夜の帳の中を歩くその人は夜目が効く。
そこら辺中に転がる隊士の体を踏みつけることなく、暗がりを行く猫のような足取りですいすいと縫い、時折しゃがみこむ。
何をしているのだろうと、夢見心地で眺めていた。
久々に浴びるほどに飲んだ酒は島田の巨体を人肌に温もった布団に縛り付け、徐々に近付いてくるその人影をぼんやりと見上げることしかさせてはくれなかった。
まず、白い手が浮かび上がってきた。
あぁ、副長か。
ゆっくりと闇の中に浮かび上がってきた白皙の面。
自分の近くでのびのびとした大の字になって眠る野村の傍らに膝をつくと、跳ね除けられていた布団を掛けなおしてやる。
土方は五稜郭で行われていた蝦夷地平定の祝賀会に参加していたはずだ。
土方は渋っていたが勝将軍が抜けたのでは格好がつかないと、開陽の喪失からようやく立ち直った榎本が粘って了承をとりつけた。
式典が終われば兵たちはそれぞれの仲間をつれて箱館市中に繰り出し、新選組も同じように集まって宴会を開いていた。
馬上、洋装の軍服を痩躯に纏い腰には幾多の血を吸った愛刀を引っ提げた涼やかな顔立ちをした自分達の将が、如何に兵の視線を釘付けにしたかを語り合い、彼の人がここにいないのを悔しがる。
歩兵も交えた式典が終わると、幹部達は役職を決めるための入れ札だとか今後の会議だとか外国公使との祝賀会だとかで、土方の姿も大鳥や松平達と共に消えてしまった。
護衛についていた安富も、土方から先に行っていろと言われて宴に加わっていた。
雪中の進軍、本土との別れ、開陽の座礁と慌しかった身に注いだ酒に、隊士は皆酔いしれて、飲めや歌えやと座は賑わった。
一人つぶれて、また誰かが沈み、宴の火は待ち焦がれる上司の到着を待たずに自然鎮火していった。
お開きになった宴に顔を出し、酔いつぶれた部下の身を労わる土方の姿を見たら、ここにいる全員が涙を流して喜ぶだろう。
布団を掛けなおされた野村が、意味不明な寝言を口にしてごろりと寝返りを打った。
また跳ね除けられた布団に苦笑しながら、土方の手がそれを整えてやる。
そうして島田の傍に移動して、ぼんやりと開いている目を覗き込む。
「起こしたか?」
「……いえ」
「君が酔いつぶれるのも珍しいな。今夜の酒は甘かったか?」
「……はい」
ほっそりとした指が、まるで子どもにそうするように島田の頭をやんわりと撫でる。
これは夢ではないのかと思うまま、いつも熱を帯びにくい手が温かいことに安堵して重たい目蓋を下ろした。
「眠りな。雪が溶けるまで、俺たち剣術屋の出番はなさそうだ」
眠りへ促した声に、島田は古い古い記憶を撫でられる。
自分が誰を母だ父だと認めればいいのか定まることのなかった幼少時代。
母の声など思い出せはしないし、かけられた言葉一つも覚えてはいない。
けれど、己の命を捧げようと決めた男の声は確かに母のものと似ていると、眠りの縁で思ったのだ。
古い仲間は小春日和に身を浸し、その日差しが記憶の中にしか棲まない人の眼差しであるかのように、幸福そうに目を閉じた。
その表情が永倉の記憶をかき回し、深い底へと沈んでいた一片の記憶を浮かび上がらせた。
江戸へと遡る遠い記憶。
島田が見たと言う鬼の優しく、けれど孤高の表情を自分も見たことがある。
上洛間もなくのことだ。
まだ自分達が新選組ですらなかった時のこと。
後ろ盾はないが志と腕と熱意だけは余りある。
清河たちと袂をわかち、手繰りに手繰った糸の先。
あぶれた浪士たちの存在に目をつけてくれたのは会津だった。
守護職預というこの上ない大義を得た試衛館一派と芹沢一派の十三人で祝いの酒を浴びた夜。
その日ばかりは派閥など気にすることなく、肩を叩きあい笑い合って飲んだ酒は八木家から分けてもらったものだったが、京都の酒はこんなにも旨いものかと余計愉快な気持ちになった。
やがて酔いつぶれた者が転がりはじめ、夜は更けた。
夜中、永倉がふと目を覚ますと、座敷には人の寝息と鼾ばかりが交差して、その中に背を起こした土方の姿を見た。
緩く口元を綻ばせながら、野口の腹の上に乗っていた原田の足をどけ、窮屈な姿勢に難しい顔で眠る山南を横たえてやる。
近藤と芹沢の体の上にその辺に脱ぎ散らかされた羽織を掛け、座敷の端へ腰を下ろすと盃を手に残っていた僅かな酒をそこへ注ぐ。
居住まいを正し、しばし盃を見つめた後、ぐっと白い喉を仰け反らせて一息に呷った。
何を覚悟したのか。
何のための一献だったのか。
一座を見渡す眼差しは優しいのに酷く切なく、それでいて強か。
これからじゃないか。
これから始まるのに、今からそんな悲壮な顔をしていてどうするんだい、歳さんよ。
そう言ってからかってやろうと思ったのに、憂いを吹き飛ばしてやろうと思ったのに、思考は酒に飲まれて心の深いところへと沈んだ記憶。
あの時、あんたは何を求めていて、いったい何を捨てたんだい?
失くした物は、雪深い最期の地で見つけることができたのかい?
あの人は、星明かりの中で微笑む人であった。
誰もが惑う闇の中を一人見通し綺麗に微笑むのだ。
勿体無いことだと、もうどこにも届きはしない愚痴に島田は静かに笑った。
もしかしたら、この男は真昼の太陽の下で微笑むあの人の姿を見たことがあるのかもしれない。
そう思うと、長いこと平穏に仕舞われていた嫉妬心が疼いた。
2008/4/7
明治の西本願寺境内とか。どこまでもお母さんな副長が好きなのであります。