「坂井さん、下村さん。お願いがあるんですけど」
安見が、カウンターの向こうで豆を炒っている菜摘に聞えないほどのボリュームに絞った声で、そんなことを言ってきたのは寒さを感じるようになった初冬のこと。
カウンターではなく、テーブルに掛けて、店の売上表を見ながら会話をしていた坂井と下村にコーヒーを運んできた安見が遠慮がちに呟いたのだ。
「なんだよ。ここじゃ言えないことか?」
「うん。ちょっと……。後で、海岸の方にいてくれませんか?」
珍しく言いにくそうにする安見のお願いを聞かずにいられないわけがなく、二人とも同じタイミングで頷いたのだ。
風の冷たくなってきた海岸沿いに、坂井はスカイラインを停めた。
レナからそんなには離れていない。
「なんだろうな。安見の奴」
「なんとなく、ろくなことじゃない気がするなぁ」
坂井が煙草を銜えると、下村も煙草を銜えた。
下村が擦ったマッチの火に、二人が煙草の先を寄せ合って火を点ける。
「寒い」
坂井が不意に言う。
下村は喉を震わせて笑っている。
「お前、寒がりだよなぁ」
革ジャンはしっかりと風を遮断してくれるのに、坂井は体を丸めるようにして佇んでいる。
下村は、黒いジャケットにグレーのマフラーを首に巻いていた。
「うるせぇな。寒いもんは寒いんだよ」
「俺は寒いの好きだけどな」
「なんでだよ?」
睨みつけてくる坂井に向ける下村の表情は、ニヤニヤといやらしい。
「寒けりゃ、お前が擦り寄ってきてくれる」
言い終えるなり、下村は一歩退き、坂井は振り向き様に右手で空を切った。
ブン…!!
と、風を切る音がするほどだ。
「お前、そんなこと他で言ってんじゃねぇだろうな!?」
耳まで赤くして怒鳴る坂井の拳の飛んでこない距離に、下村は逃げている。
「もう、ばれてると思うけどな」
「涼しい顔しやがって」
「お前の反応がいちいち可愛いのも問題だったと思うけど」
さらに続けた下村に、坂井が一歩踏み出した。
そこへ、
「坂井さん! 下村さん!」
なんとも下村に都合にいいタイミングで安見が駆けて来た。
白い息を吐きながら、その傍らに茶色い物体を走らせながら………
キャンッ!!
「………珍しい物連れてるじゃねぇか」
坂井が安見の傍らの茶色い物体をじっと眺めながら言うと、安見は困ったように笑った。
「お願いってのは、コレか?」
下村はその背後から覗き込んでいる。
安見の背後でソレは、ピンク色の舌を出して、フサフサした尾を振っている。
「そうなの。友達の家で飼ってたんだけど、引っ越すことになっちゃって。引越し先ではペットが飼えないらしくて………」
ナルホド、と坂井と下村は顔を見合わせる。
「で、秋山さんを説得すればいいのか?」
「ううん。それは私がするわ。ただね、今パパとママが喧嘩してるのよ」
もう一度、坂井と下村は眼を合わせる。
あの秋山夫妻が喧嘩ときた。
さっき会ってきた菜摘からは、そんな雰囲気は感じられなかったが。
「大した事ないんだけど、今のままじゃ反対されるのわかってるし、ほとぼりが冷めるまででいいの。この子、預かってくれませんか?」
安見が連れてきたのは、育ち盛りらしい子犬だった。
茶色だが、金色に近い毛の色は綺麗だし、利口そうな顔をしている。
躾はばっちりだからと安見は言う。
「ゴールデンレトリバーか?」
こう言うことには、下村の方が詳しい。
「そう。まだ小さいけど頭はいいのよ」
ぎゅーっと、安見は子犬を抱く。
友達に頼まれて仕方なく、という訳ではなさそうだ。
「で、パパとママを説得する自信は?」
「ばっちりよ」
安見が言い切るとそうか、という気になる。
「で、どっちに引き取ってて欲しいんだ?」
坂井が言うと、安見が小首を傾げる。
質問の意味がわからないとでも言うように。
