神託



 夜更け、静寂を保っていた部屋の襖が開かれた。
 新選組にとって最も残酷な報が入ってから、誰も寄り付くことができなかった部屋から土方が顔を出す。
 局長が、板橋にて斬首。
 それを土方の耳に入れた斉藤が、激情を表情や声に滲ませていた。
 斉藤が激するのを、市村は初めて見た。
 斉藤は十も数え終わらぬうちに退室し、廊下で控えていた市村に室内の気配を気にかけておくよう命じ、自分は古株の幹部と話をしてくると姿を消した。
 会津の深い緑の中で飴細工のような艶やかさを見せていたツツジが夕闇に飲まれはじめた頃、田村と玉置がやって来て廊下に座り続けていた市村の傍に寄り添った。
 ぐすん、と田村が鼻を鳴らしている。
 袴の上にぽたぽたと滴が落ちていく。
 つられたように玉置も呼吸を乱した。
 近藤局長の傍にいると、自分がどんどんと逞しくなっていけるような気がした。
 局長が太陽で、自分達は草木の芽だ。
 あたたかく力強い光に向かって枝葉を伸ばせば、いつか立派な武士になれるのだと信じていた。
 新選組と言う実力だけが物を言う組織で生きる猛者たちが、己の指針や生末を託すことができる稀有な人物だった。
 多くの思想に耳を傾けても、揺ぎ無い忠誠を貫く優しく強い姿。
 その周りに、多くの漂流者が腰を据えた。
 それが、何故、こんなことに。
 飲み干しきれない事実をゆっくりと噛み砕き辿っていくと、体が震え始めた。
 なんと悲しく、恐ろしいことか。
 憎いことか。
 ひたと静まり返った部屋を見れば悲しみは余計に深まる。
 どれほどの衝撃があの人を襲っているのだろうか。
 土方が近藤へ抱く想いの深さははかり知れない。
 誠の旗を覆う暗雲や塵があれば、土方は自分の潔白を代償にそれらを排除してきた。
 例え、自分自身が誠の文字を正視することができなくなろうとも。

 月明かりが冴えてきた頃、宿の者が廊下に幾つかの灯りを灯していった。
 戦いの最中、ますます勢いを増して徳川への忠信をこの世から消滅させてしまおうと北上する新政府の歩みも近付いてきている。
 それなのにこの場所だけ、時間が止まってしまったようだ。
 人の気配に振り向けば、斉藤と島田の姿が迫っていた。
 問いかけてくる目に、首を振って何事も起こらなかったことを告げる。


