Cats



 にゃあと、黒猫が足元に擦り寄ってきた。
 坂井のアパートの近くに住み着いている野良猫で、真っ黒のビロードのような毛並みとハシバミ色の眼をした雄猫だ。
 野良とは思えない毛並みをしているのは、この猫が近所でも有名で可愛がられているからだろう。
 「クロ」と呼ばれるその猫に、近所の主婦や子供が餌を与えるのをよく見かけた。
 餌が欲しい時には、こうして人懐っこく擦り寄ってくるが、用がない時には呼んでも来ない。
 そういう猫らしい猫だ。
「なんだ? 今日は腹空かせてるのか?」
 坂井が帰宅する時間には大概腹を満たしていて、道を横切る姿を見かけるくらいなのだが。
 にゃあと鳴いて、再度擦り寄って坂井を見上げる。
 駐車場の外灯に照らされたハシバミ色が金色に光る。
 野良とは思えないほど綺麗な猫だ。
「仕方ねぇな」
 普段は無視しておく坂井も、不思議な輝きを見せる猫の眼に惹かれて、夜食にと買い込んだ食糧を入れたビニール袋を漁る。
 酒のつまみの袋を開けて、差し出すと齧りつく。
 ハムハムと旺盛な食欲を見せる猫の仕草から坂井は、眼を離せずに膝を折って猫をじっと観察する。
 きらきらと毛の先が光っている。
「綺麗な毛だな」
 そっと指先を背中に触れさせた。
 与えたつまみを平らげて満足した猫は、お礼とばかりに坂井の手に体を擦り付け、そのまま体を翻した。
 闇夜に消えるようにして去っていく猫を見送って、坂井は体を起こした。
 ふっと見上げた自分の部屋につく灯りに、思わずほっとしてしまう。
 ついた安堵の溜息を自覚して、それを否定するように首をふった。


 ドアの鍵を開けると、玄関に揃えられた見慣れた革靴。
「ただいま」
 声をかけると、リビングから、
「おかえり」
 と返事が返る。
「遅かったな」
 リビングのソファーに座っていた下村の手には、ビールの缶。
 遅かったなと言われたのは、今日の帰宅が別々だたから。
 坂井の面倒を見ている連中が、喧嘩をしているとかで閉店後に飛んでいった。
 喧嘩はたいしたこともなく片付いたが、一人怪我をしている奴がいてそれを桜内のところに運び込んだのだ。
「疲れた」
 呟いて、下村の隣に座り込む。
 ビール缶を奪うと、半分ほどの中身を一気に飲み干した。
 下村が笑っている。
 振動が、軽く触れた肩から伝わる。
「お疲れさん」
 反対側の肩に手が回り、引き寄せられた。
 下村は坂井が、弟分にあたる連中を相手にしすぎるのを嫌う。
 ヤキモチだと笑っているが、嫉妬した下村ははっきり言って厄介で怖いのだ。
 首筋に這う唇をそのままにしておいて、大きな溜息をつく。
「なんだよ」
 気分を削がれたのか、下村が不満なのかと尋ねる。
「今日は疲れてんだよ」
「お預けかよ」
 ちっと舌打ちされる。
 それでも、肩に回した手は解かれた。
「飯は?」
「いい」
 坂井は立ち上がり、寝室にさっさと消えた。


