結果はともかくとして、お前のその精神統一は立派なものだと相馬が何故か悲しい顔で褒めた。
その集中力をふつりと切り、野村はそぉっと顔を上げた。
自分の斜め前、火鉢を抱きこみ、背は床の間の柱に預けた土方が目を閉じている。
いつも伏し目がちの上司の気配を探るが、眠っているようだと己で出した結論に心臓が跳ねた。
音をたてないように手にしていた筆を硯に置き、文机の上に行儀悪く頬をつけて体勢を低くする。
下から見上げる土方の顔。
長い睫毛が行灯の灯りを受けて白い肌に影を落としている。
白日の下では不安になるほど白い肌も、今は蝋燭の柔らかい光に染められて血色が良く見える。
すべらかな肌に、幾つかの古い傷が浮かび上がっている。
勿体無いことだと言う者もいるが、その傷があるからこそ土方の美しさは凄みを増すのだと、野村は笑みを深めた。
二人きりの空間はいつも気を張っている上司にとって心安らぐものであったのか、口唇が僅かに開いている。
三十路も半ばに差し掛かったはずだが、とてもそうは思えない寝顔だ。
戦場で鬼神の如く振舞う人が、こんなあどけない顔で転寝をするなんて。
彼を慕って多くの男が新選組に名を連ねたが、彼のこんな顔を見ることが出来るのは極一部の者だけだと思えば優越感が沸く。
もう徳川も幕府もどうだっていいのだ。
意地、と言うのでもない。
この人のためにある己の命を身の内に感じる時、誇らしさに目の奥が熱くなる。
それが野村が戦う理由で、生きる大義だ。
自分は剣先。
この誇り高い侍が振るう刃の先の煌きでありたい。
憧れや尊敬と言う言葉では間に合わない。
姿を目にするだけでも感情が引っ張られるこれは、叶わぬことが重要な遠い片恋に似ている。
できることならば、この人の傍らに、あの人を連れて帰りたかった。
遠くはない記憶を掘り起こしていた野村の視線を奪った人は、ふっと睫毛を持ち上げた。
あまりに自然な覚醒だったが、暫く宙を見つめた土方がふわりと欠伸をしたから眠っていたことは確かだろう。
欠伸をする顔も魅力的なんてどういうことだろう。
「書けたのか?」
目を擦りながら、筆を置いたままでいた野村の手元の紙を覗き込む。
何の因果か最北の地でも市中取締りをすることになった新選組。
京時代なら口頭報告で済んだものが、今では書類で上げることが必要になってきた。
野村も、立場上見回りの報告を上げなければならない。
書き上げた書類が、字が読めないと手元に戻ってきたことが何度かある。
「俺の字も大概読みやすいとは言えねぇし、字なんぞ読めりゃあ十分だとは思うがな。お前のはどうにも読めねぇ」
野村自身が解読した書類を書き直した土方は苦笑しながら、任務の合間の手習いを命じたのだ。
土方の命ならば、苦手な書き物だって必死になれる。
今日も字の綺麗な隊士に作ってもらった手本を見ながら筆を動かしていた。
新選組屯所内で僅かな自由時間を過ごす隊士は野村の手習いを見てからかったり助言をしたりと見守ってくれていたのだが、夜中に市中で大人数が関わる喧嘩が起きたとかで皆出払ってしまった。
屯所を空にするわけにもいかないと、留守番役は野村に押し付けられた。
不満を募らせていたのだが、静まり返った屯所に突然顔を出した土方の来訪で不満は感謝へと塗り替えられた。
今や、箱館政府の陸軍奉行並。
新選組ばかりを相手にしていられない立場だが、学者肌な幹部に囲まれた五稜郭では息が詰まるのだろう。
時々、城を抜け出しては屯所へやって来る。
ひっそりとした屯所に何があったと首を捻っていたが、事情を説明すれば皆鬱憤が貯まっているのだろうと笑って、野村に手習いの続きを促した。
暫くは見守るというよりも監視するような眼差しに緊張していたが、いつの間にか筆を手繰ることに集中してしまっていた。
「ちったぁ、ましになったか?」
どれ、と手元を覗き込んできた視線が、やがて苦笑した。
