ペタンペタンと山のような書類に無造作に判子が押されていく。
そんなのガキでもできますよと、普段なら飲み込める言葉が口を付いた。
途端、目の前の上司の手は止まり、ベビーフェイスがこちらを向いた。
彼は普段人を馬鹿にして嘲ってみせても、睨むということを滅多にしない。
山崎に向けられた視線も、音声さえ耳に入れなければきょとりとした可愛い表情ではある。
「なんでェ、山崎のくせに」
「山崎の分際で言わせていただきますよ。沖田副長代理」
知り尽くしているはずの太刀筋がいつもと違う動きを見せることに戸惑いながらも見極めようとするような、緊張感。
「その書類」
と、沖田の手元にある書類を指す。
「沖田副長代理が捺印した後、どうするかご存知ですか?」
「……近藤さんが判子押して、上に上げるんだろィ」
「ご存知でしたか。では、局長がどんな風にその書類に目を通すか想像してみてください」
普段容易に素の感情をのぞかせないが、実は大きな瞳は動きがわかりやすい。
ちらりと視線が逸れたかと思うと、畳に落ちた。
「局長もデスクワークが得意ではありませんから、細かくはチェックされません。沖田副長代理の名前が間違っていることも、負傷者数が隊士全員の人数になっていることも、事件発生の日付が十年前になっていることも、副長が承認されれば局長もすんなり判子をつかれます。そしてそれが真選組の意見になります。その程度のミスでも下っ端組織の我々には命取りになり……、真選組は、潰されます」
ぴくりと沖田の指が動いた瞬間、淡々と続けた説教は一瞬途切れたが、覚悟を決めるように結論を言い放つ。
「その席は」
ヤニ臭い文机を指す。
「真選組の要です。バズーカの弾薬や毎日の飯がわいて出てくるわけもないし、毎日同じルートを見回ってればいいってもんでもない。カチコミもただ突っ込んでいくだけじゃ仕損じるし、近隣住民への影響を考慮すれば他の組織とのやり取りも必要になる。ちなみに、そこに落ちてる書類は一刻も早く上げてください。来月の給料が出ません」
そう言えば探りの仕事を一件継続中だった。
引継書も何も書いていないけど、誰か状況を把握してやり遂げてくれるだろうか。
棺桶にはミントンのラケットを入れて欲しい。
そしてこの前みたいに、とっつぁんのペットのオマケみたいな葬式は絶対にぜったいに勘弁して欲しい。
自分から死線を跨いだくせに、そのための準備はまったくしていなかったことに気付く。
一歩退いて冷静になんて、名が廃る最期になりそうだ。
山崎自身、沖田への反乱に挑むにあたっての覚悟は足りなかったかもしれない。
けれどそれ以上に、
「そんな覚悟で副長の座を狙うなんて、百年早いですよ」
隊内最強の剣士が抱く野望への覚悟の足りなさが、堪忍袋の緒をぶち切るくらいには気に食わなかった。
光量の足りないホテルの明かりの下で書類を広げていた土方は、低く唸りながら震える携帯電話をとった。
近藤の名が表示されたそれに、さて何か問題でも起きただろうかと通話ボタンを押す。
『もしもしー? トシ? 今いいか?』
「おう。何かあった?」
何かあるだろうと思ってはいた。
何か起こすだろうとも思ってはいた。
だから一週間も出張で屯所を離れるなんて嫌だと言ったのに。
参謀を失った隊がようやく落ち着きを取り戻したと思ったら、その参謀が背負っていた仕事がごっそり副長に降りてきた。
政治活動なんぞ剣術集団に必要ないとは思うものの、あの憎たらしい参謀がいなくなったことで確実に真選組が使える武器や資金は削られている。
不祥事で切れかけたコネを繋ぐための脅迫行脚には局長よりも副長の方が適任であろうと、幹部会議で決まってしまった。
どいつもこいつも、資金援助の催促と強奪の違いがわからないと首を捻るから仕方がない。
どうせ自分達に伊東の真似はできないのだから、お偉い方の前で刀の鍔をカチャカチャ言わせながら、真選組の制服脱がせることは狂犬共を繋ぐ鎖を切って野に放つのと同じことだから、真選組って檻におさめといた方が得策じゃないんですかねえ。うちには攘夷派のブラックリスト以外にもいろ〜んなリストがあるんですよねえ。
そんなことを呟けばいいのだと言えば、強奪と脅迫の意味がわからないとまたどいつもこいつも首を捻る。
千両箱と金の成る木の違いだよ。
