Inferior



黒板
チョーク
グランド
教室
チャイムの音
友人達の顔
吉山の笑い声
教師の顔
教科書から生徒達へと巡らせる、西尾の視線

失ったんじゃない
戻れないだけだ


『俺は、死ぬのか?』
 そうとは思えないはっきりした声で、西尾は言った。

 死ぬ。
 先生が。
 死んでしまう。
 もう繋ぎとめる術のない、消えようとしている西尾の鼓動。
 あるていどのことは、できると思っていた。
 試合に勝つことも、厳しい練習を耐えることも、大人を相手に立ち回ることも、犯罪も、人を殺すことも、自分が傷付くことも。
 自分にはどうすることもできないことが、目の前で起きている。
 誰も、西尾の命を繋ぎとめることはできなくて、西尾は最後の空を見上げて、死んだ。

『高岸!』

 呼ばれ、振り返る。
 高校の夏服姿の、吉山がいた。
 いつでも飛び出せる奴だと、心の奥で感じていた。
 部活動に参加しているタイプじゃない。
 ただ、何かを発散させるための場を必要として、ラグビー部にいた。
 憧れるような、翳りをもっていた。
 それが、時々、ひどく無邪気に笑った。
 距離を感じさせるアウトローの空気が消えて、やっぱりこいつも同い年なんだと親しみを感じさせた。

『昨日のプライド見た?』
『見た。すごかったな』
『すっげかったなぁ。でもよ、やっぱり生で一回見てぇよな』 
 他愛のない会話。
 笑っていた吉山の顔が、不意に歪んでいく。
 西尾のカローラ・レビンに突っ込んできた時の、あの顔だ。
 吉山、と呼ぼうとした。
 声が出なかった。

 夏のうだるような暑さ。
 肌に張り付くカッターシャツ。
 歴史を読み上げていく西尾の声。
 ふと校庭を見る。
 学生服を派手に着崩した吉山が、校門に立っていた。
 高岸のいる教室を見上げている。
 ゆっくりと、吉山が手をあげる。
 固めた拳で、自分の胸を二度、叩いた。

 がんばれ。


 吉山。

 叫んだ。


 吉山、行くな。



 自分の声で、目が覚めた。
 目が覚めて、寒さに驚いた。
 体は夢の中の季節に順応していたらし。
 暑さを感じるはずが、痛いほどの寒さを感じてそのギャップに気持ちが悪くなる。
 窓の外は雪が降っている。
 灰色の空は、夏の濃い水色とはほど遠い。

 咳が出た。
 数年ぶりの風邪をひいて、今日は店にも出してもらえないでいたことを、ようやく思い出す。
 けちって暖房を入れていなかった上、布団を蹴落としていたせいで体は芯まで冷えている。
 暖房を入れ、布団を被った。
 ガタガタと暫らくは体が震えたが、それも落ち着いてきた。
 これでは余計にこじらせてしまう。
 自分の歯が鳴る音がおさまると、それ以外の音が聞こえてきた。
 暖房は切ったのに、テレビは点けっぱなしだったらしい。
 画面に映っていたのは、花園だった。
 すぐにわかった。
 雪が舞う中、まだ精悍とは言い切れない高校生ラガーマンが、それでも闘志の篭もった目をしてぶつかりあう。
 自分にとってもかつて聖地だと思っていたグランド。
 飛び交う声と歓声が、あんな夢を見させたのだろうか。
 気だるさを感じ始めた体に最後の命令をして、テレビのスイッチを切った。
 もう二度と、戻れない場所だ。
 そうは思うのに、胸の奥で羨望が渦巻いた。
 思っていた以上に、自分はラグビーが好きだったのだろう。


 次に目を覚ましたときには、部屋はホカホカと温かく、おまけにいい匂いがしていた。
 狭い部屋の台所に、誰か立っている。
 母でも恋人でもなく、
「……し、もむら、さん」
 器用ではあるが、細かに動くことのない左手が見えた。
「あぁ、起きたのか。わりぃな、勝手にあがって」
 振り向いたのは銜え煙草の下村だった。
 思わず時計を見た。
 店も閉めている時間になっている。
「安見も風邪ひいてたらしくてな、随分高い熱も出たっとか言ってたから、一応顔出しとくかと思ってな。このままくたばってもらっても困る」
 困る、だろうか。
「うなされてたぞ」
 黙った高岸にスポーツドリンクを差し出し、下村は言う。
「高校の時の、夢を見ました」
 スポーツドリンクを流し込む。
 染み渡るように、体に溶けていく。
 レトルトのお粥を器にうつして、下村は高岸の前に無言で差し出した。
 昨日の夜から何も食べていない。
 食らいつくように食べ始めると、下村は大目に買ってきて良かったと笑った。
「それ食って落ち着いたら薬を飲めよ。大崎女史に貰ってきた。明日も熱が下がらなかったら、直接診てもらえ」
 そうなったらお前は再起不能。
 精根尽きて使い物にならなくなりそうだ。
 そう言って、また笑った。
 今日の下村は、妙に優しい。
 対面するだけで体に緊張が走るようなこともない。
 自分が風邪でそんな気力がないからなのか、風邪の自分に下村が優しいだけなのか。
「高岸」
 義手を器用に使って煙草に火を点け、下村が呼ぶ。
「背負おうなんて、思うなよ」
 自分は、うなされて何か言っただろうか。
「西尾は、お前なんかに背負える男じゃない」
 目の前の男は、いつもは見せない笑みを浮かべて高岸を見ていた。
「活きが悪くなってきたって、社長がつまらなそうに言うからな。また派手な殴り合いをされちゃかなわん」
 冷めないうちに食えと、止まっていた食事を促され、高岸はのろのろとレンゲを動かし始める。
「そんなつもりは……、ないです」

