「パパは幸せだったかな?」
酔いのせいで呂律の怪しい少女の問いはあどけなかった。
波は静かだった。
船にあたる波音が心地良いリズムで繰り返されている。
川中と連れ立ってやってきた安見を船に上げてから、会話はない。
川中とは気丈なやり取りをしていたようだが、土崎一人が相手になってから黙り込んだ。
それでいい。
土崎はこの船に積んであるありったけの酒瓶を取り出した。
安見は甲板から海を見ていた。
「パパも川中のおじさまも、土崎さんも海が好きね。私、海が好きだなんて今まで思ったことなかった。この船に乗るのは楽しかったし、海沿いのレナも好きだけど、海を好きって、思ったことなかったわ」
ブリキのカップにターキーを注いだ。
水割りにしたが、安見が飲むには濃い目にしてやった。
さっさと酔って、潰れてしまえばいい。
眠って、何もかも忘れてしまえばいいと思った。
けれども、そんなことできやしないし、誰も望んじゃいない。
安見は差し出された味気のないカップを両手で包んで、暫らくは海を見つめていた。
「私、海が好きだったんだって、今思う」
それから笑顔が似合いそうな言葉を口にした。
そしてゆっくりとカップに口をつけた。
ただでさえ飲みなれないアルコール。
しかもワイルド・ターキー。
その苦味に安見は眉を寄せたが、コクンとなんとか一口咽に流し込んだ。
こんな酒よりは、坂井の作る酒でも飲ませてやりたいと思ったが、生憎ブラディ・ドールで飲む酒は酔い潰れるためにあるのではなく、逆に冷静になるためにある。
今、この少女に必要な酒は、この船の上にある。
「不味いか?」
安見は首を横に振って、
「土崎さんも飲んでよ」
怒ったように言った。
土崎は下手な笑みをつくって、カップを傾けた。
「一度自分の限界を知ったらな、飲めるようになるもんなんだ」
お互い、関係のない話ばかりしている。
もう一口、先ほどよりは多めの一口を流し込んだ。
苦い薬でも飲んでいるかのように、安見はターキーを口にする。
「私が来なかったら、ひとりで飲んでた?」
「来ると思ってたさ」
「どうして?」
「来てもらわなきゃ俺が困るからな。お嬢の面倒を見なきゃなんねぇと思いながら飲めば、どうしようもなくなることなんてないだろうから」
死者に縋り、罵倒し、出来ない願い、届かない頼みを口にしないですむ。
親友の娘を前にして、親友の死と今自分が何をすべきかと自分の頭に叩き込むことができる。
「ずるいのね」
「大人はみんなずるいんだ」
そして残酷だ。
安見はしばらく土崎を見つめ、またカップに視線を落とした。
鈍く光るブリキのカップを大事そうに両手で包み込んで、傾ける。
薬の効き目を待つように、咽元に手をやった。
「約束、してたんだってな」
「そうよ。スーツの生地を選んであげる約束だったの」
「ふられちまったのか」
「……できない約束は、しないパパだったのにな」
「まだ、泣けねぇか」
「……なんだかね、今にもパパが迎えにきて、子供がお酒なんか飲むんじゃないって怒ってくれそうな気がするの。やだな、女々しくて」
おかわり、と冗談めかした口調で安見が言ってカップを差し出してくる。
土崎は一杯目と同じように水割りを作った。
「もうっ、土崎さんも飲んでったら! 今日の私の相手は素面のままじゃ務まらないわよ」
土崎は笑って、カップを一気に空にした。
酔うために酒を飲むのは、どれくらいぶりだろうと思った。
自分の水割りを作っていると、鼻をすすりあげる音がした。
「結局、私はパパにとっては女の子のままだったのよね」
安見の顔を見た。
今にも零れそうな涙が目尻に輝いていた。
