位牌が一つ増えた仏壇の前で客人二人の相手をしていると、幸太がやって来た。
先客の観光組合組合長と町議と言う顔ぶれに呆れながら、
「一臣はこう見えてまだまいってるんだから、あんまり難しい話を聞かせないでくれるぅー?」
若い女の子のような口調で、自分達の何倍も地位ある客をしっしと追い払う仕草をしてみせた。
「はいはい。それじゃ帰るけど、さっきの話考えてみてくれよ」
「こっちの話もね。頼りにしてるんだよ」
「まぁ、考えるだけね」
見送る素振りも見せない一臣の態度を気にした様子もなく、それぞれに用件のあった客人は名残惜しそうに退却していった。
縁側から吹き込んできた風が、室内に漂う線香の匂いを散らしていく。
幸太は仏壇の前に座ると、線香はあげずに短く黙祷した。
「やっぱり、朝子さんの出迎えがないと寂しいな」
しみじみとそんなことを呟いて、持参した風呂敷包みを大きなちゃぶ台に置く。
「お袋から差し入れ」
「助かる」
その声があまりに真剣だったせいか、幸太は眉を寄せて台所に顔を向けた。
栄月館は素泊まりもできるが、食事が売りの宿だ。家庭料理からちょっと奮発した海鮮コースまで、朝子が自慢の腕を振るっていた台所は一般家庭のそれに比べると広く、厨房と言った方が似合う。
美菜浜の美しい海や波を求めてダイビングやサーフィンを目的とするレジャー客も年間を通して多くいるが、栄月館の客層はもう少し落ち着いた世代を主としている。
美菜浜の周辺には歴史ある八つの神社があり、歩いて巡ればご利益があるとか。四国遍路の神社版十一分の一スケールは気軽なのか、年配の夫婦や友達グループが挑んでいる。その足場の一つとして栄月館は愛されてきた。料金も手ごろで、気取りはないがもてなしの心がちゃんと見える。気さくな女将が迎えてくれて、希望すれば美味しい料理も食べられる。
腰の据わらない旅先でありながら、ゆっくりと寛ぐことのできる空間が栄月館にはあるのだと、常連客たちは目じりに更なる皺を刻んで幸福そうに笑ってくれる。
その幸福の源を生み出す厨房はいつも整然としていて、そこから朝子が愛嬌のある笑顔を覗かせてくれた。
今は静まり返り、調理台にはシンクに入りきらない洗い物が溢れ、床にはコンビニ弁当やカップ麺の容器がぎっしり詰まったゴミ袋が転がっている。
一臣も栄月館の若旦那として宿を切盛りし配膳も掃除もそつなくこなすが、料理だけは一切できない。それを承知のご近所から、飢え死にしかねないと届く差し入れが有難い。
「チビたちは学校?」
「おう。だんだん喧しくなってきた。親父も今日は残業って言ってたな」
「暇なのは兄貴だけか」
人気の乏しい屋敷が漂わせる寂寥は濃い。
四人兄弟に民宿家業と、栄月館から人気が感じられないことなどないことだった。それが余計に寂しさを煽る。
そんな空間で一臣は一人、ぼんやりと今後について思いを馳せていたいのだが、
「千客万来で暇ってほどでもないんだ、これが」
母を偲んで遠方からやって来る客や、栄月館の今後の方針についてアドバイスしに来る町の重鎮が次から次へと訪れては線香を煙らせて帰る。
「じーさん達、何だって?」
「政界進出の打診を受けた」
ヒュウと幸太が短い口笛を鳴らす。
「そんなのばっかだよ。店の跡をとってくれとか、組合とか」
朝子がいなければ栄月館の存続は難しいだろうから、是非とも本腰を入れてうちの店を継いでくれと言う勧誘が舞い込んでくる。
グラスボードや観光クルーズの運転手、ダイビングスクールの指導者から土産物屋と、美菜浜で商売をしている様々な店から声がかかった。とどめはつい昨年に終えたばかりの町長選に出馬してみないかと言う誘いだ。
「若年会会長は大人気だね」
