最期の地に訪れた春は、硝煙の匂いがした。
背筋がいつまでも寒い。
黒谷から壬生の屯所まで歩けばこの時期のことなら汗ばんでくるほどなのに、蟻通は寒さを感じながら黙々と歩を進めていた。
数歩前には黒い紋付姿の土方が比較的ゆったりとした足取りで狭い路地を選んで行く。
当てもなく迷っているようにすら思われる進路だが、聡明な副官の頭には都の全ての路地が入っている。
ひょっとしたら家の並びすら記憶しているかもしれないが、蟻通にはそれを確かめることはできない。
今日の供とて、大部屋にひょこりと顔を覗かせた土方が気まぐれに指名したに過ぎない。
「蟻通」
と、一番に目があっただけという理由で名を呼ばれた時は、自分の名をこの人が覚えていてくれたことに驚いた。
何せ一対一で言葉を交わしたことなど、入隊の面接時以来のことだ。
それまでざわめきと気だるさが充満していた大部屋が、土方が姿を見せたことで水を打ったように静まり返った通り、鬼と囁かれる副長の存在は蟻通にとっても脅威だった。
死を司る存在でもある副長は、目が合っただけ、近付いただけで死に一歩近付くとさえ噂されるほど恐れられている。
一分の隙も見せられぬ緊張感を持ち続けながら、蟻通は黒谷参上の供として土方の後ろを付いて回っている。
六月の池田屋以降、蟻通の纏っている浅黄色は人々に脅威を与えると同時、一部の男達からは憎悪を持って注目される的となった。
待ち伏せの可能性も十分にあると先を行こうとした蟻通に後ろを行くようにと短く告げた理由は、この気ままな路地散策にあるのかもしれなかった。
元より供などつける気もなかったのだろう。
局長が出掛ける際とは対称的に、土方が供を引き連れて外出することは滅多にない。
それに関して幹部達からは危険だと声が上がっているらしい。
今日も屯所を出る間際、沖田がひょこりと現れて蟻通の姿を見るなり、
『良い傾向です』
と、若者らしい澄まし顔を作ってみせた。
それを一瞥した土方は無表情のまま指先で沖田の額を弾き、一言寝ていろと命じて屯所を出た。
往路一声もなかった土方が黒谷で公用を済ませる間、控えの間でようやく蟻通は息をつくことができた。
黒谷を出る寸前、威風堂々と構える門前で、土方は空を見上げて僅かに肩を上下させた。
肩の荷を降ろしたような、そんな仕草に蟻通は内心驚いた。
恐らくは先日の池田屋の報告の続きがあったのだろう。
新選組の名を京の都に轟かせる絶好機。
祇園会所に通り渡る凛とした声で発した言葉を現実のものとするには、ただ旅籠で浪士相手の大立ち回りを成し遂げたと言う実績だけでは足りない。
会津や都の市井に対する事後処理だけでなく、隊内への気配りも必要となる。
隊が武名をものにし大きく強く変貌しようと枝葉を伸ばそうとする意志を、隊士の目には映りにくい処務が促していく。
隙をつくることが許されないのは、土方の方なのだ。
「寄り道していくぜ」
だが蟻通を振り返った土方は、そんな苦労も疲労も感じさせない無表情で先を歩き出した。
検分の続く池田屋を暫し眺めたかと思えば、細い路地へと入り込んでいく。
一つ角を曲がる度に蟻通の肝は冷えた。
池田屋前を通った浅木色の羽織に、ぞっとするほど整った白皙の面の男の正体など一目瞭然。
白昼ではあるが、薄暗い路地には死角も多い。
狙ってくれと言わんばかりの行動に、蟻通の神経はピリピリと張詰める。
「釣れた」
土方のかすかな呟きを耳が捉えた瞬間、蟻通の体は本人の意思とは無関係に動き出していた。
数歩先で立ち止まった土方の前にすべり出ると同時に腰を沈め、火消し桶の陰から姿を見せようとしている影の動きを追う。
ギラリと抜き放たれる白刃の輝きが紛れもなく自分達に向けられていると確信した時、蟻通の播磨住昭重も白昼の下にその素肌を晒す。
初太刀を返し間髪置かずに攻撃に転じる。
相手に呼吸をさせないまま、蟻通の一太刀は浪士を袈裟に切り下ろす。
短い断末魔とは別方向から、裂帛の気合を発しながら土方へ向けて進む影が見えた。
土方の腕ならば切り伏せることは可能のはずだが、蟻通の体は機敏に動き、相手の刀が振り下ろされるより早く胴を薙いだ。
蟻通の体は相手の懐深くに踏み込んでいた。
刃を食い込ませた腹の肉の波打つ振動がか弱いものとなったのを感じながら、蟻通は魂を放とうとしている人型の容器から刀を抜き出した。
どうどうと流れていた血が一瞬吹き上がり、蟻通の浅黄を黒く染めた。
周囲の気配を探るが、他に待ち伏せの刺客はないらしい。
それを確認してからようやくm蟻通は自分の呼吸を取り戻した。
胸の奥まで空気を取り入れると、応戦の気配を全く見せなかった土方の姿に対する怒りが沸いてきた。
軽い興奮状態だったのだろうと思う。
「危険な真似をっ」
振り向き様に思ったままのことが声になった。
