わったら赤提灯で捕まえて事情を聞いてやろう。
今日は珍しく下村をからかって遊べそうだ。
笑みを浮かべたままの川中が席を立つ。
坂井は軽く頭を下げてそれを見送る。
視線は追いかけては来なかった。
店を出る前に、ボーイに話し掛けている下村の表情を盗み見た。
どこか沈んでいるようだった。
時々下村は、普段の彼からは想像できないくらいに馬鹿らしく子供地味た行動をすることがある。
まさにそれは好きな子の気を引きたいがために、その子に意地悪をする悪ガキそのもの。
同じ職場なのだから、就労時刻もその後の予定も知れいているし行動を共にする。
それをわざとずらして、理由もないままに帰宅を遅らせてみたり(それでも帰って来るのは坂井がいる部屋になるのだが)。
女物の香水の匂いを纏わせてみたり。
店の女の子を送っていくから先に帰れなどと言い出すときは上等な方で、坂井の部屋に放って帰ったシャツに口紅をつけていた時は、本気でこの男との関係を考え直そうかと思った。
どれもわざとらしさもなく、本気で浮気じゃないのかと疑わせるものならまだ策士とも呼べるのだが、どれも坂井に嫉妬させたいがための行動と一目瞭然なところが悲しい。
坂井も馬鹿ではないし下村との付き合いも深いから、それくらいは見抜ける。
別に浮気を本気にしているわけではないが、あまりに稚拙なその気の引き方が気に食わないで、度々喧嘩をしてきた。
先日は下村が泊まりに行くと言ったのをすっぽかして、朝帰り(?)をした上に香水の匂いを漂わせていたことが発端だった。
香水の匂いは坂井の嗅いだことのある匂いだった。
下村は坂井がそういうものに興味を示さないと思っているから、嗅ぎ分けなどできないと踏んでいたのだろう。
店の女の子のものは入り混じってしまって判別できないが、坂井が親しくしている数少ない女性のものくらいは判別できるのだ。
例えば、山根知子とか。
どうせ坂井がヤキモチを妬くかどうかを賭けにでもして、山根の香水を失敬したのだろう。
ドクも共犯のはずだ。
わかりきった罠に坂井はかかってやる気は毛頭なかった。
そろそろ思い知らせてやろうと思っていたのだ。
いい機会だとばかりに。
逆に罠を仕掛けてみた。
『ふぅん。俺に飽きたの?』
坂井のセリフに下村はかなり狼狽していたようだった。
普段の自分なら殴るか蹴るかして、怒鳴り散らして部屋を出て行くところだろう。
自分に飽きたのか。
なんて、絶対に口にしそうにない言葉だ。
言葉を失っている下村の前で、深刻ぶった溜息を一つ。
『ま、仕方ないけどな』
自嘲気味な笑み。
そのまま黙って踵を返した。
その日はレナV世の船内で眠った。
問題は次の日だった。
レナV世から自分の部屋に帰ってシャワーを浴びて、朝食の準備をしている頃に下村がやって来た。
予想通りだった。
しょぼくれた、叱られた犬のようなイメージを持たせる。
普段はどうしようもなく気障でニヒルで憎たらしいほどの余裕を見せる男が、だ。
ざまぁみろ。
インターフォンを鳴らして、坂井が素直に部屋に上げたのを意外そうに見つめていた。
いつもと違う坂井の態度。
それに怯えている。
ほんっと、ざまぁみろ。
下村は坂井の部屋のダイニングに突っ立ったまま、台所でコーヒーを入れる坂井を見ている。
「坂井、昨日……」
「何?」
坂井らしくなく静かに怒りを込めた声。
坂井は下村との痴話喧嘩でこんな声は出さない。
もっとわかりやすく、殴る。
または、蹴る。
「調子に乗りすぎた。反省してる。女のトコに行ったってのは嘘で、行ったのはドクと山根んトコ。ほんと、ゴメン」
頭を下げる下村の前に、コトリと静かな音をたてて下村がいつも使うカップが置かれた。
下村がしおらしくなったのは、さすがにいつもと態度の違う坂井に関係の危機を感じ取ったから。
坂井の気を引きたいがための行為が関係崩壊になったのでは元の木阿弥だ。
「あ、そ」
短すぎる一言に、下村の体が強張りおそるおそる頭を上げた。
ゆっくりと上がっていく視線が、ふと何かを捕えて静止した。
風呂上りの坂井はジーンズに首から引っ掛けたタオルだけの恰好だ。
露わになった長い腕。
その二の腕に浮かび上がる赤い鬱血痕に目が奪われた。
そんなところにつけた覚えがなかったから。
下村の回転のいい頭が働いて、とある考えにいきあたったところで真っ白にスパークした。
下村以外の人間のつけたキスマーク。
それが何を意味するのか。
打ちのめされた気がして、下村は言葉をそれきり失った。
何も告げない坂井の姿勢に、自分がしでかしたことの重大さと馬鹿馬鹿しさを思いしらされる。
