「下村? 下村敬か?」
店の入り口で、声がした。
聞いたことのない声に呼ばれたブラディ・ドールのフロアマネージャーは、ぎょっとしたような表情を一瞬さらしたが、すぐに取り直してこそりと客に耳打ちすると、何時ものように無駄のない動作で店内を進み、ボックス席にサラリーマン風の客二人を案内した。
坂井の視線に後で説明すると答えた下村は、女の子を二人、その客の隣に座らせた。
客は、ちらりちらりと下村を見ている。
その様子で、下村が東京にいたころの会社の同僚ではないかと察することができた。
偶然ってのは怖いものだなと、坂井はそんなことを思いながらシェーカーを振った。
店が終わって、片付けをし始めた頃になって、下村が坂井に声をかけた。
「あの客な、東京から来た元同僚」
やっぱりかと、坂井はふうんと返事をした。
下村が元は会社員だったことなど、坂井の記憶からはすっかり消されていた。
けれど、時々思い出すことがある。
本社の仕事を手際よく捌く姿とかで。
「お前に声をかけてくれるような同僚がいたのが意外だ」
「同期の連中だよ。そんなに親しくはなかったが、まぁ帰りに飲んだりはしたかな」
着替えながら、下村はこれから飲みに誘われたと言う。
「下手に断ったら、なんか言われそうだしな。会社辞めたのもいきなりのことで、邪険に帰して後で何か言われてきても面倒くさいから、こっちでぼちぼちやってるって言っておこうと思ってな」
面倒臭そうに言う下村から、なんとなく昔の匂いを嗅ぎ取ってしまう。
「……ふうん」
赤提灯で飲むと言うから、そこまでは坂井も付き合うことにした。
その界隈なら川中もいるだろう。
途中で別れて川中と飲めばいい。
スカイラインは坂井が運転した。
紹介されて、曖昧に頷いて頭を下げる。
店の中なら慇懃無礼にあしらえたものだが、坂井の所作はどこかぎこちない。
下村の同僚二人は、下村に近況を尋ねたりと賑やかで、答える下村は上辺なのかどうなのかよくわからない愛想のよさで答えていた。
勿論、当り障りの無い範囲で。
適当な店の前で別れようとしたら、坂井さんも飲みましょうよと誘われた。
始終無言で運転していた男からどうやって、元同僚の近況を聞きだそうというのか知らないが、ブラディ・ドールでもけっこうな量飲んでいた連中には真っ当な判断力などないのかもしれないと、坂井は諦め少しだけと了承した。
が、すぐに坂井は後悔することになる。
話題になる会社の話はわからないし、下村のここでの暮らしは本人が適当にはぐらかす。
何より、女の存在が出てくるのが面白くない。
その坂井の心境は下村もわかっているのか、まり子の話が出る度にすぐに話を変えようとしている。
……おもしろくない。
注がれたコップ酒を呷ると、坂井は席を立った。
「社長探してくる。車好きにしろよ」
思いのほか不機嫌の滲んだ声がでた。
下村が一瞬だけ青ざめた気がするが、放っておいて店を出た。
「坂井っ?」
下村の声が追いかけたが、ぴしゃりと扉は閉められた。
「なぁ、下村。坂井さんって年下か?」
「は? あ、あぁ、いや。確か、そんなに変わらないが上だったはず……」
「へぇ、下かと思った。仲良さそうだな」
そんな風に見えたのだろうかと、下村は意外そうな顔をするが、話題はもう変わっていた。
帰りに川中のところに拾いに行くかなと、下村は元同僚の話に聞くともなしに相槌をうった。
「だから人間ドックで一度見てやるから病院来いって」
「冗談じゃない。どんな嘘っぱちな病名挙げられて腸引き摺りだされるかわかったもんじゃない」
と、川中と桜内の物騒な会話に、大将の威勢のいい声がいらっしゃいと客を出迎えた。
入ってきたのは坂井だった。
「おう、直ちゃんか。社長さん来てるよ」
気持ちのいい食べっぷりと旺盛な食欲がこの界隈では受けるらしく、馴染みの大将が気さくに声をかけた。
その声に坂井がぱっと笑顔になった。
「坂井」
川中が奥の席から声をかければ、更に嬉しそうに顔をほころばせる。
「おーおー、よく懐いてるなぁ」
まるで親を見つけた迷子か、飼い主をみつけた猫と言ったところだ。
