ぽつりとピアノの音がした。
なんて淋しげな音だろうと思った。
毎日毎日ピアノと気ままに歌う沢村にさえも、その音は物悲しく聞えた。
なんて、淋しそうな音。
たった一つ。
指先で鍵盤を押す。
些細なその仕草一つで、こんなに悲しい音を出すのは誰だろうと、そっと店内を見た。
「弾けるのかよ?」
「弾けるわけねぇだろう」
よく聞くテンポで交わされる言葉のやり取りに、沢村がちょっと笑った。
僅かに開いたままの控え室のドアの向こうから聞えてくる。
ポーンと可愛らしい音が一つ響いた。
「高校の時なんか、選択授業で美術とったからなぁ」
「楽そうだもんな。俺もそうだった」
ポンともう一度。
ド……レミファソラシド。
ぎこちなく奏でられる音階。
「沢村先生、やっぱすごいよな」
「芸術家だからな。あの人は」
「でもこうやって、押すだけの音も違うのってすごいよなぁ」
「確かに違う。曲にもならないからな。俺達は」
笑い声。
そっと控え室からフロアを覗き見る。
フロアの隅のピアノの前の椅子に、坂井が座ってその後ろに下村が立っている。
どちらも仕事着だ。
「すごいな」
もう一度、坂井が呟いた。
その指がもう一度鍵盤を弾く。
「お前だって、すごいじゃないか」
下村の諭すような声に坂井が顔を上げる。
「毎晩、美味くて綺麗なカクテルを作り上げる」
「それは仕事だ」
「同じさ。俺にとってはな。沢村先生のピアノも坂井のカクテルも。ちょっと羨ましいな」
子供におどける大人のような口調に坂井がほだされて、額から髪を梳く手を受け入れる。
「お前だって……」
零すように坂井が言う。
「お前だって、同じだろう?」
ふらりと上がった手が、俯く状態の下村の髪の毛をちょっと引っ張る。
「俺?」
「この店の、空気を作る」
澱みのない声が告げる。
そういうところが坂井らしいかもしれない。
聞きようによっては臆面もないようなセリフを、真摯だと下村が感じる眼で言ってしまう。
「お前が店をしきって、その中で仕事するの、やりやすいし」
からかうわけでもない、真剣な声で坂井は言う。
「そういうのも、すごいと思うし」
下村が、困った末に馬鹿だなと言うような、そんな子供のような顔になる。
「だから、同じ」
「もう黙れ」
「なんでだよ」
むっとした坂井に覆い被さるように下村が軽く体を曲げて、手を伸ばす。
ポツンと鳴らされた音は何故かひどく切ない。
「あんまり俺を喜ばせるなよ」
「……普段はそういうことして欲しがるくせに」
「そういうことと、こういうことはちょっと違うんだよ」
「わけわかんねぇ」
軽口の言い合い。
客が入れば決して晒さないような素顔を晒し合う。
開店前のブラディ・ドールの風景が、沢村は好きだった。
静かで、穏やかで。
店員が早く帰宅をと急く閉店後よりも、今のこの時間の方が。
もう一度、坂井の指が明るく音を紡いだ。
いつか、タキシードのよく似合う左手のないこの店のフロアマネージャーが紡いだ音に、とてもよく似た、音。
まるで、置いていかれた子供のように椅子の上で膝を抱えて、坂井は人差し指をのせた鍵盤をゆっくりと沈めていく。
ポツンと鳴る、切ない音。
「坂井くん」
「……先生」
疲れたような色の見える顔を上げた坂井には、悲壮さはうかがえない。
「弾いてみるかい?」
「俺は酒を作るだけですよ。ここは、やっぱり先生の席だ。……だから」
席を立った坂井の背はやはり高く、沢村を見下ろす形になる。
それから、あるかなきかの笑みを浮かべた。
「俺に、一杯、作らせてください」
背を向けてカウンターに入る。
沢村の指先が、曲を奏で始めた。
『レフト・アローン』
いつもフロアの片隅で、腕のいいバーテンダーが仕事をするのにやりやすい空気を作っていたフロアマネージャーが突然いなくなった。
マネージャー不在のある夜も、バーテンは独りでカウンターに立った。
その夜にも、こうして、彼の奢りの一杯でこの曲を弾いた。
この曲を、店ではないところで弾いて、坂井に聞かせてやりたいと思う。
この店の中だけは、どんなことがあろうと彼等にとっては日常で、店の中での非日常は好まない。
だから、坂井は無表情にシェーカーを振るだろう。
思い切り泣ける場所で、この曲を聞かせてやりたいと、沢村は思うのだ。
あんな笑みを浮かべれるようになる前に。
あんな悲しげな音と、涙の代わりに紡ぐ前に。
曲が終わる。
カウンターでは坂井がじっと沢村を見ていた。
スツールに座る。
同時にソルティ・ドッグが差し出される。
グラスを持ち上げ、一息に飲み干した。
変わらない、店の中での時間。
ただ、空気が違うのだ。
暗い眼をしたバーテンダーが、物足りない何かを探すように灯台のように視線を店の中に巡らせた。
独りきりで逝った、あの男の空気を探すように。
2001/04/19
原作でも、沢村先生がこの曲を弾くシーンにきます(>_<)曲自体は知らないのですが……
坂井が「俺からでいいですか」って聞くシーン、すごい印象に残ります。邪フィルターなしでも、坂井にとって下村が仲間で友人だったんだなってわかります。