ルーツ・コンプレックス 1




 太平洋を臨む美しい美菜浜(みなはま)まで歩いて三分が売りの民宿、栄月館(えいげつかん)の看板女将が交通事故でこの世を去ったのは残暑厳しい九月の中旬だった。
 大月朝子が小学生の下校時間に合わせて、車の行き来が激しい海沿いの国道で子ども達の列を見守っていた午後三時三十分。睡眠不足のドライバーがハンドルを握るボックスカーが、安全柵を押し曲げて歩道を突き進んだ。子ども達を庇った彼女は、自身が防波堤と車の間に挟まれ全身を強打。救急車で病院に搬送される途中、一臣(かずおみ)の母は静かに息を引き取った。
 近所の人から報せを受けて家を飛び出せば、救急車よりも早く母の元へ駆けつけることはできた。駆けつけたが、何も出来なかった。
 荒く掠れた呼吸の合間、四人の息子を生み育て、代々続く民宿を守り続けた女将は微笑みながら遺言を口にした。
 彼女が二十歳間近で民宿の常連客だった会社員と結婚すると決めた時、美菜浜中の男が衝撃を受けて自棄酒を呷ったと言う。働き者で器量が良くて美人だと、我が母ながら誇らしく思っていた女性は一臣の腕の中で冷たくなり、今は白い棺の中で眠り続けている。
 規模こそ小さいがその分気軽で家庭的で、けれども丁寧なサービスを心掛けてきた母が築いてきたものを、こんな形で目の当たりにすることになるとは思っていなかった。一臣に挨拶をしては呆気なく泣き崩れる弔問客に辟易しながら参列者の作る長い長い列を見渡し、溢れ出そうになる溜め息を飲み込んだ。
 絶え間ない啜り泣きが、まるでこの儀式のバックミュージックのように続いている。喪主である父の元幸(もとゆき)は俯いたままぴくりとも動かないでいる。その横では三人の弟が泣き続けている。
 一臣を兄にした二葉(ふたば)と三咲(みさき)の双子も、男三兄弟の鎮静剤に女の子の末っ子が欲しいと頑張った結果、男四兄弟と言うオチをつけて誕生した末っ子の四恩(しおん)も棺に縋り、母親の死に打ちひしがれている。二葉と三咲は十六歳で、四恩はまだ十四歳だ。
 事故が起きた朝もいつも通りに見送られ、昼には母の作った弁当を食べた。それが夕方になったら母はもうどこにも存在しないと言う。
 彼らの涙腺は壊れた蛇口のようで、体中の水分を涙に変えて放出している。本来なら反抗期と思春期で母親の傍にいることさえ恥ずかしがって嫌がる年頃の少年たちが、母の死に打ちひしがれている姿は見る者の涙を誘う。
 悲しみはひたすら連鎖して、美しい美菜浜を包んでいる。
 ただ一人、一臣だけが、この場を取り仕切れる正気を保っていた。


 栄月館は客室六部屋の小さな民宿だ。
 家庭的な雰囲気を存分に残してはいるが、もてなしの心を大切にと教えられ、幼い頃から自分の家を出入りする客を見てきた。
 三代目の女将となった母の力になりたくて、高校卒業と同時に家業の手伝いを始めて若旦那などと呼ばれるようにはなったけれど、栄月館の主は朝子であったし、凪いだ海のような気性の父と賑やかで粗暴な男四兄弟で構成される大月一家の大黒柱は母であった。
 それを失った今、一臣が背筋を伸ばしていなければ一体誰がこの家を支えると言うのか。
 何度もそう自分に言い聞かせて弔問客の対応をしていたのだが、訪れる者の涙腺を片っ端からぶった斬る少年たちの啜り泣きに、そこだけは脆いと断言できる堪忍袋の緒が切れた。
「いつまでも……、めそめそめそめそ泣いてんじゃねぇっ、やかましい!」
 厳かに故人を送る場に轟いた怒声に、場の空気は当然すくみあがる。
 男四人兄弟、時に生死が危ぶまれるような喧嘩もしながら育ってきた。特に歳の離れた一臣は、三人の弟たちにとっては脅威だ。浴びせられた怒気に体を強張らせ、束の間泣き止む。
「泣くんだったらわんわん大声で喚き散らせ! びーびー泣いて、てめぇの気が済んだら笑って暮らせ! それがお袋の遺言だ!」
 びりっと空気を震わせる怒声が止み終わり、何よりも真っ先に正気づいた庭先の雀がぴーちくぱーちくとさえずりながら退散していく。羽音が遠ざかってやっと、弟たちはよく似た顔を同じタイミングで盛大に歪め、大きく開けた口から叫び声に似た絶叫を上げて泣きじゃくり始めた。
 ぴくりとも動かなかった父が、一臣の視線の先でのそりと動く。長い腕で息子たちを抱き、はらはらと静かに落涙し始めた。
 場を支配し終えた一臣は、煙草を銜えながら晴れ渡った空を眺める。
 洗濯日和だと喜んだ人はもういない。彼女に元気を与えていたコスモスが、細い茎に見合わぬ逞しさで背を伸ばしている。その花の健気さを愛でる人は、もういない。