「俺、他の奴と寝るような野郎に抱かれる気はねぇよ」
全てを物語った坂井に何も言えず、下村はそのまま坂井の部屋を出た。
そして、今。
ブラディ・ドール営業時間に至る。
従業員にとってはやり辛いことこのうえない営業時間が終わりに近付き、宇野がいつものようにやって来た。
下村の出迎えに早速何か察して、にやりと笑う。
それからカウンターの方へやって来て、坂井の表情をうかがった。
ジャック・ダニエルを差し出して、坂井は何かと目で尋ねた。
「下村がしょげてるぞ。また喧嘩か?」
川中と同じことを言う宇野に坂井が苦笑する。
「えぇ、まぁ」
そんな返事に宇野が珍しく目を大きくして驚きの表情を露わにした。
二人の痴話喧嘩はしょっちゅうだが、ワンパターンがいいところ。
下村が余裕でいて、坂井が怒っている。
少し時間がたつと、おあずけを食らった下村がしょげてしまって、坂井は変わらず不機嫌でいる。
そんなところだ。
二人の喧嘩で坂井がこんな余裕でいることなどない。
坂井のことを馬鹿ではないが、学習能力の低い奴だと密かに思っていた宇野にとっては驚きだ。
「何したんだ?」
「浮気」
ゴホっと宇野が咳き込んだ。
濃いパイプの煙をいきなり飲み込んでしまったらしい。
咳が白い。
「大丈夫ですか?」
「あ、あぁ。大丈夫だ」
苦しそうに胸を撫で下ろしながら宇野は坂井の顔色を窺う。
これはとうとう切れてしまったかと。
が、ここは宇野。
切り替えは早い。
「で、浮気相手は誰なんだ?」
グラスを磨きながら坂井が、それがと言う。
「募集中なんですけど」
と。
「宇野さん、相手してくれます?」
滅多にないカウンターでの笑顔で、さらに小首を傾げるアクションをつけて坂井が言った。
いろんな意味で絶句した宇野だが、今日の坂井はテンションが高いのだと悟ると口角を持ち上げた。
背後から下村の視線をじわじわと感じるのが面白い。
「じゃじゃ馬の相手なんかゴメンだな」
「ちぇ」
閉店間近、客も宇野以外はいない。
そんな状況で坂井の口調や表情も崩れている。
「種明かしをしろよ。坂井」
コトコトと催促するようにグラスの底でカウンターを叩く。
坂井はお見通しかとつまらなさそうな顔をすると、唇を動かすことなくことの真相を明かし始めた。
勿論、下村には聞えない声で。
「で、誰にキスマークなんかつけさせた? 桜内だったりするんならそのままで済むわけないだろう」
粗方の話を聞いて宇野が尋ねてきた。
「自分です」
あっさりと答える坂井。
なるほど、と宇野が笑った。
「二の腕だし、ばれるかなって思ったのにあの野郎気付かねぇし。ささやかな仕返しですよ」
いつもくだらないことで坂井を妬かせようとする。
何でもないふりをするが、本当は胸が痛んでいる。
そんなこと知らないだろう?
お前が浮気してきて、その相手に嫉妬するなんてお前に本気で惚れてることを表してるみたいでゴメンだから、そんな素振り見せないように見せないように。
本当はお前が浮気なんかしないってわかってるけど、それでも不安にはなる。
だけど、悔しいから知らん振り。
だいたい、そんなことして気を引かないでも、体を繋げて同じ部屋で同じベッドで眠ってる。
照れ屋な坂井にしてみればこれ以上ないほどの意思表示なのに、満足しろ馬鹿野郎。
下村が身に付けてくる女物の香水の匂い。
そんなものに嗅覚侵される気持ちを、少しは味わってみろ。
「で、いつまでこの状況が続くんだ? 入口であの面を見ると情けなくなってくるんだがな。酒の味も落ちる」
くっくと低く笑いながら宇野が言うから、坂井はそうですねと考える。
気は済んだ。
「明日は気持ちよくお迎えできるかと思いますが」
そう言って楽しげに微笑むバーテンのその微笑は既に宇野にではなく、どうしようもないフロアマネージャーに向けられていた。
閉店後、坂井に晩飯奢れというお言葉をいただいた下村は、尻尾と犬耳の幻想を坂井に見せて喜んだ。
誤解を解きあう二人の会話を聞いていた川中は、坂井だって簡単に下村と別れるわけがないのだろうと確信したとかしないとか。
そんなこんなで、今回の痴話喧嘩も無事に終わり、ブラディ・ドールには平和な営業時間が取り戻された。
2001/12/02
下村、セリフねぇ!!!しかもヘタレ!!!!絶賛坂井直司男前増量キャンペーン中です。増量できてるでしょうか。余裕のある坂井となさすぎ下村でした。
ちょっとわけわからん感じなんですが、余裕で微笑む坂井とか書いててかなり楽しかったッス。逆を返せば、絶賛格好悪い下村さんキャンペーンv一周年記念の(仮)小説ということで。