「まぁ、読めるか」
及第点をもらえたらしい。
ほっとすると、余計なことを思い出した。
同郷出身の弟分が、大事そうに胸にしまっていた紙きれ。
恋文でももらったのかとからかいながら取り上げたそれは、土方の書き損じた反故紙だった。
ちゃんと了承を得てもらったらしい紙切れは、大事に畳まれて少年の御守りとなっていた。
いいなぁと素直に羨ましがれば、気を良くしたのか、
『副長の書かれる、月と言う字が可愛らしいんですよ』
返された御守りの一部にある“月”と言う字を指して見せてくれた。
癖のある字の中、鉄之助の指の先に独特の形をした“月”が書かれていた。
会津でもらったものなのだろう、何かと世話になった会津藩士の名前の一部だった。
全体的に柔らか味のある筆跡だが、その文字は月そのものの形を模したような曲線を持っていた。
夜、自分達の頭上に冴え冴えと輝く本物よりも、ふんわりと柔らかく発光するかのような一文字。
丁寧に畳まれた書き損じの反故紙は、少年の懐深くに大事にしまわれた。
羨ましいとそれを眺めた記憶。
「副長っ、俺の名前の手本を書いていただけませんか?」
思い出したらまた羨ましくなった。
火鉢を弄っていた土方にそう訴えれば、
「俺の字じゃ手本にはならんだろう」
呆れたように遠慮されるから、正直に欲しいものを口にした。
「御守りに」
その言葉に暫く思案した後、仕方ないと笑って筆をとってくれた。
「何の御守りだか知らねぇが」
サラサラと流れた筆が綴った自分の名前が特別なものに見えた。
「肌身離さず大事にします」
乾いた紙を丁寧に折りたたみ、懐にしまいこむ。
着物の上から在り処を確かめるように手をやると、
「妙な奴だ」
哀しいほど優しい眼差しが、行灯の光を受けて揺らめいた。
こんな目をする人の采配の下、早く、白刃を引っさげて駆け回りたい。
あの心躍る瞬間を、深い雪の中で待ちわびる。
やがてガヤガヤと人の気配が近付いて、屯所に人気が戻ってくる。
帰営した隊士達は土方の姿を目にすると、まるで子どものように先刻まで繰り広げられていたであろう大立ち回りを語り始めた。
相槌を打つその横顔を見ながら、野村は胸にしまった御守りを意識する。
窮屈ではないかと問うた屯所の間取りを見回して、あの青年は首を傾げて見せた。
「人がいっぱいになるとあったかくなるんですよ。だから、このくらいが丁度いいのかもしれません。男臭くてたまんねぇって時もありますが」
そう言って笑って、内緒話をするように言葉を続けた。
「副長が来てくださるとみんな喜ぶから、もっとあったかくなるんですよ」
その屈託のない笑みは、宮古の冷たい海に沈んでいった。
野村 利三郎
いつだったか、御守りにと請われて綴ってやった名前を戦死者名簿に加える。
暗い海に飲まれた懐にはあの紙片がしまわれていたはずだ。
何が御守りだ。
この身に何かを救う力などあろうはずがない。
それでも。
最期に見た野村は、誇らしげに笑ってくれていた。
何も救えないこの身は、あの笑み一つに救われる。
彼らに、何を返してやれるだろうか。
時代遅れになったダンダラ模様を今も誇りに思い、緋色の誠を嬉しげに見上げる馬鹿野郎どもに。
綴り終えた名簿を畳み立ち上がる。
焦りの色が見え始めた幹部たちに、起死回生の一戦が惨敗に終わった報告をしなければならない。
春がくる。
終わりの春が。
野村。
俺はお前の名前を肌守りに、お前の生きた時代の幕を引く。
2008/6/15
なんか死にネタばかりですが。
副長ムックに草森氏が副長の筆跡について語っておられて、月と言う字を幾つか並べて検討していたんですが、可愛い字だなぁと思ったらこんな話です。丸っこいというか、月を模ったような字体なんです。副長の書いた字が残ってるって、すごいよね。それが幕末って時代との距離だよね。りざぶーの字が上手かったら申し訳ない。