笑いながら幸太がポケットの中から手品のように缶コーヒーを二本取り出し、一つを放ってきた。受け取る一臣は、美菜浜で生まれ育った友人たちを集めて若年会と言う会を結成している。
地元に残って働く若者が集まり、美菜浜の清掃や安全パトロールを自主的に行う。発起人で会長扱いの一臣は、地元に根付いた友人たちとの集まりに軽い気持ちで名称をつけたのだが、これが地域の年配住民に受けがよく重宝されている。
特にフットワークが軽く、船の操縦やダイビングのインストラクター等体を動かす労働ならそつなくこなし、家業を最優先しながらも体が空けば多種多様な業種の助っ人として美菜浜中を飛び回ってきた一臣は、老若男女に力を買われている。
次から次へと舞い込む転職の薦めを有難い気持ちで聞きながら、まいったなぁと頭を掻いては曖昧に返事をはぐらかしている。
幸太の言う通り、見た目以上にはまいってもいる。
弟たちは少しずつ自分達のペースに戻りつつあるし、父親も抜け出ていた魂をようやく自身におさめたところ。
葬儀であれだけのことを言い放った手前、一臣自身がしゃきっとしなければならないのだが、
「民宿、どうすんの?」
この問いに、答えを出すことが出来ないでいる。
「四十九日までは休業」
「その後は?」
幼馴染はまいっていると見抜いたくせに容赦がない。
「おっちゃん達は栄月館、閉めろって?」
「そこまではっきり言わないけど、チビ達がでかくなるの待つなり、俺が嫁さんもらうなりして任せたらどうだってさ」
「なるほどねー。その手もあるわなぁ」
「ねぇよ。二葉は女の子口説くのが生き甲斐だし、三咲は絵を描きたいんだろうし、四恩は野球以外に取り柄がない。こんな面倒な男所帯でさして儲かりもしない民宿家業やってる長男の嫁なんて、どこからもらってくるよ?」
百九十センチ近い長身に肉体労働を難なくこなす体は威圧感を与えがちだが、民宿を営む家庭で培われた愛嬌はそれを払拭するだけの威力を発揮する。顔つきもやや目元が鋭すぎる欠点はあるが、笑みを湛えればそれも補える懐っこさが滲んで悪くない。
一時の相手としてなら、一臣は地元の女性だけでなく観光で訪れた女性からも望まれる。
事実、栄月館の常連客には一臣目当ての客もいるし、浜辺を歩いていれば女の子から今晩飲みに行きませんかと誘われることもしょっちゅうだ。
もてるくせに、腰を据えた付き合いをしようとしない。
成人前の弟と言う腰ぎんちゃくが三匹と、決して安定しているとは言えない宿が一棟ついてくるマイナス要素は大きいが、長年悪行も善行も共にしてきた幸太は一臣自身にその気がない方がよほど減点対象になっていると思っている。
だが、まだ自分達は二十代だ。美菜浜に残る幼馴染達もほとんどが独身者で、身を固めろと言われてもぴんとこない。一臣の態度も共感できる。
「栄月館も素泊まりでいくか?」
調理ができる存在がいない今、一臣が一人で民宿を続けていこうと思うなら美菜浜でも増え始めた若いサーファーやダイバーを狙った素泊まり専門の安宿やドミトリーへ方針を変更していくしかない。
曖昧に首を傾げながら煙草を銜えた口からは、
「どうすっかなぁ」
困惑しきりの声が出た。
「うちの客層考えたら、そう簡単に切り替えられないんだよ」
仏壇の脇に束ねて置かれた紙の束を幸太に示した。
お悔やみの手紙が日本のあちらこちらから届いている。朝子の死を悼む気持ちと栄月館の変わらぬ存続を願う言葉が、年季を感じさせる筆遣いで綴られているものばかりだ。
「そうかと言って料理人雇うほど景気のいい商売でもないし」
どうするかなと、今度の溜め息は紫煙に紛れた。
