真剣な横顔。
滅多に見ないような難しい顔で坂井は床に転がっていた。
時々、ごろりと転がって仰向けになったりうつ伏せになったりを繰り返す。
少し離れたところにあるコーヒーはすっかり冷めてしまっている。
その難しそうに顰められた目は、さっきから同じところを行ったり来たり。
体の半分をベランダから差し込んでくる陽光に浸し、もう半身は暗がりに。
坂井の持っている文庫本が、転がった表紙に陽射しを吸い込んで、真っ白い光を反射した。
まるで、下村の存在などわすれてしまったかのように、坂井は昼食後からずっと読書に勤しんでいる。
本は小さな古ぼけた文庫本で、アーネスト・ヘミングウェイの著書だった。
坂井が読書をするなど珍しい。
しないわけではないが、こんなに集中している姿を見るのは初めてだ。
下村が読書をしていて、坂井がその横でなにやらごそごそとしていることはあるが、逆の図は珍しい。
しかも、読んでいるのが車雑誌でもなくヘミングウェイ。
やや遅めのペースでパラリと乾ききったページを捲る。
文庫は土崎のだろう。
どう言う気紛れか、坂井は今ソレに夢中になっている。
下村の眼前で。
下村はソファーに座って、さっきから坂井を観察していた。
いつもなら勘のいい坂井だから、じっと凝視していると気が付いて何だよと噛み付いてくるのだが、今日は見たい放題。
読みかけの新聞はテーブルの上。
銜えていた煙草が短くなって、それを消してからは吸っていない。
坂井の姿を見ているのに、下村も夢中になっていた。
大きめのクッションを枕にしたり肘置きにしたりと、姿勢を変える坂井の動きに合わせて、シャツが捲れあがってしまっている。
昨日シャワーを浴びさして、下村が着込ませたシャツは下村のものだった。
そんなにサイズは変わらないが、身じろぐ坂井の動きがそうさせる。
ちらりと覗く脇腹のラインが犯罪的。
パタパタとフローリングを叩いたり、折り曲げられたりの脚はしなやかで長い。
けれども、その武器としての威力はなかなかのもので。
零れ落ちる髪の毛をかきあげる指はバーテンらしく綺麗。
触れれば柔らかく、女性的な印象さえうける。
指先も綺麗で、やや大きめの爪が長い指の先におさまっている。
しかし、その手も脚同様破壊力は並大抵なものじゃない。
そんな危なっかしい指が、今は丁寧にページを捲る。
動く度にはらはらと音をたてて流れる髪の毛は少し長めで、以前はそれで女装なんて目に合わされたのにまた不精しているらしい。
嫌いじゃないけどなと下村は思う。
綺麗な絹のような黒髪を指に絡める感触、額からこめかみから後頭部へと梳いてやる感触は気持いい。
そうされて、喉を鳴らしそうな顔をする坂井も可愛いし。
精悍なはずの顔つきは、気が休まっているからか穏やか。
鋭いけれど、瞳の大きな真っ黒い眼は真剣そのもので、茶色く変色した紙面に連なる活字の列を辿る。
列の下の方にいくと、ふっと降りる睫毛は長い。
煙草を銜えていない唇が乾くのか、時折赤い舌がのぞいて翻る。
うつ伏せになった時に、ズボンとシャツの隙間ができて、曲線を描く体のラインが陽射しの下に照らし出される。
そういうところばかりに眼がいくのは、下村が坂井に惚れてしまっているからか、下村の思考がよほど邪なのか。
また、坂井がごろりと転がる。
体を反転させるその動作が猫のよう。
下村に背中を向けた坂井はそのまま暫らく身動ぎしなかった。
眠ったかと思って足音を忍ばせて近寄ると、案の定栞を挟まなかった文庫は閉じられ、坂井はすうすうと寝息をたてていた。
まったく、寝つきだけはおそろしくいい。
穏やかなその横顔に、下村の影が落ちた。
その明暗の違いに、坂井がゆっくりと眼を開けた。
浅い眠りから覚めたばかりの眼は割としっかりしていて、下村をしっかりと見た。
下村が笑うと、坂井はじっとその微笑を見返す。
それを肯定ととって、鼻先を触れ合わせた。
坂井がゆっくりと眼を閉じる。
触れ合うだけのキスで離れた下村を、坂井が追った。
「面白い? 本」
「面白い」
「でも、眠いのか?」
「眠い」
眼で隣に転がってもいいかと問えば、こくりと頷いた。
硬いフローリングだが、春のあたたかな陽射しがそれを緩和してくれているような気がする。
「よいせ」
転がって、坂井を胸の中に引き寄せると甘い太陽の匂いがする。
素直に腕の中にいる坂井の抵抗はない。
「坂井、こういうの好きだよな」
穏やかに抱き合っているのとか、乾いた感触だけで終わるキスだとか。
「恋人同士がしてるみたいなことが」
怒るかなと思いながらも言うと、
「気持ちいいことが好きなだけ」
なんて複雑な答え。
「気持ちいいのか?」
更に問えば、爪先がこつんと下村の足を蹴った。
笑っているらしくその振動が伝わる。
「気持ちよくなかったら、しない」
顔を合わせないように、ぎゅっと下村の胸に顔を埋めた。
下村の右手が、太陽の光を含んだ髪をそっとそっと梳いていく。
「昔話でもしてやろうかって気になるな」
「どんな話だ?」
興味を持ったのか、もそりと動いた坂井が顔をあげる。
「天使の話」
「俺?」
ぽろりと零れた言葉に、坂井がしまったと思ったのか、下村が何か言う前にまた顔を埋める。
ぎゅっと抱きつかれながら、下村がくっくと笑いを殺す。
「自覚があるんだな」
「うるせー。お前があんまりしつこいから俺まで変になっちまったんだよ」
「なんだよ、ソレ」
クスクスと耳朶を擽る甘い笑い声。
今はそれを独り占めしたくて、坂井はもっと下村に身を寄せる。
髪を梳いていく下村の手が、おかしくなるくらいに幸せで。
微笑みの浮かんでしまう頬を押し付けた。
太陽の匂いよりもはっきりと香る、下村のコロンの微かな香りに満足して、坂井は今度こそ眠りについた。
「お前があんまり可愛いから、俺まで変になっちまったよ。天使」
こうしているだけでいいと思うなんて。
坂井の髪に鼻先を埋めた。
香る陽光の香りと、自分の移り香。
こういうものを、時間を、腕の中の存在を、独り占めしてしまうことへの罪悪感がないわけではないけれど。
「俺がいいんだよな。天使さまは」
それこそが、欲しいものを手にした者にだけ与えられる特権だから。
多少の自信過剰は大目に見てくれてしまう寛大な天使さまの眠りを守るように、下村は坂井の体を抱き、眠った。
例え陽が暮れ、陽光がささなくなったとしても、寒がりな天使が震えないように。
2001/04/06
こんなほのぼのが好きなんでしょうな(笑)陽だまりって感じの風景とかが。BDには不釣合いなのですが。
下村、惚気話しみたいになってしまいました。坂井の読書は「黒銹」で坂井が「老人と海」を読んだって記述があったので。私はヘミングウェイの著書は読んだことがないのですが(苦笑)