「そう言う話なんだろう? お前が、秋山さんを説得する間にそいつの面倒見てろって」
「そうよ。あれ? どっち、って?」
話しが噛みあわないでいると、背後から忍び笑いが聞えてきた。
下村が白い手袋で口元を隠しながら、笑いを堪えているのだ。
「なぁに? 下村さん」
「安見、お前、俺と坂井が一緒に暮らしてるって思ってないか?」
下村を振り返っていた坂井も、ばっと安見を見る。
「え? ひょっとして、違うの?」
「ちがう!!!」
坂井が力一杯言い切った。
けれど、安見は小首を傾げる。
「でも、一緒の部屋にいるんでしょ?」
「下村ん家は別にあるんだよ。なのに、こいつが押しかけて来るんだよ」
「あっ、そーなんだ」
やっと、納得したのか、安見が笑った。
坂井にとってはとんでもない誤解だ。
「でも、大体一緒なんでしょう? じゃぁ、二人にお願い」
そう言って、安見は誤解を誤解にしたままで、黄金色の毛のケダモノを差し出してくる。
子犬は舌を出して、構って欲しそうに尾を振っている。
脱力していた坂井も、その愛らしさには惹かれたのか、自然と手を出して子犬の頭を撫でてやる。
「可愛いな」
眼を合わせて、円らな瞳を覗き込む。
どうやら、子犬は坂井を気に入ったらしく、盛んに尾を振る。
「仕方ねぇなぁ。お前、うちに来るか?」
キャンッ!!
返事のタイミングもバッチリ。
「お前、捨て犬とかに弱かったろう?」
「そうだな。ガキのころはよく拾って帰ったな。すぐに、捨てに行かされたけどさ」
子犬を腕の中に抱いて、今までこうして自分の腕で暖めてやれなかった捨て子達に思いを馳せるように頭を撫でてやる。
「下村さんも、いい?」
坂井の部屋で飼うのに、どうして下村の承諾が必要なのか。
坂井が眉を寄せると、
「家主の仰せのままに」
居候の身分を弁えた応えが帰ってきた。
「散歩でもしてやるか」
坂井が子犬と連れ立って、海岸に降りた。
安見は嬉しそうに坂井に続き、下村はのんびりとその後を追った。
坂井は、軽快に砂浜を走り抜ける。
それに、ついて子犬が走る。
坂井がスピードを緩めれば、すぐに足元にじゃれ付く。
随分と気に入られたようだ。
坂井もまるで、ガキの表情を浮かべて子犬の好奇心を満足させてやっている。
「安見、アレに名前はないのか?」
坂井のペースにはついていけなかったらしい安見に、下村が尋ねる。
安見は暫らく、子犬と下村を交互に見た後、
「あるわよ」
そう言って、再び坂井の元へ走り出した。
坂井は棒切れを拾って、遠くに放り投げていく。
子犬がそれを追いかける。
その様子を眺めていた下村を、坂井と内緒話をしていた安見が意地悪く振り返った。
坂井も同じ笑みを浮かべている。
棒切れを拾って帰った子犬から、それを受け取って、もう一度振りかぶる。
綺麗な弧をかいて棒切れが宙を飛ぶ。
「「とってこーい。ケイ!!」」
二人の声が重なった。
子犬が駆け出す。
「オイ」
呆れた表情の下村が声を掛けると、実におかしそうな顔をした二人が振り返る。
「そっくりじゃない」
安見がクスクスと大人びて笑う。
「坂井さんにしか懐かない所とか」
それには、坂井も嫌な顔をしたが、颯爽と帰ってきた子犬には無愛想面は見せなかった。
「俺ンとこに居候になるところとかな」
足元にじゃれつく子犬………ケイを抱き上げて坂井が笑う。
下村は肩を竦めると、坂井の腕の中でもがく同名の居候に手を伸ばした。
が、ケイはキャンと一声けたたましく吠えて、下村の白い手袋に噛み付いた。
勿論、青銅の左手に痛覚があるわけがなく、下村は憮然とした表情のまま、
「どこが、そっくりだって?」
安見を見下ろした。
安見と坂井は揃って爆笑したのだった。
そうして、坂井直司と下村敬とケイの同居は始まった。