変わらないスタイルを貫きたい気持ちはあるが、それには力不足なのだと苦い自覚はある。栄月館始まって以来の危機に感じるプレッシャーは大きい。
「お前、睡眠時間足りてるか?」
さばさばした表情や態度に惑わされず、幸太は自分の目の下に指を置いて一臣の隈を指摘した。疲労を隠すのは一臣の得意とするところだったのだが、さすがに物心つく前から付き合いのある幼馴染の目は誤魔化せないらしい。思わず浮かんだ苦笑を肯定とする。
「みんな心配してるぞ。お前、そういうの見せるの嫌がるし、心配されるのも好きじゃないってわかってるから遠慮して誰も言わないけど」
「幸太は遠慮しないわけか」
「遠慮しないのも友情だろ」
「ありがたくって涙が出るね」
茶化せばそれが悪い癖なんだと、さすがに棘のある声を出された。
「明日からちょこちょこヘルプが入ってるんだ。体動かせば眠れると思う」
安っぽいスケジュール帳にはグラスボードやダイビングスクールの文字が詰まっている。
「あ、この日空いてるんならうちの船乗ってくれない?」
「お前は俺の体を心配してたんじゃないのか?」
「動いた方がよく眠れるって言ったの、自分だろ。それに、確かに動いてた方が良さそうだ。普段、じっとしてない奴がじっとしてたっていい考えが思いつくもんか」
人の予定表に勝手に自分の船名を書き込みながら、幸太の声は密やかになる。
「どんな結果でも、お前が後悔しない答えを出せば、朝子さんは納得してくれるさ」
気さくなくせに弱みを見せたがらない一臣が優しい言葉に崩れないよう眉間に皺を寄せて耐えている間、とっくに書きえた船名を何度もボールペンで辿る幸太の思いやりが余計に胸に痛い。幸太の知らぬふりがこれ以上わざとらしいものにならぬようにと、平素の表情を必死で手繰り寄せた。
「昨日、家族会議を開いた」
ようやくボールペンを置けた幸太に、一臣は少しばかり胸の内をさらしてみることにした。
弟たちの前ではつい兄貴らしく格好をつけるし、父親には一人前と認めてもらいたくて弱音を飲み込んでしまう。結局のところ、相談相手は同じ地に生まれ育ち同じ目線で成長してきた幼馴染達しかいない。
民宿を継ぐか大学進学かで一臣が悩んでいた時期、幸太もまた漁師になるかどうかで同じように頭を抱えていた。愚痴りあい不安を口にしあい、地元への愛着を確認しあった仲だ。答えなど導き出してくれなくていいと、一臣は昨日の出来事を訥々と話し始めた。
鍋を焦がすことなく完成させたカレーを並べた食卓を囲み、それぞれが一口ずつ口に入れたところで、それまで平気な素振りを見せていた表情がたちまちに曇った。
味の悪さから母がいないことを実感するのだろう。
「スープカレーみたいだね」
家事を一手に引き受けることになった長男に対して流石に文句は言い辛いのか、温和な父はフォローを入れながら味が薄いだけのカレーを啜る。
「ただルー入れるのけちっただけじゃん。薄いのに甘いんだけど、蜂蜜入れた?」
母が使っていた隠し味と同じ髪の色をした二葉が穴だらけの耳に触れながら、ご丁寧にも髪の毛と同じ金色に染めた眉をきゅいっと寄せる。
二葉は見た目が派手で、両手の指では数え切れないくらいの女友達を侍らせる。妙な懐っこさと愛嬌がある点は一臣に似ているが、一臣のようないざと言う時に滲む威圧感を持たない。
その隣で三咲が、
「料理下手なんだから、こういう小細工しないで欲しいんだけど」
小憎たらしくぼやく。眉間に寄る皺の様子が二葉のそれと酷似していて、個性を発揮し始めた外見や性格からつい忘れてしまいそうになる一卵性双生児の証拠に見えた。
二葉と同じ土台だが、生来の黒々した髪色のせいか優等生然としていて、事実大月兄弟の中で唯一の頭脳派でもある。母の胎内にいる時、知性を一欠けらも分けてやらなかった分、愛想だとか愛嬌を全て二葉に持っていかれたらしく、可愛げというものがない。