 外灯の下にあったのは、猫の死体だった。
 昨日闇に掻き消えた、あのしなやかな猫だった。
 車にでも轢かれたのだろう。
 見るに耐えない死体と言うわけではないが、コンクリートに血が染み込んでいる。
 死体になってしまった猫の体をどうにかしてやろうとは、誰も思わないのか。
 道路の端に打ち捨てられたままの体が、ライトに映し出される。
 スカイラインを停めた。
 車から降りて、しゃがみ込みその毛に触れる。
 眼は閉じられていた。
 シャツを脱ぎ、その小さな体を包み込んで抱き上げた。
 深夜の道には人も車もない。
 下村も降りてきて坂井の腕の中を覗き込む。
「綺麗な猫だったのにな」
 坂井のアパートに入り浸りの下村も、この猫のことを知っていたらしい。
「どこか、埋めてやるか?」
 迷いなくこの猫を抱き上げた坂井に聞くと、坂井はただ頷いた。
 ふっと、下村の眼が惹きつけられる。
 秋の寒さが感じられるようになった季節に、黒いTシャツ一枚。胸には白いシャツに包まれた黒い猫の死体。
 外灯の灯りを受けて艶やかに光る髪に、暗い表情の坂井。
 わけのわからない壮絶さを感じる。
 背筋を撫で上げるような空気を醸す。
 あぁ、そうだ。
 たまに下村の足に擦り寄ってきたこの猫を、坂井に似ているなと思ったことがあったのだ。
 餌を気紛れにやればむしゃむしゃと旺盛な食欲を見せるし、用がない時は素っ気無い。
 過剰に甘えはしない。
 けれど、本当に稀に淋しさを訴えるような行動にでる。
 真っ直ぐに見上げてくるハシバミの眼の強さ。
 しなやかな背中。
 坂井に似ていると思いながらよく、体を翻していくのを見送った。
 だから、こんな得体の知れない気分にされるのだろう。
 下村は軽く頭を振ると、坂井から眼を離した。
「山ん中に、桜があったよな」
 休日に二人で山道をドライブしていて見つけた、桜の樹を思い出す。
「あの桜が見えるトコ、なんてのは?」
 提案してやると、坂井はそうだなと小さく同意した。


「真っ暗」
 山道をスカイラインで進み、目的地に車を停めると坂井がおっかなびっくりで呟いた。
「眼が慣れてないんだろう? ホラ」
 下村が手を差し出す。
「お前は見えてるのか?」
「見えてるさ」
 当然のように答えてやると、舌打ちが返ってくる。
 いやいやと語る仕草で、坂井の手が下村の手を取った。
 しなやかな指先をぎゅっと握ると、坂井は何か言いたそうに口を開いたが結局そのまま閉じた。
「ここいらかな?」
 山の奥に一本だけ、忽然と立っている桜の老木。
 そこから少し離れた場所の土を、落ちていた枝で地道に掘り起こす。
 無言の作業が続いた。
 一匹の猫にここまでしてやるほど愛着はないはずなのに、お互い酔狂だと思うしかない。
 掘った穴に坂井のシャツに包んだままの、小さな軽い死骸を横たわらせる。
「綺麗な、猫だったのにな」
 下村がさっき言ったのと同じことを、坂井が口にする。
「坂井?」
 下村が、その坂井の顔を覗き込む。
 暗い眼が、見返してきた。
「悲しいのか?」
 見つめたままの眼がふっと歪む。
 視線はすぐに反れた。
 ばさばさと土をかけていく。
 僅かに盛り上がった土をポンポンと叩いて、坂井は立ち上がった。
 土のついた手を叩いて、煙草を銜える。
 一度二度吸い込んだ煙草を、まだ柔らかい土にさす。
「猫は煙草吸わないんじゃないか?」
「気持ちだろ」
 その場にしゃがんだままの下村の視界を横切って、坂井は桜の樹に手を添えて、僅かに臨める海の方を見た。

 Tシャツ一枚に包まれただけの背中のラインが、綺麗に浮き出て見える。
 肩甲骨のくぼみだとか、女ほどではないけれど抱けば感じられる腰のくびれだとか。
 その背に背負う、暗さだとか。
 坂井は、この野良猫になにを思ったのだろうか。
 下村が坂井に似ていると思ったように、坂井も誰かに似ていると思ったのだろうか。

「坂井?」
 立ち上がり、手を伸ばせば届く距離になって呼ぶ。
 振り向かない坂井の背中から手をまわす。
 項に額を押し付けて、胸の前で腕を交差させる。
「冷えちまってるな」
 ひんやりとした肌。
 坂井の抵抗は一切ない。
「坂井、お前何考えてる?」
「……ベッドがいいな」
「は?」
 聞き慣れない言葉は認識しにくい。
「なんか、言ったか? 坂井」
「寒いって、言ったんだ」