「どけろ、このクソ犬」
機嫌最低ラインの下村の声に、ケイはチラリとそのつぶらな眼をむけただけで、すぐに閉じた。
明らかに馬鹿にした顔に見える。
「むかつく犬だな」
「何、犬にむかついてんだよ」
坂井が呆れて顔を上げた。
その坂井の膝を枕にして、ケイは眠っているのだ。
坂井は片手でその頭を撫でて、もう片方の手で車雑誌をめくっている。
「なんか、ムカツク」
風呂上りの下村の特等席を取られて、下村は面白くないのだ。
足で、気持ちよさそうに寝そべっているケイを踏みつける。
「下村、大人げねぇぞ」
ピシリと、その足を叩いて坂井は下村を睨み上げる。
最近はずっとこんな調子なのだ。
下村が坂井に触れようと思えば、ギャンギャン吠えるケイが坂井を独占している。
坂井も、毛むくじゃらの獣の方を可愛がるものだから、余計に面白くない。
ケイは、坂井の膝の上に移動した。
それが、またムカツク。
「ムカツク」
本気でむかついているから性質が悪い。
坂井はこっそりと苦笑すると、肩を竦めた。
「下村、来いよ」
雑誌を置いて、坂井は手招きで下村を呼ぶ。
あんまり、機嫌を悪くさせたりヤキモチを妬かせても後が面倒になるのは眼に見えている。
突然のお誘いに、下村一瞬驚いて次の瞬間には口元を綻ばせて、隣に座り込んだ。
自分と同じシャンプーの匂いがふわりと香る。
「よいせ」
と、坂井は膝の上で惰眠を貪るケイをソファーの上に移動させ、自分は下村に向き直る。
甘やかしすぎかとは思うが、坂井はこうして下村を甘やかすことが意外にも嫌いではない。
稀であればのことだが。
「タオル貸せよ」
言うと、下村は嬉しそうにして首にかけていたタオルを差し出してくる。
こう言う時に初めて感じられる年の差。
「まったく、ガキか。お前は」
嘆息しながら坂井はいつものように、下村の頭を拭いてやる。
「気持ちイイー」
まったく、世話がやける。
タオルの隙間に、チラリチラリと下村の意外にも柔らかな髪が揺れる。
大人しく躰を預けてくる下村の世話を焼きながら、坂井はしなやかで、今は少し丸まっている背中を
何ともなしに眺めていた。
「うあ!!」
突然、坂井が妙な声を上げる。
何事かと、下村も振り返る。
「何だよ。坂井?」
「ケイだよ。いきなり、人の耳舐めやがった」
「………」
放っておかれて面白くなかったのか、遊びたい盛りの子犬は坂井にしきりに頭を擦り付けている。
ケイと敬の眼があった。
「ったく、今日あれだけ遊んだのに、まだ足りねぇのか、よお!?」
再び、坂井が妙な声を発する。
「下村、てめぇ、何すんだよ!!」
さっきケイに舐められたのとは反対の耳を下村が舐めたのだ。
「ヤキモチ」
耳元で囁かれ、坂井は体を硬くする。
「馬鹿か、お前。犬だぞ。コレ」
「ただの犬じゃない。ケイって名前だろう?」
「それがどうした」
「俺も呼ばれたい」
脱力。
このいい年をした男は、本気でこの同名の犬に妬いているらしい。
背後から回った手がぎゅっと抱きすくめている。
「下村、頭拭かねぇと、風邪ひくぞ」
「じゃぁ、温めてよ」
剥き出しの下村の肌から伝わる体温が温かい。
思わず身を委ねたくなる坂井の猫のような習性を知っている下村は、風呂から上がって随分冷えてしまった体を温めるように肌を触れ合わせる。
「下村、やめろって」
早く暖房を入れればよかった。
坂井はちらりと後悔する。
下村の体温が心地良くて、それがなんだか腹立たしくてそんな後悔をしてしまうのだが。
「やめない。お前の方が冷えてるな」
「離れろよ。ベッド行くから」
「お、誘ってんのか?」
「誰がお前と一緒に行くって言ったよ」
「でも、二人でいたほうが温かいぜ?」
満面の笑みを浮かべて下村は、坂井にじゃれる。
いい年して恥ずかしい野朗だ。