「パパにとっちゃ、お嬢はいつまでたっても女の子だ。お嬢が二十歳になっても、結婚してもな。周りがお嬢を女だって思ってても、パパだけはずぅっとお嬢を女の子だって思うはずだ」
安見が生まれた時、これ以上ないほどに嬉しそうな顔をして報告しに来た親友。
名前は安見にしようと思うんだ。
そう言った顔は父親の顔だった。
前の女房が殺された時、絶望の淵で安見だけはと思いつめた顔をしていた。
この街に流れてきた時、安見が攫われた時、こいつは正気を失うんじゃないかと思うほどの怒りに満ちていた。
安見と菜摘の仲が自分の想像以上に上手くいっていることに、安心した顔もしていた。
聞き分けのいい安見と、それでも時折喧嘩をして笑ってしまうほどしょぼくれていた顔。
ユラユラと揺れる船上で、わけも会話もないままに酒をのんびり酌み交わしたあの空気。
それら全て過去の出来事は、もうこの先繰り返されることはない。
この船を訪れる親友はもう生きてはおらず、思い出だけが娘を泣かせている。
「パパは幸せだったかな?」
笑おうとする声は震えている。
気丈な娘だ。
まだ涙を耐えている。
でも。
秋山律の友は、きっと彼のためには涙を流さない。
涙も悲しいという感情も、彼らの中でおさめて痛む心を抱えてこれからも生きていく。
秋山とともに。
だから。
せめて、この娘には涙を流して、寂しいと訴えて、どうしてだと叫んで欲しい。
「幸せだったさ」
まだ半分残っている安見のカップにターキーを注いだ。
「いい女に巡り会って、可愛い娘に恵まれて、分かり合える友も得た。幸せだったさ」
「本当に?」
「お嬢の参観日に行けないって嘆いてた秋山は幸せそうだったさ。お嬢が父の日に花を贈ってくれたって言ってた秋山は幸せそうだったさ。お嬢が男の子の友達を連れてきた時悔しそうな顔をしてた秋山は幸せそうだったさ」
だから、大人はずるいんだ。
残酷で、身勝手なんだ。
嗚咽が、波音しか届かない甲板に響き始めた。
こんな風にこの少女が泣くのを見たのはどれくらいぶりだろう。
転んで足を擦りむいて泣きじゃくっていた少女を見つめていた親友の表情を思い出す。
今、あいつはあの時と似た顔をしているのだろうか。
「私、大人になるんだから」
少女はもう少女ではなくなろうとしている。
転んだまま、父親が差し伸べる手を待つ歳ではなくなっている。
「大人の女になって、土崎さんにも、川中のおじさまにも、ママにだって女の子なんて言わせないくらいになって、パパに後悔させてやるの」
しゃくりあげながら言葉を継ぐ少女の口調は幼いけれど。
「しまったって、あっちで思うくらいに。いい女になってやるんだから」
止めど無く流れる涙を何度もセーターの袖で拭いながら安見は怒ったように言う。
ぐいっとカップを傾けて、苦いだけではなくなったかもしれないターキーを流し込む。
土崎は咽の奥で笑いながら、ラムを空けてロン・コリを作った。
無言で安見に手渡すと、それを呷ってから甘すぎると言った。
誰かと同じことを言いやがると土崎が笑えば、だって親子なんだからと応えた。
秋山律が幸せであったことは確かだった。
後悔があったことも、確かだった。
タプンタプンと、波が船底にあたる音と体に染みた揺れは続く。
土崎が波面に向かって傾けたグラスから、友への最期の挨拶は零れた。
2002/04/11
リハビリでこの作品ってどうよ(笑)
痛い話がムッショーに書きたくて、でも下坂じゃないのが書きたくてこんな二人になりました。
本当はもっと土崎さんの心情を書きたかったのですが、土崎さんの口調って……とわからなくなりまして。普通の女の子らしく安見ちゃんを書こうと思ったら、やはりそこは安見ちゃん。手におえないよ(笑)次は下坂か!?