ロッカーの中には、きちんと畳まれたタキシードが遺された。
その上に、一対の白い手袋。
それが、あの男の持ち物であることを主張する。
真っ白で上質な生地で作られているそれを嵌めるべき主はもういない。
坂井はそっと、その手袋を手にとった。
部屋に残る下村の残り香よりも、この手袋の方がずっと下村の存在を映している形見のような気がして、優しく扱おうとする手に力が込められる。
下村の使っていた整髪料の匂いだとかが、不意に鼻先をかすめた。
この手袋に包まれた手の平で、いつもからかうように触れてきた。
時に真剣に、時に本当にふざけるだけの仕草で。
冷たい義手を隠すための手袋は、薄暗い店内の中に白くぼんやりと浮かび上がるようで、しばしば坂井の視線をもっていった。
ブロンズの方が冷たいはずなのに、手袋越しに触れられるとブロンズで直に触れられているよりも冷たく感じて、それを下村に訴えれば口角を持ち上げて嬉しそうに笑っていた。
だから店や外出する時以外での下村は、坂井と一緒の時は何時触れてもいいようにと手袋は外していた。
下村の手。
白い布地に包まれて、無機質の義手だとは忘れさせるほど滑らかな動きをする手。
もう、その手にふれることはできないのだ。
最初、この手袋に包まれた手とタキシード姿を見た時は、あまりに似合い過ぎるから、
「気障ったらしいな」
と憎まれ口をたたいたのだ。
下村はやはり笑って、似合うだろうと言ったのだ。
少しの躊躇のあと、手袋を嵌めてみた。
タキシードの肩口で、パタパタと動かして合図を送ってくる下村の表情が浮かんでくる。
暗い闇の中に浮かび上がる純白の手は、翼を連想させる。
あからさまでからかいのようなその合図は、何時も坂井を赤面させた。
就業中に、ふっと前置きもなしに送ってくる。
気紛れにも似たタイミングはパターン化を見せないで、坂井の不意ばかりをつく。
『今夜、お前を抱く』
その合図に、仕事中だとわかっていてもポーカーフェイスが崩れた。
目聡い宇野が目の前にいたとしてもその合図をしてきて、宇野に何だと問い詰められたこともある。
それでも下村はその合図を気に入ったらしく、寝たいと思った日には欲求のままにその合図をカウンターの中で勤勉に仕事をこなしている坂井に送ってきた。
そんな卑猥な仕草を見ることももうないのだ。
「……馬鹿野郎」
呟いた。
続けて罵声を発して、叫びだしそうになる自分を予感して、坂井は口を覆った。
途端に宥めるように鼻腔を包んできた残り香に、つんと涙腺が痛んだ。
「ちくしょ……」
遺してくれたのは、こんなろくでもない痛みばかりだ。
それを癒そうとする香りも、それを発する人間ないないのに。
視界を支配する白。
ひんやりとした布地の感触。
ほんのりと香る残り香。
それが、よしよしと頭を撫でてくれているようで。
宥めてくれているようで。
この苦痛の原因の遺したものに慰められる、滑稽な自分が惨めで。
「下村………」
呼んでも、応えてはくれない。
ただ、坂井に刻み込んだ記憶の全てと唐突に消えたことによって遺したままの遺物で、坂井を残酷に包むだけ。
それが、あの皮肉な男の独占欲なのかと気が付く。
本当に、何時までも我儘で残酷で手前勝手。
そんなところが嫌いじゃなかったのだけど。
そうやって、地獄に墜ちても自分を縛っていればいい。
今なら、素直に縛られていてやるから。
「バーカ」
着けたままの手袋に言ってやって、外したソレを自分のロッカーに突っ込んだ。
まだ誰もいない店の中。
一人カウンターに入った。
いつも通りに酒棚のチェックをしてから、グラスを磨きだす。
暫らくしたら、高岸がそこに立つであろうフロアの片隅に視線を投げた。
「……バーカ」
もう一度呟いた。
ひでぇなと笑う、あの男の幻像が脳裏に過ぎる。
もしも先にどちらかが死んでも、浮気はするなよと、そんな与太を言い合ったことがある。
「じゃあ、あの世とこの世の遠距離恋愛だな」
と、下村らしいことを言ったのを、冗談じゃねぇよと笑い飛ばしたのに。
まんまとあいつの言う通りだ。
面白くねぇと、そっと笑みの混じる溜息を吐き出した。
表の扉が開いて、川中が顔をだした。
「おはようございます。社長」
僅かに緩めることのできる頬に安堵して、坂井はシェーカーを手にした。
忍耐力はある方だから、浮気の心配はなさそうだぜ?
ちらりとフロアの隅に視線を投げた坂井を、川中が黙って盗み見てそっと苦笑を零した。
2001/03/31
暗っ……
義手の形見より手袋の方がちょっとエッチィかなと勝手に腐れた考えからできちゃいました。
暗いままで終われない甘い下坂10巻後……下坂に限ってシリアスなの書けないですー(>_<)結局甘めになってしまう、末期症状……!?うちの坂井は下村の不在とか関係とかに対して諦めていると言うか受け入れている感じですね。