 やくざ者になろうとしている生徒を追いかけてきた。
 人に殴られ、人を殴った。
 自分が冷汗をかくような運転。
 学校では決して特別な教師だと意識したことはなかった。
 ただの、教師だった。
 たまたま担任だっただけだ。
 日本史を教えていて、小煩いこともない。
 それだけの教師だった。
 それだけじゃないことを、この街でさんざん目にした。
 教師としてこの街に来たんじゃない。
 教師じゃない西尾を、この街ではじめて意識した。
 そんな人を背負えるわけがない。
 だけど、自分のせいでという思いは拭えないでいる。

「お前は金魚と一緒だと、坂井が言ってたぜ」
「金魚?」
「社長のところに金魚がいるだろう。坂井にフェラーリを預けた男が飼っていた金魚だ。社長も坂井も、気にかけてるわけじゃないが、可愛がってやってる。社長は、預かりモノのお前がこのまま腐っちまったらどうしようって、そんな柄にもない心配をしてるのかもしれない」
 後悔。
 それを引っ提げたまま、川中に預けられている。
「笑えばいい。忘れようたって忘れられないことは、みんな知ってるんだ」
 煙草を灰皿代わりのコーヒー缶の縁に押し付け、下村は立ち上がった。
「大崎女史に食われたくなかったら、ゆっくり寝ることだ。明日、出てこられるようなら出て来い」
 ぽんと、右手で頭を叩かれた。
 ドアが閉まる音。
 残ったのは、下村があたためてくれた粥と薬と、煙草の匂い。
 薬を飲んで、横になった。
 腹にものをいれて、少し落ち着いた頭で記憶を辿ってみる。
 自分の傷を自分で開くように、けれど痛みを感じたいわけじゃないから、そっと。

 家族のことや、高校の入学式。
 はじめてラグビーを始めたときのこと。
 田部みゆきと見た映画。
 盗んだ車の中での馬鹿話。
 最後の試合のスコア。
 黒板に連なる西尾の文字。
 吉山が学校を辞めたと告げた教師の声。
 ナイフを握って川中に突っ込んでいった時の感覚。
 病院のベッドでかけられた低い声。
 最後に見た、吉山の顔。
『できの悪い野郎なんだ、おまえは』
 西尾が死んでしまうことへの恐怖の中に、投げかけられた言葉が生んだ奇妙な嬉しさ。
 この街に留まると連絡したときの、父親の反応。
 ブラディ・ドールで初めて仕事をした夜に、下村におつかれさんと叩かれた背中の痛み。
 坂井が笑いながら差し出してくれたビールの味。
 花園の景色を見て覚えた羨望。

 失ったんじゃない
 戻れないだけだ

 積み重なった記憶は、どんなに痛みをもたらそうとも自分を殺すことはない。
 駐車場の街灯の光が、カーテン越しに入ってくる。
 その灯りの中で、天井に向かって伸ばした自分の手が浮かび上がって見える。
 人よりも大きい自分の手。
 ゆっくりと拳を作ってみた。

『できの悪い野郎なんだ、おまえは』

 大きな手。
 できの悪い中身。
 蓑虫のように布団にくるまり、目を閉じる。
 厄介な風邪をさっさと退治して、少しでもできの悪さをどうにかしていきたい。

 この冬が明けて、春が過ぎ、また夏がきたら。
 少しはましになったじゃないかと、眼鏡越しの眼差しが微笑んでくれればいい。


2004/02/16
すっげー久々(一年以上ぶり)のBD小説で、十万ヒット御礼……です。企画力不足で申し訳ないです(>_<)内容も下坂ではなく……。
久々にBD読んだら、高岸の青さに共感というか、高岸イイなぁと思って書きました。吉山もね、なんだかんだで可愛い奴じゃねぇかと思って。自分の高校時代とかも考えてみると、高岸と吉山、せつな過ぎる……!
BDを読むとどうしても文体が似非北方ワールドになる傾向があります(笑)西尾の「できの悪い野郎」っていう言葉が、凄く好き。そして、何が言いたいのかわからない内容ですみません。なんとなく、な話です。今年はちょこちょこBDを書いていきたいと思います。

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