空気が甘い。
「離れろって。頭、濡れてるだろうが。冷てぇんだよ」
その甘さに胸焼けがしそうで、坂井はつっけんどんに言い放つが、この少々人より思考回路のオカシナ男は気にもしない。
女を追いかけてこの街にやってきたはずの男が何故に男、しかも自分に惚れているのかが坂井には、未だ理解できないでいる。
「これからの時間は俺に付き合えよ」
「はぁ?」
「昼間は散々、ワンコロと遊んでたじゃねぇか。俺のことなんか忘れちまってよ」
「お前、やっぱり馬鹿か」
「馬鹿でもなんでもいいから、ベッド行こうぜ」
言いながら顎のラインに口唇を滑らせてくる。
上手い。
「ここんとこ店が忙しくてしてねぇだろう? なぁ、坂井ー♪」
情のない声で甘えてくる。
ひねくれ屈折している男が、たまにこうして素直すぎるくらいにストレートに甘えてくる。
邪険に扱えないのが坂井の辛い所。
確信犯的タイミングでこの最終手段に訴えてくる下村は、陥落を意味する嘆息に、してやったりと笑う。
「………犬よりも性質がわりぃよ。お前は」
抗うことをやめた腕がくしゃりと、下村の髪を乱した。
「お前、しつこい………」
下村の腕に縋りながら坂井が下村を睨み上げる。
普段なら怯んでしまうような眼つきも、この状態でしかも目尻に涙が滲んでいるのであれば威力は半減。
それどころか可愛いだけだ。
「も、やめろ………、下村」
自分ばかりが追い詰められて、息を上げているのが余計に屈辱的なのだろう。
ベッドの中でだけは、下村の方が上手でいられる。
坂井の中に指を沈めて思うままに声を上げさせながら、下村は鬱血痕の散る胸に舌を滑らせる。
しどけなく首を横に振る坂井の様子は酷く煽情的で、下村の嗜虐心を駆り立てる。
「呼べよ。坂井」
「………ん?」
顎を捕えて仰向かせ、しっかりと眼を見る。
理性が飛ぶスレスレの眼が、ぼんやりと下村を映す。
「な………に?」
どこか幼い口調に口元。
下村はニヤリと笑う。
「呼んでよ。敬って」
濡れた口唇を舐めて囁くと、眉間に皺がよる。
そこまで、露骨に嫌な顔をされると流石に傷つく。
「呼べよ」
言って、指で内壁を抉る。
しなやかな背中が反り返る。
その仕種が綺麗だと、下村はいつも思う。
「坂井、イきたいだろう? 呼べば、イかせてやるよ」
縋って伸ばされる指に口付けてやると、きつく閉じられていた眼が開いた。
「直司」
呼ぶと、体が僅かに反応する。
嫌がっているのだろう。
双眸に嫌悪が滲んでいる。
「呼べよ。直司」
「………この、野朗!」
悪態をつく坂井を黙らせて、下村はまた指を動かす。
「んっ。っ………、下村、もう………」
「呼べばいいのに」
呟いた下村を睨みつける眼には、『後で覚えてろ』と書いてある。
それも毎度のこと。
下村は、意にも介さず坂井を責め立てる。
「………あっ、しも………む…」
「敬、だろう? 犬呼ぶ要領で呼べばいい」
ぐらりと切れ長の双眸の奥が揺れて、観念したかのように口唇が一度引き結ばれ、
それからゆっくりと解かれる。
白い歯の向こうで、赤い舌が翻る。
「………ケ…イ」
二人きりの部屋でやっと聞き取れるほどの声で坂井が呼んだ。
別の人間に呼ばれたような気分になる。
「満足……かよ」
照れたように仄かに赤くなっている目元が、下村を悦ばせる。
「満足」
「っ、ん………っ」
指を一気に引き抜いて、実は限界が近かった自身を埋め込む。
また、坂井の背がしなる。
「っ、しもむらっ」
坂井が呼ぶ。
睦みあいは、決して甘いだけではない。
名前に拘ったのも大した意味はないのだ。
女に『敬ちゃん』なんて呼ばれていた自分を思い出してみて、坂井が呼べばどんな響きになるのだろうかと思っただけ。
「坂井」
呼んで、穿つ。
坂井が歯を食いしばる。
口付けて声を導く。