一臣から双子を挟んだ末弟の四恩には幼さから派生する可愛らしさはあるものの、顔立ちは一臣によく似て目つきが鋭く口が大きい。あと数年で精悍さが増してくるだろう。目つきの鋭さは父親譲りと言うよりは兄譲りだが、天真爛漫な性格のせいか敵を作ることも少なそうだ。
「めっちゃくちゃ腹空かせたらカズ兄の飯でもなんとか食べられると思って、俺、今日はすっげー練習頑張ったんだぜ。なのにやっぱり不味い……」
目つきが悪いせいで誰彼構わず喧嘩を売ることはないだろうが、その正直さが身内に喧嘩を売る。
どれもこれも、父の春の日差しのような穏やかさをちっとも受け継ぐことなく、顔立ちだけ似て育ってしまった。しゃきしゃきした物怖じしない姿勢と愛嬌を母から、健康な体を地元の風土からもらって、口の悪さは兄貴に似たのだろうと近所では笑われるのだが。
「文句があるなら、食うな」
低く威嚇するとカレー皿を行儀悪くかき回していただけの手が口へと伸びる。
「味覚だけは一人前になりやがって……」
愚痴り一口咀嚼するが、お世辞でも嘘でも美味いと言えない夕食だと自覚している。母の美味しい食事で磨かれた味覚には確かにきつい。敏感な味覚はあるが、それを料理に生かせないのでは宝の持ち腐れだ。情けないような悲しいような思いで怒気は薄れ、食卓は皿とスプーンが触れ合う音が時折響くだけとなった。
まるで罰ゲームか拷問のような食事を終えたところで、最年少の無邪気さを存分に生かして四恩が口火を切った。
「どうすんの、これから」
「なにが」
「民宿」
自分達の食生活の心配が第一なのかと思って問い返したら、意外にも家業への不安が先にあるらしい。少し感心して弟たちを見るが、彼らが安心する答えを一臣はまだ持っていない。言葉を探していると、父が冊子を差し出してきた。
「こういう話も、きてるんだけど」
布張りのそれを開くと、きらびやかな着物を纏った女性が精一杯しおらしい顔を作った写真が現れる。
「四十九日も過ぎてないうちから申し訳ないけど、宿の今後のこともあるだろうからって、気を遣ってくださってね」
どうだろうか向けられる視線から逸らして、一臣は俯きながら写真を差し戻した。
「……すみません。味見済み」
「……えっ?」
「若気の至りで」
薄化粧に清楚な表情を作っているから別人のようにも思えるが、よくよく見れば市街地のゲームセンターでナンパして一夜を共にしたことがある娘だった。確かファッション誌の読者モデルをしたことがあるとかで、一度はお相手願いたいと仲間内で話をして実行した記憶がある。あの頃はバサバサ音がしそうな睫毛とキラキラ光る石を目の周りに貼り付けていて、何事かと思うような派手な瞬きで一臣を見つめてきた。写真に写る女性と同一人物とは思えないが、確かにそうだ。
「女は化けるって言うけど、本当だな」
自分の過去を辿るように女の子と遊びまわっている二葉に同意を求めると、そういう場合じゃないだろうと胡乱な視線を返された。
「でも、お嬢さんはこの話の相手が一臣だってわかってるんだから、そこは気にしなくてもいいんじゃないかな」
今の一臣の歳よりも若いうちに母と結婚し、呆れるほど円満な夫婦であり続けた父にとってみれば、奔放にもほどがある息子の異性関係は理解し難いものだろうに、咎めることもなく見守るスタンスを崩さずにいてくれる。だからこそ余計に申し訳ないのだが、この緊急時において最善の策かもしれない縁談に、全く心が揺れないのが答えだ。
卓上に所在無く置かれた見合い写真を無造作に開いて、二葉が六十点かなと酷評を下した。