冷静になって考えれば、よくも自分如きが新選組の副長に大声を上げることができたものだと思う。
土方にとっても滅多にない状況だったろうに、満足げに目を細めるその顔に返り血が花を咲かせたように色を添えている。
女のようだと隊の内外から形容されるその顔が微笑めば、さぞかし華やかなものになるだろうにと誰もが思っていた。
それが決して笑みを見せることなく、血のぬくもりを感じさせない声で粛清を告げる。
それはある種の神々しさを感じさせる光景だったのかもしれないと、蟻通は桜の蕾の綻びを思わせる微笑を見て思う。
作り物めいた面差しから発せられるから死の宣告は絶対的な響きを持ち、憎しみよりも先に恐れを抱かせるのだろう。
死の宣告者は近藤でも山南でも務まらない。
この造作を持って生まれ、覚悟を秘めた男でなければならない。
「腕を上げたな、蟻通」
「……私を、試したのですか」
「まさか。入隊の時に立ち会わせた沖田が良しと言ったんだ。今更、試すまでもない」
「では……、何故」
間に合ったから良いものを、蟻通の動きが僅かに遅れれば土方の綺麗な顔はぱっくり割れていた。
沖田や斉藤の腕を信じるならまだしも、平隊士で抜き出た剣技を持たない自分の腕をそこまで信じられても困るのだ。
「お前ぇが命を張るから、俺も同等のもので張り合わなきゃ、つりあわねぇだろ」
蟻通の困惑を知らない土方の笑みは、驚くほど穏やかなものだった。
二つ、途切れた人生が転がる路地裏の明かり差さぬ暗がりに似合わない、春の香りのする笑みだった。
鬼と呼ばれるこの男は、前線で命をかける隊士を、同じ命をかけて信じると言う。
士道に背いた者には容赦のない断罪を。
けれど士道を貫く者を守るためなら、土方は己の情も塗りつぶし地獄への手形を胸に埋め込み知恵と謀略の全てを振るう。
新選組隊士である限り、土方歳三は決して見捨てない。
命を救うことが難しい状況が訪れようと、最期は必ず武士として逝かせてくれる。
そのことに当に気付き、己の行き先の全てを預けた男もいる。
監察方の連中の多くはそうだろう。
俺も大概、見る目のない。
目の前の翳りを取り払われたような気持ちだった。
真っ直ぐに、鬼の副長の顔を見つめることが出来た。
懐を探り懐紙を取り出す。
「お顔に、返り血が」
頬を拭った紙は赤く汚れた。
白い頬は氷が解けるように綻び、蟻通を捕らえた。
ここは、京の都の細い路地裏に似ている。
眼下に箱館市中を見て、蟻通は立ち込める血の匂いを嗅ぐ。
鼻を刺す硝煙の匂いが混ざるのが、王都と違う。
この火薬の匂いが新選組の血肉を侵し、担いでいたはずの神輿を掻き消し、とうとう果ての地へと追いやった。
転戦を重ねては存在意義を薄れさせていた白刃を、蟻通は最期まで手放すことができなかった。
自分を取り囲んだ三人の血を吸った刃は、蟻通の腹の上で己から流れる血を吸っている。
白河口で風通しのよくなった体を、足手まといを承知の上で北へと向かう船に乗せてもらうように懇願したのは一年ほど前のことか。
訴えた先、土方はあの京の路地裏で見せた笑みに苦いものを混ぜて一言馬鹿野郎と悪態つき、蟻通の体は船上へと運ばれた。
雪の中、安静を守った体の穴は春を目前に塞がった。
それが今度は串刺しだと思えば可笑しくもあった。
視界に映る市中に淡い霧がかかりはじめた。
あの中に、副長がいる。
鬼神の如く怒りと冷酷さを含んだ采配で新政府軍を砕き、慈母の如く戦いを望む侍を守ってきた人。
あの人がこの死を知ったら、武士の最期であったと思ってくれるだろうか。
もしかしたら、少しだけ悲しんでくれるかもしれない。
希少なものだったはずの路地裏の笑みは、いつからか新選組隊士みんなのものになってしまっていた。
心の柔らかな部分を我々に晒してくれたあの人の耳に、この戦死の報は届くだろうか。
新選組隊士であったことをどれほど誇りに思っていたか、最期に伝える術があればいいのに。
信じ、命をかけるのに悔いのない組織の一部であれたこと。
あの人が信じてくれる男であれたこと。
命消えいく瞬間に、笑い出したいほどの力が漲る。
時代の藻屑となるこの人生、暫くの間は逆賊として踏みにじられることだろう。
けれど、何も恥じることはない。
後世に誇れる人生であったと胸を張っておさらばできる。
遠く霞む箱館の街。
己を導き、命をかける場を与えてくれたあの人も、微笑みながら発つのだろう。
最期の瞬間に訪れた春は、血腥い京の都の細い路地の気配がした。
2008/5/23
7周年記念企画のお題募集でいただいた「あのひと」から。あの人、つまり土方副長。あの人、つまりまさかの蟻通。
7th企画で上げたSSのうち半分が死にネタ……。
池田屋当時も在籍し、箱館で散った平隊士・蟻通勘吾。勝利も地位も与えられなかった彼が、新選組として最期の地で戦死した理由はなんだったんだろう、と思いながら。