もう一度だけ、坂井が気紛れに、
『ケイ』
そう呼んだ。
翌日。
見事な晴天。
「散歩、行くか」
体がだるいと言って、朝からバスローブ一枚でソファーに突っ伏していた坂井が、午後になってから不意にそんなことを言い出した。
散歩と言う単語に坂井の胸の中で眠っていたケイが、ピクリと反応して頭を上げた。
「体はいいのか?」
「走るのはお前」
言いながら、もそりと起き上がる。
こんな快晴の日にはよくあることで、坂井は情事の翌日の気だるさよりも太陽の下にでることを選ぶ。
ドライブをしたり、川中のレナを借りて海に出たり。
そんな行動を供にするのが下村は嫌いではなかった。
何より、坂井の機嫌が復活する。
「いいぜ。行こう」
勿論、下村に異存があるわけがなく、店が開く時間まで海岸でのんびり過ごそうということになったのだった。
見事な毛並みを靡かせて、ケイが海岸を疾走する。
黄金の毛は綺麗に輝いて見える。
綺麗で、利口な犬ではあるのだ。
「だから、なんでそこで坂井んとこに帰るかな」
人を選ぶと言う、犬にあるまじき行為をしてくれる以外は。
下村が放った棒切れを、疾走し空中で銜えたまでは見事だったのだが、その後、投げた下村に届けるはずのソレを喜び勇んで坂井に届けるのだ。
「俺そっくりだ」
海岸でひっくり返っている小型ボートに腰掛けて、煙草を吹かしていた坂井は自分に向かって駆けて来るケイに、持参したビスケットを手ずから食べさせてやる。
「そっくりだ」
下村が憮然と呟いた言葉には同意してやる。
本当にそっくりなのだ。
坂井も犬のケイならば存分に甘やかせてやれるから、可愛がり方が過剰。
その分下村は面白くない。
もう一人の自分がいて、それは坂井に受け入れられているような感じである。
犬なら坂井の羞恥心を煽ることもないし、意地を張っても仕方がないのではあろうが………
「ケイっ!!」
呼んで、下村が思いっきり腕を振る。
ぽーんと綺麗な弧を描いて棒切れが飛ぶ。
随分遠くまで飛んでいったソレに、そこは本能を利用されケイは素直に走り出す。
それを見送って、下村はそそくさと坂井に近付き、坂井の体の両脇に手を突いた。
かなり接近していることになる。
「まだ妬いんのかよ」
面白くないと顔に大書してあったのか、下村の顔を僅かに覗き込んで坂井が笑う。
「悪いかよ」
憮然と答えた下村の後頭部に掌の感触。
銜えていた煙草を下村が奪い、口付ける。
冷たい外気に晒された肌は冷えているのに、触れ合わせた口唇と口内は熱い。
「苦いな」
「甘いのがお好みなら、街で引っ掛けてくれ」
「苦い方がお好みなんでね」
天気のいい日は坂井の機嫌もいい。
実に単純だと思うが、そこが可愛いとも思う。
今のうちと思うままに口内を蹂躙していると、背後から何かに圧し掛かられた。
「痛っ!!」
坂井が口を塞がれたまま呻いた。
「坂井? 切っちまったか?」
慌てて下村が坂井を覗き込む。
ケイに圧し掛かられた弾みに力が加わり、柔らかな口唇には少々乱暴な力が入ってしまったのだ。
「痛ぇ」
口唇を押さえながら坂井が睨み上げてくる。
ケイもしょぼくれて頭を項垂れ、敬は慌てて坂井の手をどける。
「切れちゃないな。わりぃ。大丈夫か?」
「ん、大丈夫」
ぺろりと自分の口唇に傷がないことを確かめるように一舐めし、ケイの頭に軽い拳骨をくれてやる。
「ホント、そっくりだよな」
呆れたように坂井が言うとケイと敬は、しょぼくれたような顔をして坂井を見上げる。
それを見た坂井がおかしそうに笑い出す。
片手でケイの頭を撫でて、もう片方の手では下村の髪の毛を乱してやる。
「下村さーん、坂井さーん!!」
そんなじゃれ合いに、安見の可愛らしい声が飛び込んできた。
ケイが反応し、駆け出す。