「あの、猫はお前に似てたな」
 ぎしりと、ベッドのスプリングが軋んだ。
 坂井の押し殺した声が聞える。
「……こうやって、気紛れに人肌を欲しがる」
 体を曲げて、顎のラインに舌を這わしそのまま耳朶を唇に挟む。
 直に吹き込まれる吐息に、坂井が体を竦ませた。
「なのに、強かで」
 今度は唇に、自分の唇を押し付けた。
 今日は積極的に自ら舌を絡めてくる。
「し………もむら」
 泣き声じゃないかと疑いたくなるような声で呼ばれ、下村は体を少し離して坂井を見下ろす。
 泣いてはいない。
 いつものように生理的な涙が滲んではいるが。
「お前、勝手に……消えちまわないよな?」
 また、聞き慣れない言葉だ。
 下村が快楽を追うのを忘れて、眼を見開いたまま坂井を見下ろす。
 坂井がその視線を潤みかけの双眸で受けながら、焦れたように腰を擦り付ける。
「予感くらい、させろよ。そしたら……覚悟、少しはできる」
 しゃくりあげるように零れる言葉と共に、熱をもった手の平が下村の頬を包んだ。
 視線を反らさせないように。
「勝手に、逝くな」
「死ぬなとは言わないんだな」
「約束……できないことは、ねだったって仕方……ない」
 体の奥で燻る熱に耐えられなくなったのか、不器用に坂井の下肢が蠢く。
 それでも、下村は律動を再開しない。
「先に死ぬなとか、そう言うのも言わないのか?」
「っ……俺にも、できない約束だ……から……下村っ」
 もうこれ以上は耐えられない。
 訴える眼。
 一瞬、ハシバミの色を映したように見えた。
 名前を呼ぼうと開いた唇を塞いだ。
 そのまま、一気に絶頂へ駆け上る。
 坂井の体が痙攣する。
 落ちていくような感覚が、背筋を撫でていく。
 ぎりぎりまで緊張した体がふっと脱力した。
 荒い呼吸が少しずつ静まってくると、下村は坂井に預けていた体を起こす。
「約束してやるぜ。謙虚な恋人の数少ないおねだりだもんな」
 紅潮した顔をじっと覗きこむと、理性をしっかり取り戻したのか眼を反らそうとする。
 横を向いた目元にキスをする。
 いやいやと言うように体を反転させる。
 その体をしっかり抱き締め、下村がくっくと笑う。

 この温度に、声に存在に、執着しようとしている自分がいる。
 それが坂井を怯えさせる。
 あの猫のように、いつものように身を翻した途端に、死んでしまわれたら……
 自分は耐えられるだろうか。
 そんな不安が坂井を苛む。
 わかってんのか、この野郎は。

 拒否するように体を小さくするようにして、ベッドの端に逃げようとする。
 が、下村はそれを追って、引き寄せ仰向かせる。
「もう少し、甘えたって構わないのに」
 唆すように誘惑する。
 これ以上は、許容範囲を超えるのに。
「にゃあ」
「は?」
 やはり聞き慣れない。
 下村が一瞬呆気に取られている隙に、坂井は下村の首筋に指を這わせた。
 ガリ。
「うっ、イテェっ!?」
 ガリガリ。
「坂井っ、お前っ、引っ掻くなよ」
「うるせぇなぁ。甘えろっつったのお前じゃねぇか」
「甘えろとは言ったが、引っ掻けとは言ってねぇっ」
「あー、うるせぇ。疲れた。寝るからな」
 まだ何か言いたそうにする下村を無視して、坂井は毛布をばさりと頭から被って背を向けた。
「なんだよ。わがままなにゃんこだな」
 ぼやきつつ、下村は引っかかれた首筋をさする。
 そこで、ふと思い当たる。
 もう、何を言っても答えないであろう坂井をはっと見下ろし、愛しそうな笑みを唇に刻んだ。
 そこはベッドに潜り込んだどさくさに、坂井がつけた所有の証の痕。
「そう言うところに、惚れてんだけどな」
 幸せそうな笑みを浮かべた下村は、一足先に眠りについた坂井を抱き寄せて眼を閉じたのだった。



「どうした? 下村。その傷」
 翌日のブラディ・ドール。
 やって来た桜内が、目聡く下村の首筋の傷を指摘した。
 下村は苦笑しながら答える。
「猫に引っ掻かれてしまいまして」
 その答えに桜内がにやりと笑って、坂井を見た。
「その猫、飼い慣らすりゃ根気がいりそうだなぁ」
 坂井の証拠隠滅のための傷痕は、やはりあっさりと見抜かれてしまったのだった。


2001/01/23
「坂井直司に、にゃあと鳴かせる」ことを目標に書いてしまいました(笑)「Dogs」と対になる感じの話をいつか書こうと思ってたので。それにしては少しシリアスタッチ。甘いだけかもしれないけど……結局そこに帰るのか……

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