「よぉ」
 同じように煙草を銜えた幼馴染が、柔らかく腕を叩いてきた。
「お前はびーびー泣いて、お袋さん送ってやんなくていいのかよ」
「これ以上泣いたら枯れる」
「それは、困る」
 今日の漁を休んで葬儀の段取りを手伝ってくれた幸太(こうた)も、目の端を赤くして隣に佇み煙草を吹かし始めた。
 背中からは張り上げるような泣き声が続いている。
 煙草を半分ほど灰にしたところで、幸太が口を開いた。
「表に入り辛そうにしてる客がいる」
 案内してやってくれよと言いかけて、幸太の微妙な表情にふとした予感がこみ上げる。
「春海(はるみ)、か?」
 二つ年下の従兄弟の名前を声に出すのは何年ぶりだろうか。
 思い出す度胸に広がる苦味を恐れて遠のけていた存在だったが、身内として朝子の他界を伝えなければと事故の夜に受話器をとった。アドレス帳に残っていた住所は既に立ち退いた後だったため結局連絡がつかなかったのだが、事故の件は新聞やニュースでも伝えられたために彼の耳にも届いたのだろう。
 来てくれればいいと願っていたはずなのに、迎えに行ってやらなければならない足が重い。
「駐車場でうずくまってる」
 察したように促す幸太に行ってやれと手を振られ、ようやく一臣は動き出す。
 車六台分の駐車スペースは満車の状態で、最奥にある栄月館のロゴが入った古いワゴンの陰から泣き声が聞こえてきた。
 視界に入ったのは小さな背中だった。ダウンジャケットのフードについたファーが嗚咽を堪える痙攣に震えて、小さな動物のように見える。
 参列もせず、冷たい地べたに座り込み一人泣いていたのか。
 頭の中でこの従兄弟と離れていた年月を数えてみると、九年という答えがでた。
 最後に会った時、春海は中学生だった。今は二十四歳になるはずだ。音信不通の間、どんな生活をしていたのか、どんな成長を遂げてきたのか全く知らない。
 震える体の正面にしゃがみこむと、それまで全く一臣の気配に気付いていなかったのか、怯えたように従弟は顔を上げた。
 春海は、朝子の姉の一人息子だ。その父親を一臣は知らない。春海自身も知らないのだろう。欧米の血を引く男だったのかもしれない。朝子に似た女性めいた造作が、薄い色合いで着色されている。肌の白さ、髪や瞳の薄茶色も変わらないのはわかっている。わかっているが、二十歳を過ぎた顔立ちに精悍さは微塵もなく、甘さばかりが際立つのはどういうことか。棺に横たわる母に似てきた顔立ちに一瞬驚きながら、一臣はなんでもない風を装う。
「おう、久しぶりだな」
 その気安い声がいけなかったのか。呆然としていた瞳にまた涙が溢れ出す。
「カズ、ちゃん」
 震える声が懐かしい呼び名を乗せた。
「テレビ、見てたら、叔母さんが……っ」
 信じられない思いで、遠のいていた美菜浜へ足を運んだのだろう。着の身着のままで飛び出してきたのかジーパンにセーター姿で、荷物も持っていない。
 最早水気など吸いそうにもないほどぐっしょり濡れたハンカチに顔を埋める。俯いた動作に合わせてふわりと揺れた髪の毛に手を差し入れれば、ひんやりとした感触が煙草臭い一臣の手を撫でた。
「中、入れよ」
「……でもっ、俺っ、こんな、格好だし」
「構うかよ。お袋の顔見てやってくれ。顔は綺麗なまんまだよ。笑ってらぁ」
 それでも躊躇う春海の手を強引に引っ張り上げると、それは氷のように冷たかった。
 一臣が歩き出すと、素直に後を付いてくる。
「伯母さんは?」
「……もう、一緒に暮らしてないんだ」
「そうか」
 一臣の記憶にある伯母は、朝子とよく似た顔に派手な色合いの服を纏い、夏や冬の長い休みになると春海を突き出すように栄月館に預けて去っていく後姿ばかりだ。