「止めといた方がいいよ。カズ兄って、別れ方下手くそだから」
「どこで聞いてくる、そんな噂」
「綺麗なお姉さん達によく言われる。面倒になったから別れようって馬鹿正直に言っちゃうお兄ちゃん元気にしてるかって」
耳が痛い。
「俺も反対。カズ兄がつまみ食いするような人に、うちの仕事ができるとは思えない」
「あー、それはあるね。俺らの義姉さんになる人だもんなー。俺らにも選ぶ権利があると思う」
断っちゃってと弟達の手から見合い写真は父の手へと突き返された。受け取った父からはちらりと視線で問いかけられたが、一つ頷いて応えた。
「カズ兄の嫁さんには期待しないとして、コックさん雇うとかできんの?」
「安い給料で我慢してくれる人がいればな」
高校生が二匹と中学生が一匹、いずれも食べ盛り。今はどれも一臣の母校でもある公立校だからどうにかなるが、これから先に何を望むかわからない。大月家の将来を差し引くと、新たな従業員へ提示できる条件は相当厳しいものになる。
どうするのかと言う議題のくせに、栄月館の存続を前提にした話になっている。
ひっきりなしに人が出入りし、ゆっくり休日を過ごそうとすれば朝から客室棟が賑やかでそうもいかない時もある。客の前では行儀よくしなければならないことを不満がる素振りも見せていた。自分の家の商いを好きではないのかと思っていたが、長男である一臣が継いだ場所を弟達も守りたいと思っているのかと思えば心強い。
元より閉めるつもりはなかったけれど、前向きに考えていかなければと密に気持ちを締めながら一服銜えたところ、
「俺、すんげー秘策があるんだけど」
にんまり笑った二葉が食卓に身を乗り出してきた。
「……」
「えっ、反応薄くない?」
「フゥ兄が言い出すことなんて、大したことねーもん」
「聞いてみないとわかんねーだろ!」
怒鳴り卓上に投げ出した一枚の紙片を期待せずに覗き込む。
名刺サイズのインフォメーションカードには、ダイニングバーという店のスタイルと、ロコと言う可愛らしい店名が刷り込まれている。白地に濃紺の文字色と星が散りばめられたそれを裏返すと、東京の片隅を示す簡略地図と夕方から夜更けにかけての営業時間が提示されていた。
年上の観光客をナンパした時の戦利品か何かだろう。やはり二葉の言い出すことだと身を引っ込めた。
「東京のお姉ちゃんがこんな所で仕事してくれるはずねぇだろうが。たまの息抜きに来るから良い所ですねーとか言えるんだよ」
「お姉ちゃんじゃなくて、これはハルのいるお店なんだよねー」
それぞれの興味を操るような種明かしをして、二葉は勝ち誇ったような笑みを浮かべて指に挟んだカードをヒラヒラと振ってみせた。
「ハルって、春海か?」
葬式で数年ぶりの再会を果たしたが、一臣が葬儀会社や事故についての事後処理に追われている間に立ち去ってしまい、結局ゆっくりと話をする機会は得られなかった。だが弟達は近況を報告し合っていたらしい。
「この店のコックしてるんだってさ」
見方が変わるだろうと二葉は一臣の目の前にカードをかざし、一臣の反応を窺っている。
「店の二階に住まわせてもらってて、携帯は必要ないから持ってないって言ってた。だからもしも何かあったら、店に電話していいよって」
幼い頃、しょっちゅう栄月館に滞在する従兄弟を弟たちはそれはそれは慕っていた。すぐに怒鳴ったり殴ったりする凶暴な兄貴とは違い、優しく穏やかな春海にまとわりついていたから、ある夏を境に春海が姿を見せなくなるとそれを不満がると同時に心配し、何度か三人で手紙を書いて送っていたのを知っている。やがてそれが宛先不明で返ってくるようになると、幼かった弟たちも春海と伯母の関係や環境を察したのか、極たまに元気にしているだろうかと呟くのみとなっていた。
