天使待ち



俺が駐車場見回りから、店の中に入れられて一ヶ月くらい経った頃だった。
以前、下村さんがしていたように、他の店を回ってブラディ・ドールに帰ってきて、カウンターのスツールに座って眠っている坂井さんを見てしまったのだ。
ブラディ・メアリとソルティ・ドッグが注がれたグラスが手付かずのまま、カウンターに置いてある。
それから、眠る坂井さんの手元にワイルド・ターキーのボトルと氷が溶けて中身が薄くなったグラス。
誰かを思い出すために、坂井さんはここで飲んだのだろうか。
俺よりはずっとずっと年上のはずなのに、カウンターに伏して眠っている姿は実年齢よりもずっと幼く見える。
泣きつかれた子供がこんな顔をしている。

下村さんと坂井さんの間には、特別な絆があった。
俺なんかには、決して見せないような顔を晒し合っていた。
俺も、普段人間臭さの乏しい兄貴分達がそんな面を持っていることが、何でか知らないけど嬉しかったのだ。

下村さんが死んだ。

坂井さんは、その日も変わらずにカウンターに立ってシェーカーを振っていた。
今日も、同じだ。
ただ、時々、フロアの片隅に視線をやって淡い微笑のような、深すぎる悲しみのような、
そんな何とも言えない表情を向けていることがある。
そこに立っていた、義手のフロアマネージャーとのアイコンタクトを思い出すように。

「しもむら」

小さな声が、二人だけのフロアに響いた。
聞き間違えじゃないかと思うくらいに、心細い声だった。
痛々しいほどの悲しみに彩られた寝顔に、思わずドキリとした。
坂井さんの寝顔にドキリとしたのではなくて………
………………薄っすらと、坂井さんの頭の上に手が見えるのだ。
白い………手袋をした左手。
その手ごしに、坂井さんの少し茶色の髪が透けて見える。
坂井さんの頭を撫でるように動くその手を負追って、視線を上げていく。
黒いタキシードの袖口。
ぼんやりと見えていたソレが、だんだんはっきりと見えてくる。
眠そうに見える目。
坂井さんに向ける時は、どことなく優しげだった。
泣き寝入りした子供をあやすような手つきで、ソレ………いや、もう姿もはっきりしたことだし、ソレ呼ばわりは失礼だろうから………下村さんは、坂井さんの頭を撫で、見てる方が恥ずかしくなるほど優しい眼差しを注いでいる。
カウンターに右肘を突いて頬杖にし、足は………ある………組んで、そこにいることが何一つ不自然ではない姿で存在している。

しかし、下村さんは死んだはずだ。
俺と社長と坂井さんが見守る中で、まるでどこかにちょっと出掛けるみたいな言葉を最期にして、目を閉じた。
だから、ここにいる下村さんは、俗に言わせていただけば、幽霊というやつになる。
その下村さんが、振り返る。
幽霊と目を合わせてしまった。
これ、俺の初体験。
生前と何ら変わりのない顔で、僅かに口角を持ち上げた。
ゆっくりと、口を開く。
喋れるんすかと、聞きたかったが声がでなかった。
それどころか、指一本動かない。
金縛り、と言うやつだろうか。
これまた、俺の初体験。
『よう、元気そうだな。高岸』
声も変わらない。
俺の耳にちゃんと聞える声だ。
『頑張ってるみたいだな』
これは、夢だろうか。
幻だろうか。
『坂井にさ、伝えといてくれよ。あっちで、藤木さんや叶さんや秋山さん達と飲んでるからって。まぁ、早く来る必要はないけど、待ってるからなってさ』
………あっち、ですか………
昔から霊感なんてものには縁がなかったし、幽霊も会えばいると認めるしという感じだった。
この街に来て、俺は少し変わったと自覚していたが、こんな変わり方は自覚したくなかったものだ。
生前より刺々しさが消えて、どことなく柔らかい雰囲気に包まれているような下村さんが、俺に優しい顔を向ける。
初めて見るような、人間臭い表情だ。
『高岸、少しくらいのミスなんかはいいからさ、一つだけ約束しろよ』
真剣な声。
俺が、下村さんや坂井さんの頼みを断れないことくらい知ってるはずなのに。
左手で、変わらずに坂井さんの頭を撫でながら下村さんは言う。
『こいつや社長より先に死ぬんじゃないぞ』
俺には、鋭い有無を言わせない視線を向けて。
『いいな。これ以上、こいつより先に死ぬ奴がいてみろよ。ブラディ・ドールのフロアマネージャーをやる奴がいなくなっちまうからな』
そう言えば、下村さんの前任のフロアマネージャーも、坂井さんの見守る中で死んでいったと聞いた。
それに続いて下村さんも………。
確かにこれ以上は曰くがつきそうだ。
『社長のことを待ってる人もいる。西尾だっているぜ? でも、急いでくるんじゃねぇぞ』
言いながら、下村さんは幽霊の自覚が欠如しているかのように、カウンターに坂井さんが並べていたブラディ・メアリを口に運んだ。
傾け、飲み干す。
『どう生きようがお前の勝手だけどな、社長や坂井を苦しめるような生き方はするな。頼むから』
自分のことは棚に上げて、下村さんは淡い苦笑を浮かべ、今度はソルティ・ドッグを飲み干す。
『ま、社長や宇野さんにもよろしくな。こっちは、いくらでも時間があるんだし、いくらでも待ってるから』
ゆらり、と下村さんの姿が揺れた。
同時に背後の酒棚が透けて見え始める。
『じゃ、またな』
またな?
俺がその言葉に気を取られている間に、下村さんは坂井さんの額に口唇を寄せ、
そのまま空気に溶けるみたいに姿を消した。
数ヶ月前と同じ、ちょっと何処かに出掛けるように。