「よう、安見。なんだ? ソレ」
ケイと戯れながら駆けて来た安見は、大きなバスケットを抱えている。
「さっき、お店から二人が見えたから、急いで見繕ってきたの」
中身はサンドウィッチだった。
それから、ポットに入ったレナのコーヒー。
「ケイがお世話になってるお礼よ」
にっこり笑って差し出してくるソレを、二人は喜んで受け取った。
ケイにも、パンの耳が与えられる。
少し寒いのは寒いが陽光が温かいためか、それほど場違いなピクニックではないはずだ。
「で、夫婦喧嘩はどうなってる?」
「冷戦状態ね。ママが一歩優勢かな? パパは最近帰るのが遅いの」
「昨日はうちの店で遅くまで飲んでたな。社長と一緒に閉店後までいたから朝帰りじゃないのか?」
「まだ、帰ってもないの」
呆れたと、肩を竦める娘の仕草に二人は思いっきり笑い始める。
あの淡白でありながら円満な夫婦も、それなりのことはやり合っていると言う事だろう。
「早く仲直りしてもらえ」
辟易したような顔で、下村が言う。
一拍置いて安見はケイを見下ろし、敬を見上げて坂井に探るような視線を送る。
その視線に答えを与えるように、ケイが尻尾を振りながら坂井の膝に手を乗せて甘え始める。
その姿を一瞥してから、安見は下村の眉間の皺を発見し、坂井の困惑顔に行き着く。
「坂井直司争奪戦ね」
くすくすと笑いながら安見はケイの頭を撫でてやる。
「大人気ないんだよ。下村が」
「素直じゃないんだよ、坂井が」
そんな二人のやり取りに、更に安見が笑い出す。
坂井は下村から顔を背けてコーヒーを口にする。
「染みない? 坂井さん」
「あぁ、大丈夫だ………って、安見!!??」
さらりと答えておいて、坂井は魂消る。
下村は坂井には背を向けて、海の方面を眺めながらコーヒーを飲んでいる。
「見えるに決まってるじゃない」
呆れたように安見が言う。
「坂井さんもなんだかんだと言って、下村さんのこと好きなのよね」
少女の言葉に、青年がさっと目元に朱を刷く。
「坂井、可愛いなぁ」
いつの間にか振り返っていた下村が、にやにやと笑いながら、赤面している坂井を覗き込む。
居た堪れなくなった坂井は、ボートの腹から飛び降りると、
「ケイ!!」
と、犬にだけ一声かけて走り出した。
白いシャツが陽光を受けて、鮮やかに海岸に浮かび上がる。
背丈はあるのに、細い躰をしているから後姿はしなやかだ。
「坂井さんって、ホント可愛いのね」
「だろう?」
即答する下村を僅かに呆れながら、安見は海岸線を走り抜ける坂井と、その背中を追いかける黄金色のケイを眺める。
「ママとパパが言ってたわ。坂井さん、変わったって」
下村が安見を見る。
大人びた表情をするようになった。
それが、今はほんの少し幼さを装い、悪戯っ子のような顔になっている。
「下村さんが来て、変わったんだって。よく笑うようになったし、怒るようにもなったって。無理に背伸びなんかしないで、自然体でいられるようになったんだって。本人は自覚してないんだろうけどって。そんなこと言ってたわ」
息を切らしたのだろう。
坂井が砂浜に座り込む。
そんな坂井に、尾を振りながらケイがじゃれる。
年より臭ささえ漂う、店の中の坂井の顔とは全く違う。
凄腕の年上の男たちに囲まれてやってきた中で、ひょこりと顔を出した下村の存在は大きかったのだろう。
消えてしまうかに見えたN市への流れ者は、何故かこの街に住み着いて、しかも同じ酒場で働くことになって、更に何故か自分に懐いている。
どんな気分だろうか。
「ケイにヤキモチ?」
「あの犬、狡猾だぞ。飼い始めたら気を付けろ」
くしゃりと安見の頭を乱してから、下村はのんびりした足取りで砂浜を歩き始める。
安見は笑いながらそれを見送る。
正直でストレートな下村に、素直ではあるが照れ屋なところのある坂井のコンビ。
