羽根をもがれた天使はまるで発作を起こすように、時々圧し折られた羽根をはためかせる。
「おい、坂井っ。あんまり波打ち際に寄ると濡れるぞっ」
「ばーか、ガキじゃねぇんだからな」
よく知った青年達の声に気が付いて、遠山はレナのテラスから浜辺を眺めた。
案の定、浜辺には馴染みの店のバーテンダーとフロアマネージャーが小さく見えた。
坂井の手には赤い円盤状のもの………おそらくフリスビーだろう………が握られてる。
その足元にじゃれている黄金色の毛並みの大きな犬は、秋山邸の番犬のケイだろう。
それから少し離れたところで、下村が相棒と犬を眺めている。
「どうぞ」
柔らかな声をかけた菜摘が、コーヒーを運んできた。
海水浴にはまだ少し早いであろう季節に、浜辺のレナに客はまばらだ。
見下ろす浜辺には、坂井と下村の他に人影はない。
夕方と言う時刻のせいもあるかもしれない。
「あぁ、ありがとう」
「よくあぁやって遊んでやってくれるんですよ」
菜摘の視線は浜辺に向いている。
坂井の手中からフリスビーが綺麗な弧を描いて飛んでいくのを、ケイが疾走して空中で銜える。
砂の上に降り立つと、すぐさまユーターンして坂井の元に帰ってくる。
「坂井は面倒見が随分いいようだね。下村も、懐いている」
コーヒーを口にする。
今度は、下村の手の中からフリスビーが放たれた。
坂井とケイが走り出す。
坂井が飛んで、掴み損ねて砂地に転がる。
フリスビーはケイが銜えて、転がった坂井に見せに行く。
下村が声を上げて笑っている。
転がった坂井を引き起こして、坂井に殴られている。
「本当にいいコンビですね。坂井くんも、楽しそうな顔も不機嫌な顔もするようになりましたわ」
姉のような菜摘の言葉に、遠山は喉の奥で少し笑った。
菜摘が店の中に姿を消す。
再び坂井が放ったフリスビーは大きく軌道を反れて風にのり、海面に浮かんだ。
慌てる二人をよそに、ケイはばしゃばしゃと海に入っていく。
律儀にフリスビーを銜えると、颯爽と坂井の元へと帰ってくる。
そのまま勢いあまってなのか、坂井に飛びついたのだ。
坂井の驚いた声が届く。
後ろにひっくり返った坂井を下村がまた笑う。
濡れた体に自棄になったのか、坂井は起き上がると走り出して下村にタックルをかまして二人揃って海に沈んだ。
その後をケイも追う。
びしょ濡れの二人と一匹が水面に顔を出して、数秒の間を置いて笑い出す。
弾けるような笑いは、ブラディ・ドールでは決して見せない。
例えプライベートの時にも覗かせないような快活なものだった。
いい笑顔をしているのだろうと、遠目に遠山は様子を見守る。
二人の仲が恋仲でもあることは周知のことで、下村が坂井に折り重なるようにして接近しても、驚きはしない。
照れたのか坂井がザバザバと上がろうとする。
下村がそれを引っ張ってまた倒れ込む。
その二人の上から大きな波が押し寄せてきて、一瞬姿が消えた。
退いていく波の中から現われた二人が、また声を上げて笑う。
思わず遠山も喉を振るわせて笑った。
この街に流れる穏やかな時間が、遠山の口元をほころばせる。
厄介事が持ち込まれるほんの僅かな時間が、何人の命を奪っただろう。
血の流れすぎる街に訪れる平穏の時が、こんなにも愛しく感じることはそう滅多にない。
今度は何を失うだろう。
そんなきりのない不安を、浜辺の風景が一掃してくれる。
遠山は静かに眼を閉じた。
脳裏にも描かれる平穏な風景。
青年達の白いシャツが、羽の残像を残すように風になびいている。
笑い声とコーヒーの香りが、心をより穏やかにしていく。
羽根をもがれた天使はまるで発作を起こすように、時々圧し折られた羽根をはためかせる。
砂浜に足跡が続いている。
白いシャツの背中が屈んで、足元の短い流木を拾い上げた。
投げ出すように長い腕が弧を描いて、遠くに棒切れが放られる。
少し離れたところにいたケイが走り出す。
疾走して、キャッチしたケイがのろのろとかえってくる。
遊び相手は差し出されようとする流木には眼もくれずに、じっと海の方を向いていた。
スニーカーの足元を、波が濡らしていく。
一人立つ浜辺に、波の音だけが聞える。
パシャンと水面に足を突っ込み、一歩二歩と進む。
膝にまで波がかかってジーンズを濡らしていく。
坂井は構わず更に一歩進んだ。
まるで、誰かに呼ばれているように。
その足が崩れ、波の中にしゃがみ込んだ。
白いシャツが水を吸って肌に張り付いていく。
ケイが寄ってきて心配そうに鼻先を近づければ、のろのろと顔を上げて甘えるようにケイの額に自分の額を押し付けた。
波は容赦なく坂井の体を濡らしていく。
それでも坂井は動き出さない。
蹲るようにしてその場から離れない。
声なき声をあげて、悲鳴を上げているようだ。
「坂井」
遠山が声をかけても、振り向かないままだ。
反応を見せない。
「坂井、風邪をひく気か?」
反応を見せたのはケイだけだった。
バシャバシャと水を散らして浜辺にあがると、ブルルと体を振る。
「坂井、上がりなさい」
もう一度言えば、やっとゆっくりと立ち上がった。
波飛沫の飛んだ頬が濡れていた。
「すみません」
掻き消えそうな笑みが浮かんだ。
坂井は時々こんな笑みを見せるようになった。
静か過ぎるその表情は痛々しく映るだけだ。
ざばざばと水音をたてて浜辺にあがる。
張り付いたシャツが、坂井のしなやかな背中のラインを浮かび上がらせていた。
『坂井は俺の天使ですから』
そう、気障な笑みを刻んで言った男はもういない。
普段は冷静さと気丈さを見せて、川中の側に影のようにひっそりと佇んでいるが、時々こうして自分を失ったような行動にでる。
周りの面々はそれを発作だと言い、誰かしら必ずその行動を見張っている。
下村に見えた破滅的な翳りを、坂井が背負ったような感じだ。
無邪気とも思える笑顔はあれから一度も見ない。
薄っすらとあるかなきかの笑みを刻む。
藤木のものとも、叶のものとも、下村のものともとれる。
「坂井、今日はお前の酒を飲みに行く。出勤しろよ」
小さく、返事をする声がした。
ケイが悲しげにクウンと鳴いて、その後をすごすごとついて行く。
その背中に、天使の翼の幻影を見ることはもうなさそうだ。
アトリエの壁に貼ってある数枚のラフスケッチ。
その中の一枚に、天使のスケッチがある。
今夜、坂井の酒を飲んで帰ったらあのスケッチは焼いてしまおう。
煙になって、届けばいい。
傷だらけになった天使を愛した男のもとに
2002/01/23
一年以上前に書いた作品です。こうして掘り返してみると……拙い……いや、今もなんですけどね。
ちょっと壊れかけの天使を書いてみたい時期があってその時に書いたんだと思います(責任をもて)ちなみに遠山先生のアトリエの天使のスケッチは9999HITのスケッチで遠山先生が描いたものです。