切ってしまう前に、搾り取れ。
一週間とは言え鬼の副長不在が隊士の緊張感を緩めすぎる効果を持つことは、先日の一件で思い知っているので代理を置こうということになった。
少年の夢を叶えてやりたいと願う人情だけは満載された馬鹿な大人達によって、代理の座にはサドの星からやって来た王子様が就任することが決まった。
代理ってのが気に食わねぇと愚痴る総悟に、自分の不在の間にも回ってくる事務処理の仕方を叩き込んで、出張から帰ってきたら絶対に仕事が倍以上に増えているのだろうと哀しい覚悟を決め、スーツケースに一切の期待を詰め込まず屯所を出たのは一昨日の話だ。
昨日も近藤とは連絡を取り合ったが、大きな事件も出動もなかったことと晩飯のメニューが告げられた。
今日の電話はちょっと声の調子がおかしい。
『そっち、どうだった? 酷いこと、言われなかったか?』
何か問題が起きているのだろうに、それを後回しにして土方を気遣う優しさに眉間に寄っていた皺がとりのぞかれていく。
「俺がわざわざ出向いてるんだぜ? 真選組を馬鹿にするようなこと、言わせるかよ」
暫くして、そうだなと言う返答があった。
さあ、本題だ。
「で? そっちこそ、何か問題でも?」
『あー、……うーん、なんと言うかだなぁ……』
言いよどむ余裕があるということは、緊急の用ではないらしい。
どうせ書類の書き方がわからないとか、その程度のことだろうと思っていると、
『喧嘩、しちまってな』
意外な答えが返ってきた。
「総悟とか?」
『いや……、俺じゃなくて。総悟と、山崎なんだが』
「山崎ぃ? なんだそれ、喧嘩か? 山崎の葬儀はいつだ?」
『や、まだ死んでねぇよ?』
自分がいない屯所で何が起こっているのか、まったく想像ができなかった。
総悟の身勝手で理不尽な暴挙に山崎が巻き込まれたり一方的に叩きのめされたりすることはあっても、それは喧嘩とは言えない。
余計な一言があったりミントン馬鹿ではあるが、周囲や自分の置かれている状況を冷静に把握できる山崎が何を仕出かしたというのか。
『この二人が喧嘩するってことも珍しいんだが、総悟の奴な、バズーカぶっ放したりしなかったんだぜ。抜刀もしなかった。山崎も逃げたりしなかった。俺が駆けつけた時には二人とも取っ組み合いの喧嘩してた』
それは是非とも見たかった。
「原因は?」
『お前』
「は? 俺?」
『まあ、言い分は双方から聞いてくれ。総悟―、ほら、トシに説明してやれ』
近藤が移動する気配があって、たっぷりの間を置いてから、
『早く帰って来て死ね土方このヤロー』
いつもと寸分違わぬふてぶてしい声がして、問答無用で電話は切れた。
あいつ、ほんっとに打たれ弱いなあ。
早く帰って来てなんて、もう随分と長い付き合いになるが冗談でも聞いたことがない。
暫くするとまた近藤からの電話があった。
だが相手は近藤ではないらしい。
『……副長?』
おそるおそる呼びかけてきたのは山崎だった。
「ああ」
『あの……、すみません、俺……』
用意周到な山崎らしくなく、言い訳も状況説明の言葉も出てこないらしい。
これは、隊士同士のいざこざと言うよりは弟分同士の喧嘩らしいので、
「いいから。何があったのか、言ってみな」
少しだけ甘い声が出た。
それから山崎は、つっかえつっかえ、何度も合間に謝罪の言葉を挟みながら経緯を打ち明けた。
副長が、睡眠時間削ってデスクワークしてるの知ってるし。
本当は、副長がデスクワーク得意でしてるわけじゃないのも知ってるし。
俺ら監察が上げた報告書、例え思った結果が出てなくても一言一句目を通してくれてるの知ってるし。
この前だって、副長がいなかったら俺ら性質の悪いチンピラ集団に成り果てちまうし。
副長が、いつも頑張ってるの、知ってるから。
沖田さんが何の覚悟もなく副長の席に座るのが腹立たしくて。
わざと傷つけるようなことを言いました。
沖田さんだって、きっと、わかってるはずなのに。
沖田さんはデスクワークできなくても、実戦で率いるタイプだって言うのも十分わかってる。
途中、グスリと洟を啜る音さえ聞こえてきた。
あーあ、もうほんっと、しょうがねぇなあ。
「山崎ぃ」
『……はい』
「お前ぇの拳、ちったぁ総悟に当ったか?」
『ちょっとだけ。でも、俺が沖田さんに殴られた数の方が、多いっす』
