The Pattering of Raindrops



「……」
 月曜の昼間。
 昨日清掃会社をいれた店の点検のため早めに店にやってきた坂井は、一通り目を通してからソファーに腰を降ろした。
 明るさを絞った照明と窓のないフロアは、まだ昼間なのに時間の感覚を狂わせて夕方以降だという錯覚を抱かせる。
 昼間の店の雰囲気はいつも独特で、自分がここに私服で存在していることや誰の気配もしないというのが、どうも妙な感じに思えてしまう。
 藤木がいなくなってから、閉店後にこの店内に一人でいた時期はあった。
 それとは感覚が少し違う。
 自分でもよく飽きないなと思うほど、日々繰り返される日常日常。
 例えば、フロアの片隅に立つ男が変わる。
 それでもそれはすぐにこの空間に溶け込んで、違和感なんか抱かせる間を与えない。
 何もかもが、坂井がすぐに受け入れるような形に変化していく空間。
 バーテンとしてその中に立つ坂井を包む、優しい空間。
 でもそれは残酷な空間にも成り得る。
 今となっては、他の酒場で酒を作ろうとは思わないけど。
 フロアの色。
 客席の位置。
 照明の強さ。
 カウンターの大きさ。
 酒棚の位置。
 カウンターから見える風景。
 そして、音。
 全て坂井の一部になった。
 耳に染みたピアノの音も。
 音楽なんか全然興味ないし、聞き分けなんかできないけれど、沢村のピアノは別だと思う。
 音楽、というよりはまるでこの店の呼吸音。
 舌に関してはバーテンだし自信はあったが、耳の感覚が鋭くなったのは沢村のピアノのおかげだと思う。
 店の中に置かれたピアノは、存在感はあるのにそこにひっそりとあるような、やはり店の一部になっていた。
 川中がこの店に墜ちてきたピアニストのために購入したピアノ。
 時々雨垂れで川中が弾いていたが、何分レパートリーがないためにすぐに飽きてよく坂井に何か弾けないのかと聞いてきたものだった。
 その度に弾けるわけないでしょと答えていた。
 今じゃそんな会話、しないけど。
 実は一曲だけ、雨垂れで弾ける曲がある。
 恥ずかしいから黙ってたけど。
 小学生の頃だ。
 まだ父親が生きていた頃だ。
 小学校の音楽発表会か何かで、ハーモニカを吹いた。
 それで覚えたドレミの音階を、今でもなんとなくだが覚えている。
 一生懸命練習していた自分がいた。
 誰もいない店内。
 ふと思い立ってピアノの前にたってみる。
 綺麗にしてあるピアノの蓋をそっと開けてみる。
 曲は聞き分けられても、ピアノという楽器の良し悪しなんかはわからない。
 ただこのピアノが、沢村と一緒になって店に流れる音を紡ぐのを見てきただけ。
 他の男の指はお嫌いですか?
 そんな問いかけ。
 一拍、返事を待つようにおいてから指を乗せてみる。
 ポーンと乾いた音を響かせる。
 ド……の鍵盤……
 探して、指を順番に這わせる。
 最初の音は……
 探して、鍵盤を押した。
 はっきりとした記憶があるわけではないけれど、一生懸命覚えた楽譜。
 自然と指が動き出していた。
 たどたどしいけれど。
 なんだか楽しくなって、坂井に自覚はないけれど自然と笑みが浮かんだ。
 ちょっとハイになっているのかもしれない。
 昨日は下村のおかげでほとんど眠っていないし。
 その前には面倒を見ている連中が面倒を起こして、その事後処理をした。
 ポツリポツリと鍵盤を鳴らして。
 ただ鳴らしているだけだな、と沢村の凄さを実感してなんとか最後まで弾いて自己満足する。
 とたん欠伸が出た。
 下村は今日は本社の方に顔を出すと言っていたはずだ。
 少し遅くなるかもしれない。
 だいたいまだ昼間だ。
 開店まで時間はずっとある。
「……ねむ……」
 欠伸をしながら呟いて、坂井はそのままソファーに突っ伏した。
 眠りはすぐに訪れた。


「……おやおや」
 穏やかな声は夢の国にいる坂井には届かない。
 ソファーに伏している坂井の肩が上下している。
 人の気配がしても起きないところを見るとお疲れなのだろう。
 薄く開いた唇が、あどけない。
 楽譜を忘れてしまい、本社に寄って下村から鍵を受け取ったばかりだ。
 いろいろと邪推はできる。
 微笑ましいことではあるな、と沢村は笑うとロッカールームに何故か置いてある毛布をもって帰ってきた。
 裏口のドアを開けた時には、ポツリポツリとだがピアノの音がしていた。
 おそらく坂井だろうと思って顔をのぞかせると、あまりに可愛らしい顔をして嬉しそうに鍵盤に指を滑らせる坂井がいたから声をかけそびれた。
 雨垂れの曲は『星に願いを』。
 選曲も可愛らしい。
 弾き終わったら坂井はあっと言う間にソファーに伏して眠りだしてしまったのだ。
 喉の奥で笑いながら、沢村は音をたてないようにピアノの前に座った。
 先刻の坂井とは違う触れ方で、鍵盤に触れた。
 ペダルを踏む。
 起きるかもしれないな、と思いながらもそっとそっと。
 スローテンポで流れる曲はこの店の名には似合わないほどに可愛らしい。
 星に願いを。
 天使の安らかな安息が、少しでも長く続きますように。


