Dog Food



 蒲生沖田記念病院前の岸壁に、見覚えのある背中を見かけた。 

 ぽっかりと満月の浮かぶ夜。
 革ジャンを羽織った背中は少し猫背で、じっと海の方を眺めている。
 闇夜の薄い青を刷いた紫煙が、ふわりと立ち昇った。
 男からそんなに遠くない所に、月明かりを受けて怪しげな色に塗り替えられたフェラーリが停められている。
「坂井?」
 男の名前を呼ぶと、ゆっくりと振り返る。
 銜えた煙草のオレンジの火が、まず目に入った。
「立野さんか。コンバンワ」
 彼らしくない物言いは、坂井が不機嫌であることをなんとなく窺わせる。
「何してるんだ?」
「立野さんこそ」
 岸壁に近付くその足音が、妙に大きく響く。
 坂井の視線は立野から反れ、月光に照らされてきらきらと輝く海に向けられている。
 満月の光を一面に受け、今日の海はいつもの海とは違い幻想的に目に映る。
「俺は土崎さんと釣りに行って来た帰りだよ」
「ふうん」
 横顔に浮かぶ機嫌の悪さが意外な幼さを醸す。
 こんな顔もできる青年なのかと思わせる。
 店では絶対に見せない顔だ。
「何かあったのか?」
「何かって?」
「いや、随分機嫌が悪そうだからな」
「………別に」
 語尾は掻き消えた。
 よく川中を筆頭に秋山から遠山までが坂井をからかって遊んでいるが、その気持ちが良く分かった気がする。
 ちっとも懐こうとしない猫には余計にちょっかいをだしたくなるものだ。
「………喧嘩でもしたのか?」
「してませんよ」
 鎌掛けのつもりでぼそりと吐き出した言葉に、坂井は食らいついてきた。
 即答だった。
 けれど、その口調は明らかな肯定。
「アレとどんな喧嘩するのか見てみたいもんだな」
「してません」
「嫉妬心は強そうだな。お前に対しては」
「………………」
「不倫でもしたのか?」
「………してません」
 ぎろりと坂井のきつい視線が睨んできた。

 ………面白い。
 無意識のうちに煙草を銜えていた。
 立野の前に、坂井が極自然な仕草でジッポの火を差し出してきた。
 仕草はバーテンダーのもの。
 その火に、煙草の先を近づける。
 偶然にも立野の眼には見えてしまった。
 右手の小指と薬指の付け根の間にくっきりと。
 それを刻んだ人物の歯並びのよさを思わせる、くっきりとした歯型。
 思わず、笑いを噛み殺す。
「何ですか?」
 むっとした坂井の声なんて、稀少価値がありそうだ。
「そういやぁ、君が俺を掬い上げてくれたのもこの辺だったなと思ってな」
 あの夜も、坂井は歯型の主と喧嘩でもして海を眺めていたのだろうか。
「……そうでしたっけ?」
 坂井も、あの日を思い出しているのかもしれない。
 面白くないと大書している顔に更なる機嫌の悪さが加えられる。
「………素直だなぁ」
 店では本当に無表情なのに、プライベートではここまで素直なのかと驚かされる表情の変化に、思わずもらしてしまった。
「…………………」
 むすっとした顔で、坂井が睨みつけてくる。
 その顔が急に強張った。
 何事かと、坂井の視線を追って振り返る。
 白っぽいシャツが月夜に浮かび上がっている。
 カツンと靴音を響かせて男が一人、悠々と歩いてくる。
 夜の色に浮かび上がっているのは、シャツだけではなかった。
 左手。
「立野さんか」
 やっと立野の姿を認めたらしく、義手を持つ酒場のマネージャーは声を掛けてきた。
 坂井を見れば、ムキになったように海を睨みつけている。
「よう、下村。お迎えか?」
 下村はそんなからかいに過剰な反応を見せはしない。
 軽く肩を竦め、伊達男宜しく口元を歪めて見せた。
「立野さんは何してるんです?」
「釣りの帰りさ」
「坂井のこと口説いてるのかと思っちまいましたよ」
 にやりと笑った下村の眼は笑ってはいなかった。
 なかなか迫力のある表情だ。
「まさか。そんな自殺行為をする気はないな」
 もう一度坂井を見れば、苦々しい顔で煙草を吹かしている。
「喧嘩か?」
「みたいなもんです」
 よく見れば、下村の唇の端が切れている。
 若さを感じさせる空気がどこか羨ましい。
「じゃあ、邪魔しないでおくか」
 犬も食わない喧嘩を食う気はない。
 背中を向けて病院の方向へ向かいだす立野に、下村がおやすみないと声を掛けた。
 振り返らずに片手を上げて応えた。
 ぼそぼそと、小さな声でのやり取りが背中から聞えてくる。


 この二人の喧嘩のおかげで自分が救われたのかもしれないと思うと、苦笑いが浮かんでくる。
 まったく、奇妙なコンビだ。
 あの夜に、ひょっとしたら自分は犬も食おうとしない喧嘩を無意識のうちに食ってしまったのかもしれない。
 などと思いながら立野はふっと振り返った。
「………………若いな」
 呟きに呼応するように、下村が視線を投げてきた。
 月明かりの下で、普段は感情を表に見せない整った顔がまたニヤリと笑った。
 それから白い左手に坂井の手を乗せ、立野が一瞬だけ見た歯型の辺りに口付ける。
 ………まったく、奇妙な男達だ。
 川中の弟分なら仕方がないのかと、立野は嘆息する。
 短くなった煙草から立ち昇る紫煙は月夜の紺色の空に吸い込まれていった。
 今度、川中達が坂井にちょっかい出すようであれば是非とも参加してやろうと、心を躍らせ立野は夜道をのんびりと歩いていった。
 月の光が彼等の姿形だけでなく、普段見ることのできない素顔までもをこの夜に浮かび上がらせたのだろう。


2002/07/10
杉山は立野さんを書くのが好きです(笑)書き易いわけではないんですが、立場的なものが好きなのかもしれません。社長や秋山さん達ほど下村と坂井の仲にちょっかいを出すわけでもないけれど、興味はある、ような。相談にはのってあげてるかもしんないなぁと。視点は第三者的かなと思うのです。

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