 その時、閉ざされていた障子が開かれた。
 きし、と白い素足が廊下を踏む。
 幾重に包帯が巻かれている足も、引き摺ることもなく踏み出された。
 松葉杖がなければ未だ歩くことはできないはずの足で、躊躇なく廊下を進んでくる。
 手には兼定。
 濃紺の着流しは闇に半ば溶け、常よりもずっと白い肌が浮かび上がっている。
 蝋燭の炎の色が、乾いた頬を染めた。
 ひたりと前進する土方の表情に、市村は息を飲む。
 いつも強い意志を湛えていた黒々とした双眸は、見たこともない光を帯びていた。
 情を押さえつけた上に塗りたくった冷酷さではなく、芯から冷えたような青白い光。
 立ち上がろうとした市村は、殺気に飲まれて動けなくなった。
 浴びせられる殺意を振り払うように深く息を吸った斉藤が踏み出した。
「どちらへ」
 行く手を阻むように立ちふさがる。
「有馬、香川の首を獲る」
 静かな声だが、市村の背筋が恐怖に粟立つ。
 傍らの田村も玉置も、息すら忘れたように硬直している。
 尚も一歩踏み出そうとする肩を斉藤が掴んだ。
「行かせるわけにはいきません」
「どけ」
「いけません」
 立ちふさがる斉藤の胸を土方の腕が押しやる。
「どけろ」
「副長!」
 先に声を荒げたのは斉藤だった。
 土方を繋ぐように手を掴んだが逆の腕が斉藤の顎を打ち、鈍い音が市村の耳にも聞こえてきた。
 体勢を崩しながらも、斉藤の手は掴んだ手を離してはいない。
「あんたまで失うわけにはいかん!」
 喘ぐように叫んだ姿を一瞥したが、土方は掴まれた手を振りほどく。
「どこへ行くと言うのです。板橋ですか、それとも首が晒される京ですか! 今あんたが乗り込んで行っても返り討ちに遭うだけだ。無駄死にだ! それを近藤局長が望むと思っているんですか!」
 尚も縋るかのように叫ぶ斉藤に押されるように、島田も土方の進路を塞いだ。
「副長」
 未だかつて、新選組副長の舵取りに異論を唱えたことなどない。
 土方のやり方は、目的を確実に遂げるためのものばかりだった。
 非情であっても、確かな信念が存在していた。
 無謀な土方の姿など、誰も見たことがないのだ。
 心の赴くままに行動する土方を、新選組副長ではない土方を見たことがない。
「副長」
「行かせてくれ」
 島田は静かに首を横に振った。
「島田! どけ!」
 空気が震える。
 土方の右手は兼定にかかっている。
 いつ抜いてもおかしくはない。
 決死の覚悟だろう島田は肩を震わせ、命にかけてここは譲れませんと言い切った。
 斉藤が制止しようと手を伸ばし、土方は前へ進むために僅かに腰を落として抜刀の構えを見せる。
 そこへ、市村は飛び込んだ。
 成長しきっていない体を土方の懐へ全て預け、銃弾に指をもがれた足へ体重を掛ける。
 一歩間違えば飛び込んだと同時に切り伏せられていただろうが、島田の体に姿が隠れていたことと、負傷した足では踏ん張りが甘かったのだろう。
 痩せてきていると心配していた体は呆気なく崩れ落ち、市村は土方の胸の上に圧し掛かる形となった。
「市村ァ! 邪魔をするな!」
 魂を圧迫するような怒鳴り声に襟足がちりちりと焦げるような感覚を覚える。
 本能が、この恐ろしい事態から逃げろと訴えている。
「副長を、みすみす敵に渡すわけにはいきません!」
 だが発した声は土方に呼応するような怒鳴り声となった。
 足掻き起き上がろうとする土方に、もう二つ影が圧し掛かる。
 呆然としている島田の脇をすり抜けた田村と玉置だった。
 小柄だが、子ども三人に圧し掛かられては土方も起き上がることはできない。
「局長からの命令なのです!」
 その言葉に抵抗がぴたりと止んだ。
「副長をお守りするよう言われました!」
「これは局長命令なのです!」
 ぼろりぼろりと零れた涙が、土方の上に降り注ぐ。
「副長も、局長から託されたのではありませんかっ」
 見下ろした土方の無防備な顔に、市村の涙が落ちていく。
「新選組を頼むと、それが、近藤局長からの命ではないのですか!」
 流山を出る前の、最後のやり取りを市村は見ていた。

 誠の旗が翻る場所に、必ず自分は戻ってくる。
 だから、それまでは新選組を頼む。
 頼んだぞ、トシ。

 悲しくて、美しい光景だった。
 近藤のおおらかな笑顔も、見送る土方の背中も美しかった。
 悲しいほどに、美しいと思った。
 泣きながら着替えを手伝った自分達小姓に、そっと言い聞かせた近藤の声の柔らかさを忘れることはないだろう。

 トシは意地っ張りで素直じゃないが、寂しがり屋で優しい奴なんだ。
 だから、俺がいないとひどく寂しがるだろう。
 だけど、

「新選組があり続ける限り、自分は、貴方の傍にいるのだと」

 寂しさに震えることがないように。
 悲しさに道を失わないように。
 気休めかもしれない。
 戯言だと怒るかもしれない。
 だけど、きっとこの言葉を支えにしてくれるから。
 誠の旗を掲げ続けてくれるだろうから、その傍にいてやってくれ。

「だから、行ってはいけません。局長は、ここにおられます。副長の傍におられるのです」
 土方の頬を濡らす市村の涙に、土方のそれが混じった。
 冷たい床に身を委ねた手から、兼定が離れる。
 土方を覆う少年たちの体温は、自分が散らした命のぬくもりと等しい。
 新選組の熱だ。
 近藤が傍にいる。
 流山で声なくかわした最後の抱擁。
 あの優しい腕を、広い胸を、この男の鼓動を刻み付けておこうと、目を閉じた。
 もう二度と戻ってくることのない温もりが、ここにある。

 あんた、なんてものを遺してくれたんだ。

 降り注ぐ悲しみを浴びながら、土方は目を開く。
 目尻から熱い滴が零れるのが感じられた。
 暗い廊下を朧気に照らす行燈が、土方の視界で滲む。
 花の形に切り出された意匠の輪郭がどんなにぼやけて見えなくなろうとも、そこに灯る光の色はとらえることができた。

 ああ―――――――

 溢れ出た声は、溜め息のようにも、悲しみに呻くようにも、答えのようにも聞こえた。


会津の清水屋かなー。流山も副長最期も、角度をちまちま変えながら何度でも書きたいと思う。

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