「良かった。探してたんですよ」
座れよと促してやると、ほっとして川中の隣に腰をおろす。
革ジャンとマフラーを取る間にコップ酒を頼んで差し出せば、大将は言いもしないのに豚足やら何やらと出してくる。
「外、雪でも降ってるのか?」
川中が、キラキラと水滴の付いた坂井の髪に触れると、ひんやりとしている。
「少しだけですけど」
「で、どうした? 下村と飲んでたんじゃないのか?」
桜内がさらりと問えば、坂井は言いにくそうにしてコップを口に運んだ。
桜内と川中がその間に視線を交わす。
また、喧嘩でもしたのかねぇと。
「なんか、東京から来た客に昔の同僚がいたらしくて、一緒に飲んでますよ」
憮然とした口調の坂井が拗ねているようで、二人は笑いを噛み殺す。
面白くなくて、川中を探したのだろう。
「そりゃ、世の中狭いもんだな」
桜内は面白そうに笑っている。
川中はご機嫌取りに、大将の出してくれた豚足を坂井の方へと押しやった。
「食えよ。飲みも食いもせずに出てきたんだろう?」
頷いた坂井が豚足にかぶり付く。猫と言うよりその姿はライオンやトラのような肉食獣を思わせる。
「ドクはまた部屋追い出されたんですか?」
「または余計だ」
お前も、また喧嘩だろうと言う言葉をなんとか飲み込んだ。
「たまたま川中と会って、たまにゃ飲もうかってことになったのさ」
「邪魔しませんでした? 俺」
こう言う言葉や上目遣いが可愛いと思わせるところかなと、川中も桜内もこっそりと思う。
「ちっとも、むしろ歓迎だね。こんな危なっかしい男と二人きりで飲んでられないなって思ってたところなんだ」
茶化した川中の視線も桜内の視線も、坂井の指先についた油を舐め取る赤い舌に注がれてしまう。
猫のような愛らしさの合間に、酷く煽情的な仕草が混ざる。
その気がなくとも、思わず思考が停止する。
「ドクは今日は社長のトコに泊まるんですか?」
「あ? あぁ」
「お前も泊まっていくか?」
「いいんですか?」
そんな人恋しそうな顔をしているのを放っておくわけにはいかない気がして、声をかければ本人は自覚がないのかほくほくと笑顔になっている。
「久しぶりにお前ともゆっくりと飲みたいしな」
わしゃわしゃと髪の毛を掻き乱すと、意外にも嫌そうに振り払わずにされるがままになっている。
自覚症状なしの人肌への欲求に、大人達は忍び笑った。
飲ませすぎたかなと思わないでもなかったが、体が吸収してしまったものは仕方がない。
坂井は何時もなら自分の限界まで呑むことがないのに、今日は早いピッチで飲んでいた。
止める間もなく、酔っ払った。
「おーい、坂井。大丈夫か?」
ぼーっとし始めた坂井の手からコップを取り上げると、桜内が坂井の顔を覗き込んだ。
こくりこくりと船を漕ぎ出すのを支えてやる。
「そろそろ引き上げるか。親父さん、ご馳走さん」
勘定を何枚かカウンターに置いて、坂井を抱え上げた。
「珍しいね。直ちゃんが潰れるなんてのは」
カウンターの向こうから大将が声をかける。
「情緒が不安定でね」
桜内がにやり笑って、扉を開けた。
「まいどー」
背中に人情味溢れる声を聞いて店を出た。
ソファーに転がした坂井は相変わらずにぼんやりしていて、ほろ酔い状態だ。
「坂井がヤキモチってのも珍しいよな」
寝顔と肴に、桜内は床に直に座り込んで、川中はソファーに体を沈めてターキーをあけていた。
「……妬いてませんよ」
舌ったらずな声で反論がきた。
「嘘つけよ。下村が東京での話してるのが面白くなかったんだろう?」
「ちがいますよ……」
「まり子の話も出ただろうから、それか?」
「妬いてない」
気だるそうに首を振って、坂井は寒そうに体を丸めた。
「よくわからない……。なんか、知らない奴みたいで……」
「だから、それは妬いてるんだよ。坂井」
笑いながら川中が言えば、坂井はそれでも否定するように寝返りを打ってしまう。
「本当にガキだな」
呆れるでもなく面白がるように桜内も笑う。
酔いが、坂井の心の鎧を剥がしてしまっているのだろう。
子供のような坂井に笑いが誘われてしまう。
