髪を切った。
下村が目を覚ました時には、坂井はもう姿を消していた。
ベッドサイドに坂井の字で社長に呼び出されて船を出してくるのだという走り書きのメモが残されていた。
どうりで寒いわけだ。
自由に動かない左の手を引っ提げての生活を始め、同時に坂井との共同生活を始めて一週間。
だんだんと左手がないことの感覚を掴み始めた下村は、これも同時に自分の気持ちにも気付き始めていた。
ベッドを譲るという坂井に、そんなわけにはいかないから一緒に寝ようと強引に坂井のベッドに寝かしつけてみたり。
地道な努力あってか、坂井はこの気障な男と子供地味た少年との面を持つ新参者をおかしな奴とでも認識してなのか邪険にはせずに受け入れてくれている。
と、言っても面倒見のよい坂井のことだから、下村の存在はあくまでOne of Themという可能性も払拭しきれないのだが。
苦笑を浮かべて下村は起き上がった。
さすがに左手をなくして、新しい環境、職場に慣れるのに知らずのうちに疲れが溜まっていたらしい。
坂井が抜け出したことなど気が付きもしなかったし、おそらくは社長からの電話もあったのだろうがそれすらわからなかった。
顔を洗って髭をあたり、すっきりしてからコーヒーを一杯、時間をかけて飲んだ。
坂井が帰るまでまだだいぶ時間もある。
何をして過ごそうかと思いながら煙草を銜えた。
リハビリを兼ねて使っているマッチの箱を手にしてからしまったと思った。
手にした箱が軽い。
中のマッチ棒が転がる音もしない。
中身は案の定空だった。
買い置きもないし、ライターはこの部屋にはない。
坂井はいつもジッポで火を点ける。
吸うのを諦めればすむことなのだが、こうなればどうしても吸いたくなってしまう。
入院中でも煙草をやめなかった下村だ。
仕方なく下村は台所に向かい、コンロの火を点けた。
銜えた煙草の切っ先を近づけた瞬間だった。
目の前でコンロの炎が大きくなったのだ。
「うわっ」
慌てて身を引いた拍子に銜えていた煙草が落ちた。
火がついていないそれを確かめるのに俯いて、下村はパラパラと目の前に黒い煤が落ちるのを見た。
そういえば妙な匂いがする……
と、おそるおそる右手で前髪に触れた。
音もなく、縮れた前髪が崩れて落ちていった。
「…………………………………………」
絶句した下村の胸には一瞬にして後悔の気持ちが過ぎった。
人は生死に関わらないがそれなに重要なミスを犯し、特にそこに誰もツッコミを入れたり笑い飛ばしたりしてくれる相手がいない時はこう呟くものである。
「……がーん」
自分の笑うしかないミスを、下村は見れる程度まで修復すると仕方なく美容室に向かった。
入院中に少しだが伸びてしまっていた頭は随分とすっきりしてしまった。
散髪後の独特の匂いがする髪の毛に手をやって、コンロで煙草に火を点ける時は上からじゃなくて横から顔を近づけるべきなんだなとか、今更なことを考える。
それからマッチを買って坂井のアパートに帰った。
アパート前の駐車場に見慣れた坂井の背中を見つけて、下村は声をかけた。
バイクの鍵をぬいてヘルメットを手にした坂井が振り返り、自分の目を疑うようにじっと下村を凝視した。
それからすぐに下村だと認めたのか、どうしたんだと聞いてくる。
事実を口にしたら馬鹿にされそうなので、
「気分転換」
と嘘をついた。
坂井はふぅんと返事をしてから、じっと下村の顔を見て、
「似合ってるんじゃねぇの?」
本当に何気なくそう言った。
長い腕を伸ばして、わけもなく触りたくなる綺麗な指で短くなってしまった髪をくしゃりと掻き乱す。
手を引いて、納得したようにまた言った。
「男前じゃん」
坂井に他意はないのだろうけれど、それは下村を喜ばせるには充分な言葉だった。
たとえ社交辞令であってもかまわない。
腹が減ったと言いながらアパートの階段を上がっていく坂井の後を追いながら、下村は思った。
こうやって。
きっと、こうやって塗り替えられていくんだろう。
坂井の一言や、仕草で。
今までの自分が。
今はまだそれ以上は望まないけれど、もうすぐ。
もうすぐしたら、同じように自分にも坂井を塗り替えられるだけの存在になろうと思う。
こんな些細な日常だけでも、二人の色に塗り替えて。
2001/12/14
一日で書いたものです。テキトーやん!!
下村の髪って、ひょっとしたら入院中に山根の姐さんに切ってもらてたりしたっけ、と記憶はおぼろげなままですみません。
このガスコンロ事件は実話であります(笑)私も一回やりましたし、友達もコンロの向こうに落ちた野菜を取ろうとしてやってました。呆然としますね、あれは。まず、ぼわって顔面が熱くなって「なんだなんだ」って思ってたらぱらぱらと前髪が……で、嫌な匂いがしてくるんですよ。そして、洗面台に駆け込んで、前髪をチェック(泣き笑い)きっついもんがあります、あれは。笑うしかねぇ、みたいなね……。