「ハルが来てくれたら、いいなぁ」
四恩の声は求めるようで、三咲が何か問うように一臣に視線を投げてくる。
「ハルなら、母さんのやり方知ってるし」
「でも、ハルちゃんは今、このお店で働いているんだろう?」
「……だけどさ、一番有力じゃん。春海に来てもらうってのが。だから駄目元で聞いてみようよ」
「俺も珍しく二葉に賛成。無理に来てもらうわけにはいかないけど、話するだけしてみればいいと思う」
「俺も賛成」
弟達の意見は提示され、暫くの沈黙の後、元幸が頷いた。
「ハルちゃんなら、朝子も喜ぶだろうな。ハルちゃんが、引き受けてくれるのならだけど」
あとは一臣次第だと、賛成四票とインフォメーションカードを託された。
どうせなら採決まで強引に持ち込んでくれればいいのにと、見合い写真を返して空になった手に残った小さなカードを眺めた。
「栄月館の板前にこれほど適した人材もいないと思うけど」
幸太の頬が緩みっぱなしになっている。面白い話になったとでも思っているのだろう。
「料理が出来る、美菜浜が好きである、弟たちが遠慮しないですむ、親父さんも身内が近くにいてくれるなら安心できる、所作も綺麗で顔も綺麗で可愛い」
指折り長所を上げたあと、
「ただ長男と気まずい過去があるのが難点だな」
連絡先を聞きとめて置いた二葉を褒めてもやれず、従兄弟に頼ることを好しとできない問題点をずばり挙げた。
「あっちは美菜浜に未練があるんだろう。だから、朝子さんに会いに来た。お前が腹を割れば、春海は来るね」
「割ったところで何が出る腹でもねぇよ」
「何もでない腹を見せりゃいいんだよ」
簡単なことだと幸太は笑う。
春海が美菜浜から遠ざかった理由を知っているのは、当事者以外には幸太だけだ。その幸太が、簡単なことだと言ってのける。
「考えてみろよ、カズ。本当にお前の腹には何もないのかよ。可愛がってた従弟に裏切られた、くらいのことは思ってるんじゃないのか。その腹の中に何かあるから、お前は春海に会い辛いんだよ」
ずいっと伸びてきた手が胸を突いた。
幸太は意地悪そうな笑みを浮かべると男前に見えると、年上の女性達に妙な定評があったなと思い出す。余計なことを考えるのは、幸太の突きが痛いからだ。
「お前たちが幸せでいなけりゃ、朝子さんの人生は不幸せだったことになるんじゃなかったか? 同じ大月の血が通う仲だ。気まずいままなんて寂しいと思うけど? 連れて帰ってこなくてもいいから、顔見て、どんな場所で生きて幸せにしてるかだけでも確かめて来い」
「お前は本当に厳しい」
「甘いだけの男なんてモテないだろ。行って来いよ、東京。まぁ、ヘッドハンティングの餌が身内ですってだけの、心もとない狩りだろうけど」
投げ出していたボールペンを手にした幸太が、既に書き込まれている予定の上から二日分のスペースを使って新たな予定を入れた。
「昼のグラスボードは俺が行くよ。夜は町民バレー大会の助っ人? これは光子に行かせよう。そんで次の日の産直市の売り子はヒデと嫁さんに行ってもらおう。あの嫁さんのFカップがあれば完売間違いなし」
覆された先約へのフォローのメールをあちこちへ送信する友人の横顔は、一仕事やり終えたように清々しい。
飛び込み台から足が一歩宙に浮くまで背中を押してくれる頼もしい友人に感謝しながら、雑然とさせてしまった厨房に目をやった。
あそこに立って、楽しそうに仕事をする人が欲しい。誰よりそれを欲しているのは、見守る立場の父でも、甘える先を失った弟達でもなく、自分自身だ。
潔く自覚して、一臣は手帳に記された幸太の下手くそな字を見る。
東京。
とるべき進路が示されていた。
2009/6/17更新