秋山は面白いと言っていたが、確かに面白い。
砂を踏みしめながら坂井の元まで歩いた下村の姿は、寝転んでケイの頭を撫でている坂井には見えない。
「さっかいー♪」
弾んだ声で一声掛けるや否や、下村はケイを押し退け坂井の上に圧し掛かった。
「うわっ!!?? 下村!?」
傍観している安見のところまで聞える悲鳴が上がる。
下村は寝転んだ坂井の腹の上に座り込む形で、圧し掛かっているのだ。
「何やってんだよ! 下村!」
坂井が赤面して安見を見ると、安見はにこやかに手を振りながらやって来る。
「じゃ、私野暮にならないうちに帰るから。下村さん、無理させちゃだめよ。坂井さん、ご愁傷様。ケイ、もう少し坂井さんのこと独り占めできるからねぇ」
そんな嬉しくも無いことを捨て台詞に、安見はバスケットを抱えて背を向けていく。
「安見! コラ、助けていけよ!!」
「やーよ。野暮はしたくないもの。じゃねぇ」
ヒラヒラと手を振って去って行く安見に感謝しながら、下村は坂井の頬に口付ける。
「下村!!」
「坂井、可愛いーなぁ」
「うるせぇ! どけろ!!」
安見の話しを聞いた後での抵抗なんてものは逆効果でしかない。
もがく坂井をものともせず、下村は上半身を屈めるとその額に口唇を滑らせる。
「お前なぁ! 羞恥心だとか、世間体とかっつーもんを気にしないのかよ!?」
「気にしない」
「気にしろー!!」
「さかいー♪」
腹の上にどっかりと乗られてしまっているのでは、得意の蹴りは入れられない。
腕は押さえつけられているしで、これでは押し倒されているのと同じ。
ただし、背中にはシーツではなく冷え切った砂。
つまりは屋外。
いくらシーズンオフの海岸とは言え、車が海岸線を通らないわけが無い。
流されるわけにはいかない。
気が付けば下村は、坂井の鎖骨に舌を這わせにかかっていた。
冗談で済ませないところが、エキセントリックだと言われる所以だろう。
常識人に見えていとも簡単にその常識を無視してしまう男・下村敬。
「ケイ!!」
坂井が必死の抵抗を試みる。
その怒鳴りに呼ばれたかのように………
ぎゃうんっ!!
「うあっ!? イッテェ!!」
甲高い鳴き声が叫ぶと同時に、下村がうめいて坂井の上から退いた。
「ナーイス。ケイ」
カプリと腕に噛み付かれた下村の下から脱出した坂井は、砂を払って立ち上がると、悠々とした足取りで砂浜を帰っていく。
「あ? 坂井ー? コレ、連れて行かないのー?」
砂浜に転がったままケイに噛み付かれている下村が、情のない声で坂井に声を掛ける。
坂井は答えずスタスタと車の辺りまで行くと、くるりと振り返る。
「ケイ、来い!!」
よく通る声だなと思っていたら、ケイがぱっと砂を巻き上げて疾走し出した。
坂井は既にスカイラインに乗り込んで、エンジンをかけている。
「坂井!?」
ケイの黄金色の毛が運転席から入り込んで、ちょこんと助手席に座り込む姿がちらりと眼に入る。
「店、遅れんなよ! 下村!」
坂井が叫ぶ。
運転席のウィンドから。
「おい! さかいー!?」
未だ砂浜に膝をついた状態の下村に手を振りながら、スカイラインは颯爽と姿を消した。
「さかいー………」
その消え行く車影を、下村の捨てられた犬のような視線が追っていた。
その後、秋山家の庭には元気に走り回るお利巧なゴールデンレトリバーが見受けられ、ブラッディ・ドールではバーテンダーにじゃれるフロアマネージャーの姿が頻繁に見られるようになったとさ。
2000/12/07
下坂にありがちなペット話+安見ちゃん。
坂井は下村に対しては犬で、下村は坂井に対しては猫のような気がするのです。下村、馬鹿すぎるし、坂井に惚れすぎ。坂井は下村を受け入れすぎ。こんなに甘くないだろうよ。