「…………あ」
 と、ソファーの上の毛布の塊が声を発した。
「あっ……、時間!」
 第二声とともに起き上がる。
 フル回転しているだろう坂井の頭がこの場所と時間を認識する前に、目の前にいる男が教えてやる。
「まだ準備前だ。起きるには丁度いい時間かな」
「……下村」
「おう」
 向かいのソファーには下村。
 起き上がった坂井は寝起きの顔で寝乱れた髪をかきあげる。
「準備前? けっこう寝た気がするのに」
「ぐっすり寝てたからじゃないか? 俺が来たのも沢村先生が来たのも気が付かなかっただろう?」
「沢村先生が? 来たのか? ここに?」
 質問を繋げる坂井に苦笑して、下村は義手に挟んでいた煙草を右手に持ち替えた。
「昼頃かな? 楽譜を忘れたからって本社に来て鍵を渡した。返しに来てくれたときに店で坂井が寝てるぞって教えてくれたんだ。無茶するなって言われちまった」
 全てを坂井が理解しにくいような言い方をする。
「全然気が付かなかった……」
 最後の一言は案の定、坂井に理解されていない。
「まったく。来たのが沢村先生じゃなくてドクとかだったらどうする気だよ。そんな無防備な寝顔さらして。お前、絶対に食われてたぞ」
 やれやれとオーバーアクションで肩を竦める。
 かなりむかつくが、滑稽に見えないところが下村という男だ。
「誰のせいで爆睡したと思ってんだよ。だいたいドクなんかにお前、鍵貸さないだろう」
 なんかよばわりのドクはこの際拘らないで流してしまおう。
「そりゃそうだ。じゃ、俺に食われても文句言えなかったぜ?」
「ぐっすり寝てる相手に仕掛けるような野郎に、俺がどんな態度とるか想像もできないんならやってみりゃよかったんだ」
 寝起きの坂井だ。
 機嫌がいいわけがない。
「そろそろ他の連中も来る頃だな。着替えるか」
 ぐっと伸びをしてから初めて自分にかけられた毛布に気が付く。
 それを丁寧に畳んで、坂井は本格的に起き上がる。
 すっかり眠気はさったようだ。
 ピアノで視線をちょっと止めて、正面でどこかつまらなさそうな顔をしている相棒を見下ろす。
「ホラ」
 甘やかしてるとは思うけれど、手を差し伸べてみる。
 にっと笑って煙草をもみ消し、下村の右手がその手を掴んだ。
 ほんの少し預けられた体重をしっかりと引き上げる。
「サンキュ」
 隣に並んで立った下村の脇腹に軽く拳をいれて、坂井はロッカールームへと歩をすすめた。


 その夜。
 閉店まで一時間をきった頃に表れた沢村はいつものようにピアノの前に座った。
 フロアに顔を出した時に坂井と目があい、穏やかな笑みを浮かべた。
 坂井もはにかみながらも珍しく笑みをもってそれに応える。
 曲と曲の合間の僅かな時間。
 坂井の耳に沢村のピアノで演奏されるあの曲がふと聞えた気がした。
 手が止まる。
『星に願いを』。
 沢村のピアノで聞いたことなどないはずなのに、何故かその曲は坂井の耳に届く。
 それは小学校の頃に音楽の教師が弾いた、お手本のピアノ演奏とは明らかに違う。
 坂井の耳に染み付いている沢村とこのピアノで奏でられる曲だ。
 ジャズとは違うどこか甘い、可愛らしい曲調に坂井は思わず苦笑した。
 まさか社長の雨垂れを真似るように、沢村がこの曲を真似ることはないだろうが。


 それから坂井が機嫌がいい時にはこの曲の鼻歌が紡がれるようになった。
 下村が坂井の機嫌をはかる一つの手段である。


2001/10/21
このお話はげしょさんへのお礼です。嬉しいプレゼントをいただいたので、お返しにリク権を差し上げたところピアノにまつわるお話でほのぼのなものを、というリクをいただきました。
……ほ、ほのぼの……
普段、あれだけ甘くてほのぼのしたモンを書いてて、ほのぼのな話をとリクをいただいたらこうなっちゃうなんて……ほのぼのと言い切れない話になってしまいましたね。申し訳ありません(>_<)こうなれば生げしょさんにお会いできた時には誠心誠意で接待させていただきます(いらん迷惑や)い、いまいちまとまりのない話ですね。ほんとにすみません。これで感謝の気持ちが伝われば……!!

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