7周年記念企画
左手



 営業中のブラディ・ドールは浮世と距離を置かなければならない。
 けれどこの頃は、従業員がほとんど帰途につき明かりもカウンターを残して全て落とした閉店後が最も現実離れすると、高岸は最後の一人が残るフロアを振り返った。
「坂井さん」
 カウンターの中で煙草の煙をくゆらせるバーテンダーは物憂げな視線を寄越す。
 元より快活な性質ではなかったが、翳りある表情を晒すことはなかった。
 時には驚くほど無邪気な言動を見せていた男にとって、灯りを落としたブラディ・ドールは殻になる。
 飲みに行きませんか。奢ってくださいよ。
 空気が読めないふりをして若者らしい浅慮さで声をかけてしまえば、坂井は苦笑しながら付き合ってくれるだろう。
「……、お先に、失礼します」
 けれど声に出せたのはそんな挨拶だった。
「おぅ、おつかれ」
 ちらりと見せた口元の笑みも、高岸がドアを閉めれば消えてしまうのだろう。
 これから、坂井は先代のフロアマネージャーに捕らわれる。
 非常口のドアを背中で閉めながら、高岸は仄かに明るみ始めた空を睨み付けた。
 下村さん。
 あんたには、例え血の通わないブロンズだろうが木切れだろうが、失くしたところへ宛がうものがあったじゃないか。
 あの人の心に宛がうものは、どんな形に整えればいい。
 さび付いた手すりの感触を掌で感じながら、カンカンと聞き慣れた音がする階段を下りていく。
 一緒に過ごしたのは僅かな時間だった。
 ひょんなことから得るこができた二人の兄貴分と飲みに行く算段をしながら、通り過ぎていく夜を見送り、この階段を下った記憶は鮮やかだ。
 お前は馬鹿だなぁ。
 そんな親しみを込めた言葉を何度もかけられた。
「……馬鹿って言う奴が、馬鹿なんスよ。下村さん」
 生意気を言うなと返ってくる声は、もうない。



 突然、下村が妙な声を上げて体を起こした。
 テレビを見ていた下村の背後を通り過ぎて台所へ向かっていた坂井は、その声に驚いて振り返る。
「わりぃ、踏んだか?」
 踏んだ感触はなかったが、狭い部屋を移動するのに下村の体ギリギリのところを横切ってしまった。
「いや、踏んでないよ」
 体を起こした下村は胡坐をかいて左手首を摩っていた。
「踏んでないけど、踏まれた気がした」
 おかしなもんだと笑って見せた。
 ケロリとしている顔が、滅多にないことではあるが強がっているように坂井の目には映ってしまった。
 堅気であることをあっさり捨てて流れてきた男が手首を失った。
 手を失うと言う変事の後、フロアマネージャーとして坂井の同僚となった男の世話を頼むと川中は軽く言いつけてきたが、実際には世話を焼くことなどほとんどなかった。
 傷が塞がって義手を得るまでは桜内や山根の担当で、それ以降に預かった坂井の前で下村は不自由がる様子を見せなかった。
 同居が始まって数日後、なんとも言い憎そうに爪が切れないと訴えてきた時はどこか安心したような気になった。
「人間の脳って不思議なもんだよな」
 目の前に不ぞろいの両手を伸ばし、五本の指を開いたり閉じたりと動かしている。
 下村の頭の中では、左の五指も同じように開閉を繰り返しているのかもしれない。
 下村の左手は、同じ季節を見ながら逝った女と共に形を失った。
 お前の目には見えているのか。
 右と対を成す五本の指が。
 女に呉れてやった五本の指が。
 冷蔵庫から冷えたビールを取って戻ると、坂井はひょいと下村の真横で膝を折った。
「坂井?」
 坂井の目には捉えることのできない左手が本来存在する場所を、坂井の両手が包む。
 緩く一撫ですると、下村が息を飲んだ。
 左手くらい、くれてやる。
 滑稽なほど気障ったらしい口説き文句を吐く口唇も、冷酷な双眸も、対を無くした右手も、自分がもらう。
 体温どころか感触すらありはしない左手の持ち主を見上げる。
 これがきっかけになるのかと、坂井は目を閉じた。
 いつかこの瞬間を悔いる日がくるのだろうか。 


 自分のものだと思っていた右手はあっさりと土に還り、詩人的な言葉を紡ぐ声は永遠に失われ、最期の最期だけ満足そうに微笑んだ眼差しも閉ざされた。
 鈍痛を訴え続ける箇所を自覚することもできず、どこを摩れば痛みが軽減されるのかわからないまま、ただ夜明けを待つブラディ・ドールでグラスを磨く。
 静寂のブラディ・ドールの空気は重く暗く、それが少しだけ、青銅の左手に似ていると気付く。
 坂井の薄い口唇に微かな笑みが乗った。


2008/05/13
7周年記念企画でリクエストいただいたお題から下坂で「左手」です。
04年ぶりのブラディ小説ですよ……!!!なんだか時が経ちすぎて、ちょっと前の作品を読み返してみると私の書く坂井は何故にこうも天真爛漫なのかと……震える思いです。ブラディが与えてくれる痛みに魅せられ夢中になり、ある時期からもう痛いのは嫌よ〜!と甘い方向へと逃げ出しているのが見えます(笑)
そんなお久しぶりな状態のブラディですが、何件か下坂でと言うリクエストをいただきました。ありがとうございます!!!!
ふざけたIFパロとか甘すぎる下坂とか満載ですが、ブラディの魅力におとされてしまった乙女の萌え的空腹をちょっとでも埋める作品群であればいいなと思っています。

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