普段は老人臭さと獣に似た空気を背負う青年が、無防備に淋しさをさらけ出している。
そのギャップに庇護欲が掻き立てられる。
ソファーの背凭れの方に顔を向けたままの坂井が、寝息をたてだした。
「俺も寝るかな。今日、ちょっと大きなオペがあってな。本当はへとへとだ」
「よく言うな。手術の前に飲んだって平気な医者が」
ベッドは譲ろうと言う川中の寛大な言葉に調子に乗った桜内は、じゃあ抱き枕に坂井も連れて行くと言いだした。
「情緒不安定の治療だよ。同時に俺はアニマルセラピーで疲れた体を癒せるわけだ」
よいしょと熟睡した坂井を抱え上げた桜内のこじつけられた言い訳に、川中は呆れたと肩を上下させた。
楽しいオモチャを手にした子供のようだぞとからかえば、けらけらと笑い声が寝室から帰ってきた。
坂井が桜内の抱き枕に知らず甘んじてから数十分後に、インターフォンが鳴った。
「遅くにすみません。坂井、来てませんか?」
下村だった。
「来てるよ。まぁ、入れよ」
促し部屋に上げる。
「昔の同僚が来たんだって?」
「えぇ。東京で下手な噂でも立てられちゃ、面倒臭いですから。適当に付き合って別れてきたんですケド……」
飲み会のあった痕跡のあるリビングに坂井の姿を探すが見つからず。
下村は、川中に問うような眼を向ける。
「妬いてたぜ?」
まぁ座れと、さっきまで坂井が転がっていたソファーに座らせ、ターキーを注いだグラスを渡してやる。
「……怒ってました?」
大人しくグラスに口をつけた下村が恐る恐る聞いてくる。
「怒ってはなかったが、不安がってたな。お前がまるで知らない野郎みたいだって」
「……不安、ね」
「お前の履歴が真っ当で、坂井にゃ想像もできないからかもな。そんなに他人の過去を気にする男じゃないはずだが」
お前だからな。
そんな付けたしに、下村がにやりと笑う。
「可愛いヤキモチじゃないか」
「ですね」
普段、冷笑だとか傍観者のような顔しかしない青年の、こんな多彩な表情もギャップが見れて面白い。
どうして、自分の弟分達はこんなに面白い奴等ばかりかなと、川中は胸中で思う。
「で、社長。そろそろ、坂井に会わせてくださいよ」
お預けをくらった犬のような物言いに、川中は寝室のドアを示して見せた。
勝手に連れて行けと言う仕草に、下村は立ち上がりドアを開けた。
灯りを落としてある寝室で、ベッドに近付いた下村は寝台で丸くなる人物を見て凍りつき、踵を返してドアをもう一度閉めた。
「どうした? 下村?」
寝室に入ってからのことをなかったことにするかのような動作に、川中が尋ねる。
「……社長……」
薄ら暗い声を発した下村が、これまた暗い顔で振り返った。
「……アレ、誰ですか?」
「坂井、だろう?」
「……坂井と……もう一人……」
と、そこで下村は言葉を切った。
テーブルの上の灰皿に、証拠品を見つけたのだ。
「ドク、ですか」
悪戯がばれた子供のような顔を川中がする。
それを認めてから、下村はさっきよりは乱暴にドアを開けた。
川中ものんびりと後に続く。
薄暗い寝室の、大きなベッドに二人。
「アニマルセラピーだとさ」
寒がりの坂井は、下村にそうするように桜内の懐に潜り込むようなかっこうに体を丸めて、桜内の腕を枕にしてすやすやと眠っている。
桜内は、ちょうど抱き枕宜しくその猫をやんわりと抱いてぐーすか眠っている。
微笑ましい図ではあるのかもしれないが、言ってしまえば浮気現場の一歩手前。
「アニマルセラピーね」
引き攣った笑みを刻み込んだ下村に獣の空気が滲んだ。
重い。
狭い。
鬱陶しい。
坂井は眼を開けた。
最初に映った天井は、自分の家でも下村の家でもないことを物語たった。 ここがどこなのか、記憶の糸を手繰る前に坂井は右半身、左半身にそれぞれかかる、違った体重の正体を確かめるべくそろりそろりとまずは右の方を向いてみた。
何時もは後ろで乱雑に結ばれた髪がざんばらに顔に流れているのは、桜内。
そう、昨日一緒に飲んだ気がする。
で、左。
「……げっ」
下村。
「おはよう」
ぱっちりと眼を開けてにやりと笑った。
両肩にかかっていた重みは、桜内と下村の腕の重みか。