喋り手のいなくなった店内は、耳が痛くなるほどシーンとしていて、坂井さんの寝息が僅かに聞き取れるほどだ。
体の自由はかえっていたが、俺はなかなか動けずにいた。
夢、だろうか………幻だろうか………現実だったんだろうか………
カウンターに目をやると、空になったグラスが二つ並んで置かれていた。

もそりと、坂井さんの頭が動いた。
物憂げに頭を起こし、両手で顔を覆い、深い深い溜め息をついた。
背後の俺には気付いていないらしい。
俯いているままだから、きっと空のグラスには気付いていない。
「………坂井さん」
俺の乾いた声に、坂井さんは肩を跳ね上げ硬直し、一拍の間を置いて振り返った。
「なんだ、高岸、まだいたのか」
いつもの声。
「………さっき、下村さんが、来たんですよ」
信じてもらえるだろうか。
いちかばちかで俺は切り出す。
下村さんの頼みだ。
例え笑われようがかまうもんか。俺だって半信半疑だ。
坂井さんは笑い飛ばすか、蹴飛ばすかするかと思ったのに、
「そうか」
と言った。
それから、空のグラスに目をやり困ったように髪をかきあげる。
「………藤木さんや叶さんって人や、秋山さんとアッチで飲んでるらしいですよ」
くっと、坂井さんが笑いを堪えたような顔になる。
「それで?」
「………それで、急ぐ必要はないけど、待ってるからって。時間はいくらでもあるから、待ってるって」
坂井さんの長い指先が、俺の話を聞きながらグラスの縁をグルリとなぞる。
「そうか」
口元には、さっき下村さんが浮かべていたような淡い笑みを浮かべている。
それから、そっと目を閉じて沈黙する。
その沈黙が耐え難い重さを持っているような気がして、俺は口を開く。
「坂井さん」
硬くなってしまった俺の声に反応して、坂井さんが振り向く。

「俺は、坂井さんより先には死にませんから」

藤木という人も、叶という人も、凄い人だったらしい。
でも、二人とも………下村さんも、坂井さんより早く逝ってしまった。
死んだ人間には敵いっこないし、生きていたとしても俺なんかじゃ足元にも及ばないだろう。
でも、俺は生きている。
坂井さんの看取ってきた人たちにはできないことが、一つだけできる。
「俺は、坂井さんより先には死にません」
誓うように言うと、坂井さんがまた笑いを噛み殺す。
スツールから降りると、空になったグラスを暫し見つめ、それを流しに運んだ。
「順番通りにいけば俺が先なのは当然だろ? あ、俺より先に社長か」
「坂井さん」
冗談にとられているのなら不本意だ。
「わかってるよ」
グラスを洗いながら、坂井さんは顔もあげずに言った。
「わかってるさ。男の顔になってきたじゃないか。高岸」
「なってきたって。じゃぁ、今まではなんだったんですか」
「坊やだろう? 俺も、叶さんにそんなこと言われてきたよ。今の俺がなんなのかわからないけどな」
坂井さんは男だ。
俺はまだまだ坊やでしかないだろうけど、いつか坂井さんに男になったと言わせたい。
そのために、俺は生きなければならない。
「下村さん、元気そうでした」
「元気ねぇ。しかし、あいつ。藤木さんや叶さんとどんな話してるんだろうなぁ」
「俺より先に加われますよ。坂井さん」
「言うな。夢枕にみんな揃ってたってやるから覚悟しろ」
そんな不思議なやりとりが、俺と坂井さんとの間で交わされたのは世にも奇妙な夜更けのこと。

数日後、俺は深夜のブラディ・ドールで暗い目をした藤木さんと出会うことになる。
それから暫らく、俺は恐怖のメッセンジャーを務めることになってしまったのだった………。


2000/12/05
こんな一言があればみんな随分楽になるんじゃないかなぁと、思いまして………
BDキャラ、私の中での救済話(笑)
高岸君に怖いところを持ってってもらいました。なんか、見えそうだし………高岸の語りなのに、下坂話し。でもでも、すこーし、高坂!?
アッチで、会話している藤木&叶&下村あたりを書きたいなぁ。怖い物書きたさで………

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