「だらしねぇな。お前、日ごろやられっぱなしなんだから、こういう時に仕返ししとけよ」
『もう十分ですよ。明日からどうやって生き延びましょう』
「せいぜい頑張るんだな」
『はい』
「近藤さんにかわってくれ」
『はいっ』
局長〜と、上司を呼ぶには不適切なほど朗らかな声が聞こえてくる。
ほどなくして電話口には笑いを含んだ近藤の気配があった。
『嬉しくって涙が出るだろ、トシ』
「あぁ、ホームシックになりそうだ」
家族みたいな集まりになればいいと屯所前に看板掲げた時、近藤は夢を口にした。
そんな甘ったるいだけの繋がりではやっていけねぇと思ったし、実際法度なんてものを作って縛りもしてる。
それでも、いってらっしゃいと玄関を出て行く背に一声かけてしまうし、無事に帰ってきた姿を見れば安堵する。
何もかも曝け出せるわけじゃないし、理解しきっているわけではない。
でも、同じ制服着て同じ名目で刀ふるって、同じ男を大将に据える誇らしさを感じ、同じ罪を被り続ければ情も湧く。
繋がりは完璧なものじゃなくていい。
継接ぎだらけの一枚布を形成して、その上に局長が誠の文字を堂々と大書する。
そういう場所でいい。
あれが、自分の巣だ。
『なんかさ、久しぶりに息抜きに旅行に出たお母さんの不在を預かる、不甲斐ない父親の気分だ』
「誰がお母さんで、どこが息抜きの旅行だよ。それにあんたは不甲斐なくもない」
『いやいや、俺もちょっと反省した。これからはちゃんと書類に目を通します』
「ザルの目通されてもな」
『ひどっ!』
「いいんだよ、あんたは。俺よりも重いもん背負ってるんだから」
真選組の呼吸を今日から明日へと繋げる作業の何一つ、苦痛なわけがない。
『早く、帰って来てくれよ。お前がいないと、重すぎて潰れそうだ』
「そんなこと言われたら、明日から会う予定のお歴々の首を跳ねなきゃいけなくなる」
『いやいやいやいや、何物騒なこと言ってるの! 我慢するから予定通りで帰営してください、お願いしますっ』
帰りたい帰りたい。
帰巣本能が訴える。
早く帰って、雛たちを甘やかしたいと思うのは果たして父性本能なのか母性本能なのか。
明日顔を合わせる連中は、あんた達の腹を満たすための金づるでもある。
せいぜい大事に繋いでおくさ。
「総悟と山崎に、土産は何がいいのか相談させといて」
『わかった』
「それで山崎を、副長代理補佐に就任な」
『了解』
「帰ったら机の上に書類が一枚もないっての、期待したいなあ」
『……それは……しない方が、いいんじゃ、ない?』
はたして、帰営した副長室には、見慣れたハゲ頭が鎮座していた。
「……お前、何やってんの?」
振り返った原田の目の下にはくっきりと隈が浮かび上がり、最早それは狂相と化していた。
「……おぉおせぇえよォオオー!!」
ひしと縋り付いてくる原田の周りには書類が散乱している。
「沖田は代理じゃやっぱり面白くねえとか言って役降りるし、山崎は探りの仕事があるからって帰ってこねえし、局長はあんたが帰ってくるまでに書類全部片付けようってはりきるし!」
回り回って原田がこの席につくことになったらしい。
原田の奮闘虚しく、嵩は減ったとは言え不慣れな原田の手によって引っ張り出された資料と書類が散乱している。
「あっ、副長、おかえりなさい!」
ひょこり現れた山崎は、先日の愚図り声などなかったかのように晴れ晴れした顔で、
「攘夷浪士の潜伏先、突き止めました! これ報告書です!」
書類の束を追加していった。
「なんでぇ、土方、もう帰ってきやがったか」
パタパタと廊下を走りぬけながら総悟が書類を放り込む。
店舗全壊、パトカー爆破の文字踊る始末書。
全身をボキボキ言わせながら立ち上がった原田は、やっぱり副長はあんたじゃなきゃなと解放の喜びに浸りながら爽やかに親指を突き出して逃げ出していった。
呻き声の聞こえる隣室の襖を開けると、紙に塗れた局長が倒れていた。
もう絶対、この席を明け渡すものかと土方は久方の巣を見て誓ったのだった。
2008/07/22
おかんな副長が大好きです。総悟と山崎は年の近い兄弟的な関係があればいいな〜。近藤・土方ほどの包容力はないけれど、やんちゃな弟分の行動をあわあわしながら見守って後始末して歩けばいい。