なんてのどかな川の字だ。
「なんで……お前っ」
起き上がろうとするが、右は桜内、左は下村にがっちり抑えられていてままならない。
それどころか、呻いた桜内がまだ眠いのだと訴えるように、坂井を引き寄せ、圧し掛かる。
「……お、もいっ」
桜内の下敷きになった坂井を下村はただ眺めている。
「ドクっ、いい加減に起きてくださいよ!」
二日酔いで思うようにならない体を無理に起こして、桜内を跳ね除ける。
ドサリと言う鈍い音がして、ひょろりとした桜内の体が床に転がった。
「……痛っ……なんだー?」
寝惚けた声で桜内が呻く。
「ドク、お目覚めですか?」
床に転がったままの桜内を覗き込んだ下村のバカ丁寧な話し方に、桜内は覚醒する。
「あぁ、起きた起きた。いい夢見てたのに、台無しだ」
のそりと起き上がり、ベッドの端に這い上がる。
「アニマルセラピーとやらは終わりですよ」
「あにまるせらぴぃ!?」
欠伸をしながら、髪をかきあげた桜内はまさに遊び人の風情。
その桜内を、動物扱いの坂井は睨みつける。
「お陰で熟睡できた。抱き心地がいいからかな」
にやにやと笑う桜内の手が伸びて、坂井の頭を撫でようとするのを跳ね除けた下村は、坂井を抱き寄せる。
「ちょっかい出さないで下さいよ。坂井に手ぇ出して俺を妬かせたら、苦労するのは坂井なんですから」
そう言い放った下村の言葉に桜内はすぐさま笑い出すが、坂井は数刻考え込む。
ややあってから、意味に気が付たのか、肩を抱く下村の腕を乱暴に振り払い睨みつける。
「ひねくれすぎだ。お前の性格!」
「今更だな」
「朝から痴話喧嘩なんて元気なこった」
「痴話喧嘩って。だいたいっ、なんでドクが一緒に寝てるんですか!?」
「下村と二人きりの方が良かったか? そりゃ、邪魔をした」
「ちがいます!!」
「邪魔でしたよ。ドク」
「下村―!!」
居た堪れないセリフの数々に、坂井はとうとう拳を振り上げた。
下村は男三人が座っている狭いベッドの上でそれをかわそうとしたが、避けきれずにややずれた鉄拳を腹部にいただいて沈没することになる。
そこへ、
コンコンッ
と、ノックが飛び込んできた。
「朝から元気そうだが、そろそろ燃料切れなんじゃないのか? 坂井。飯、作ったから起きて来いよ」
父親のような川中の言葉に、坂井はベッドの上をニ、三度跳ねるようにして移動するとさっさとむさ苦しい寝室から姿を消した。
「……くそ、あの凶暴猫が」
腹を抑えながら下村が呻くように言えば、桜内が堪えきれなかったように爆笑し始める。
「お前の頭は治しようがなさそうだな。こりゃ。治療不可能。不治の病だ」
笑いすぎで目尻に涙を浮かべながらの診断結果に、下村は憮然となる。
「そりゃ、昨日からあんなに可愛いことされちゃ誰だってちょっかいだしたくなりますよ。ドクだって似たようなもんでしょう?」
顔を顰めながらも、気障男らしく桜内に片目を閉じてみせる。
「まったくだ」
置いていかれた寝起きの男達は、乱れた髪を煩そうにかきあげながらのろのろと寝室を出たのだった。
しょせん、あのネコを上手に飼い慣らせるのは川中だけなのだと、二人して親子宜しく朝食をとる姿を見て思った。
「添い寝がきいたんじゃないのか? 昨日のしょぼくれた姿が嘘みたいだぜ?」
「どちの体温がきいたんでしょうね?」
「本人に聞けばいいだろう?」
「ドク、聞いてくださいよ。医者らしい口調で」
「応えるもんか」
「そりゃそうだ」
軽口をひそひそと叩きながら、桜内と下村も食卓についたのだった。
この気障な言葉と飄々とした態度に、坂井が安堵して思わず頬に幸せそうな笑みを浮かべていたのを知っているのは、川中のみである。
2001/05/24
桜坂を大いに匂わせるお話でした(笑)どうしてもアップしたくなって。これを書いた頃はまだ、本格的な桜坂なんか考えてもいなかったのになぁ。ねぇ、ダーリン(笑)後々アップになる不純物なしの桜坂の準備段階ということで(^^;)まだ下坂ですが、桜坂には当然ながら下村さんはでてきません。どうでしょう、みなさん(笑)桜坂にはついてこれそうですか?(笑)