 あまりいい印象はないが、彼女の訪れは春海と過ごす夏や冬の幕開けだったから、それなりの楽しみでもあった。歳の離れた弟達よりも二つしか違わない春海の方を可愛がるなんて珍しいと周囲に不思議がられながら、春海の手を引き美菜浜を遊びまわった。
 イメージの良くない伯母と共に暮らす春海の毎日が、のどかで楽しいものではないと察する部分もあったのかもしれない。大人しくて引っ込み思案な従弟が笑ってくれるのが何より楽しくて、特に長い夏休みを待ちわびていた。
 それが九年間途絶えた。
 気まずさに、もう彼の顔を真正面から見ることも、ましてや手を引いてやることも二度とできないだろうと思っていたが、まさかこんな形で再会の機会が与えられるとは思ってもいなかった。春海が美菜浜から遠ざかったことを口に出さないまでも心配し、寂しがっていた朝子も想像していなかっただろう。
 葬儀に戻ると、弟たちはまだ泣いている。泣くには体力が必要だから、いい加減どれも力ないものになっているが、それがまた憐憫を誘う。
 喪服ではない春海の姿は視線を集めたが、それが春海だとわかると見守る視線はよりいっそ悲しみを増す。春海は実の母よりも、伯母である朝子にとても懐いていたから。
 棺を前にして、春海はそれ以上進むことを拒むように足を止めた。
 振り返る一臣に、緩く首を横に振る。声も上げずに瞳から溢れ出す涙が、春海の頬を伝ってパタパタと落ちていく。
 儚いと言う言葉を実体化したような春海に対して、弟たちを一喝したように声を上げることはできない。
「春海」
 繋がったままの手を引くが、やはり春海は拒む。
 実母にできなかった分、栄月館に預けられている間はおずおずと朝子に甘えるような仕草を見せていた。離れている間も、春海にとって朝子は拠り所だったはずだ。
「見てやってくれ。こんなに早く人生終わることになるなんて思ってなかっただろうけど、幸せだったって笑って逝ったんだ。俺らが引き止めてやったんじゃあ、浮かばれねぇ」
 説くための声が硬いと、自覚はあったが緩めてやることはできなかった。
 明るい太陽のような人だったからこそ、白い花に囲まれて二度と目を覚まさぬ姿を目にするのは痛みを伴う行為だ。悲しいのも悔しいのも寂しいのも、当然だ。
 だが、母の望みを叶えるためには明日を迎えなければならないし、ささやかな幸福を感じるための心を取り戻さなければならない。
 そのための別れの儀式だ。彼女の死を自分の中に叩き込み、彼女の生きた証として遺言を叶えるための。
「俺らが、この人が幸せな人生送った証拠になるんだ」
 胸騒ぎを煽り立てるサイレンを響かせながら見慣れた道を快走する救急車の中、救出された母は手放しかけた意識を手繰り寄せ、一臣の手を強く握った。それが力を失っていく感触は今も一臣の手に残っている。
 失った力を憂うのではなく、最期の一瞬に込められた力強さを記憶に叩きつけていたいから、一臣は自分の覚悟を弟たちにも押し付ける。
 背中を押されたように春海が棺を覗き込み、へなへなと力なく座り込む。その小刻みに震える肩を抱く父の姿を見て、一臣はこの日初めて溜め息をついた。
 耳にこびりついた泣き声のむこうから、穏やかな波音が聞こえてくる。生まれてからずっとこの音を聞いて育ってきたのに、母の声に似ているのだと、今、やっと気が付いた。


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2009/6/14 更新

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