「叶、おい叶」
低いが大きな声が呼んでいる。
五月蝿い。
眼を開けた。
目前の景色が流れている。
車の中だった。
体に伝わる振動が、自分が乗せられているのがフェラーリだと知らせる。
「叶っ」
「……るさい」
声は、川中のものだった。
珍しく焦ったような怒ったような声だった。
運転しているのも川中なのだろう。
「起きてるな? そのまま起きてろよ。いいか、起きてるんだ」
何をそんなに焦っているんだ?
その悲壮そうな面はなんだと笑おうと思ってから、気が付いた。
あぁ、俺は撃たれたんだったか。
だから、こんなに眠たいのか。
「寝るなよ。もうすぐドクのとこに着く」
無駄さ。
言おうとしたが、やめた。
そんなことを言えば、この男は激情するだろう。
フェラーリで事故られてはかなわない。
なんて乱暴な運転だ。
これじゃ、このイタリア娘は任せられないじゃないか。
坂井の方がずっと可愛がってくれそうだ。
それこそ、浮気なんてしそうにないしな。
「死ぬな。死んでくれるなよ」
泣きそうな顔を、この男でもするのか。
湖水を思わせる瞳を、苦痛に歪めて。
抱え込んだ暗さを、どうしようもなさそうに僅かに滲ませて。
「キドニーも、許さない」
何故?
「そんなことはお前の方がわかってるはずじゃないか? 自覚してるくせに、こんな時だけとぼけるなよ」
あの弁護士先生の胸に住んでるのは、いつだってお前だったじゃないか。
あの鋭利な刃物のような眼を俺にだけ向けて欲しくて、散々掻き乱してきたけど、効果はそんなに上がってないんだぜ?
「あいつはお前を許さないぜ。こんな形で心の中に住みつかれたんじゃ、たまったもんじゃないってな」
がつんと、床を踏み抜きそうな音。
おいおい、大事に扱えよ。
この跳ね馬は坂井に預けることにしよう。
こいつには任せられない。
ぎりりと、川中が白い歯が音をたてて食い縛った。
「あんなにキドニーを大切にしてたくせに、お前が傷つける気か?」
大切に、してたさ。
これ以上ないくらいに。
どんなに鬱陶しがられようと、辛辣な言葉を投げ掛けられようと。
あの華奢な体に背負い込んだ荷物の重みを、ほんの僅かな間でもいいから緩和してやりたくて。
いつの間にか、必死になって手を伸ばしていた。
でも、
「約束を……していないんだ」
ずっと、側にいてやるなんて約束を。
俺にはできなくて。
一番、彼が欲しがっているかもしれない言葉を、与えることはできなかった。
できない約束をして破って、踏みにじるよりはと思って。
「……俺は、キドニーには、味あわせたくなかった」
お前が、藤木と言う男を失った時にような喪失を?
愛する人間を失った悲しみを?
「死ぬなよ。叶」
縋るような声だと思った。
祈るような声だと思った。
あぁ、こいつになら、俺の金魚達を預けてもいいかな。
なんとなく……大切にしてくれそうじゃないか。
病院の灯りが、ぼうっと闇に浮かび上がって見えた。
サヨナラと、本当に言わなければいけない相手はいるだろうか。
ゴメンナと、本当に言わなければいけない相手はいるだろうか。
陳腐な睦言は辟易するほど言ってやったけど、肝心なことは言わず仕舞でこの結末だ。
彼は、恨むだろうか。
俺を。
お喋りで、気障で勝手で、お前に心底惚れていた殺し屋を。
「わるいな……」
川中が、唸るような声をあげた。
ブレーキ。
担ぎ下ろされる。
深紅のボディが眼に入る。
いや、これは俺の血か?
とにかく、もうこのイタリア娘とドライブすることもないのか。
視界が、カタカタと切り替わる。
古い映画のフィルムのようだな。
そんなことを思っていたら、不意に、お前の眼が、見えた。
綺麗な眼だなと、こんな時にまで思ってしまう。
深い悲しみとか、屈託だとか、暗さを抱えた眼はとても綺麗で。
俺を時々たまらない気分にさせた。
手に入るか入らないか。
微妙な心理ゲーム。
いつしか、本気になっていた俺を、お前はどんな気持ちで眺めただろう。
なぁ、悲しんでくれるなよ。
約束なんかしてないから、お前を裏切ったわけじゃない。
なぁ、キドニー。
俺はお前になんだかんだと、お前が嫌がることばかりしてきたけどさ。
言いたかったことも、してやりたかったこともたった一つさ。
『ずっと、側にいてやりたい』
そんな顔をするなよ。
そんな、
泣き出しそうな眼を、
するな。
2001/03/09
暗いシリアスタッチのお話です。なんか、「残照」を読み返しながら書いてたら、泣けてきて泣けてきて、どうしようかと思いました。叶さんの最期の言葉に、社長とキドニーが揃って「ああ」って答えるシーンとか、「友だち」って言葉にかなり………!涙腺が痛いです。叶さーん(>_<)