ルーツ・コンプレックス 3


 伯母が美菜浜の家を出たのは、伯母の高校卒業直後のことだったと言う。
 人様に迷惑をかけ、自分の体を傷つけるような遊び方をしていたのだと、遠くを見て呟いた祖母の顔を一臣はぼんやりと思い出し、大人になってからその言葉の意味を理解した。
 気立ての良い妹へ対する劣等感を振り切るように生まれ育った土地を飛び出した伯母と対面したのは、その祖母の葬儀が終わった後だった。
 伯母は、綺麗な人だった。
 母が美人であることは一臣の密かな自慢でもあったが、母とはまた違った美しさを持つ人だった。その頃、伯母は二十代半ば。緩く波打つ髪の毛と煌く目元が華やかな女性は、三歳の男の子を連れていた。家を出てから妊娠し、実家には決して告げることなく産んだ子どもが、春海だった。祖母はもう一人の孫の存在を知らずに逝った。
 両親が他界したことがきっかけなのか、伯母は時折栄月館に顔を覗かせるようになった。
 長期休暇が始まる頃になると現れて、春海を置いて去っていく。去り際、仲良くしてやってよと笑いながら一臣に小遣いを渡してくる伯母を、母は寂しそうな顔で見送っていた。
 春海を置いて、伯母は男のもとへと戻っていく。伯父と呼べるようになるより早く代替わりする男達のもとへ。姉妹の歩み寄りは難しく、朝子が春海を心配すればするほどその溝は深まるようでもあった。
 突然現れた二つ年下の従弟は美菜浜を訪れる毎に打ち解けてくれ、やがて双子や末っ子が誕生した時も喜んで、宿の仕事で朝子が忙しく立ち回っている時は実兄である一臣よりもまめまめしく赤ん坊の世話をした。
 大人しくて怖がりで献身的な都会っ子を構う間、一臣の行動範囲や素行は若干大人しめになる。悪戯仲間の幸太たちはそれを不満がって、いつだったか一臣がちょっと目を離した間に泳げない春海を浮き輪に掴まらせて沖まで連れ去ったことがあった。
 波に揺られながらグスグスと泣く春海の声に罪悪感を刺激されたのか、幸太は駆けつけた一臣が待つ浜へそのまま春海を連れて引き返してきた。待ってましたと一臣が殴りかかって幸太が応戦し、それに驚いた春海が海上に連れ出されていた時よりもずっと激しく泣き出して、一臣はそれを宥めながら手を引いて帰宅したのだ。そうしたら今度は驚いた朝子に叱られた。幸太の家へ謝りに行く途中、同じように母親に連れられた幸太と出くわして、渋々の握手で和解した。
 その幸太が、春海と会って来いと背中を押した。
 自分達もすっかり大人になってしまったものだと、故郷から自分を遠ざけていく夜行バスの暗い車内でひっそり笑った。
 長いブランクが横たわる前、最後に春海が栄月館に預けられたのは春海が十五歳の時だった。一臣は高校二年生で、弟達は小学校の低学年だ。その、夏。
 春海は一人、電車を乗り継いでやって来た。駅まで迎えに行った一臣の自転車の後部座席に乗り、朝子が待つ栄月館へ飛ばして帰った。ぐんぐん上がる自転車のスピードに、春海が危ないよと笑った。
 巡ってくる四季のうち夏は美菜浜が最も活気付く。既に海開きを終えた浜で海水浴を楽しむ客人たちの姿を見ながら国道を走り抜けた。
 春海を生んだのは失敗だったと、伯母が言ったのを聞いたことがあった。一臣に言い放ったのではなく、朝子との会話を耳にしただけではあったが。
 可愛そうな従兄弟。
 そんな意識があったから、過保護なくらいに春海に構ったし可愛がった。春海が傍にいる間は、自分が力強いヒーローになった気がしていた。
 あの夏までは。

 夜を行くバスの車内は、他人の寝息や窮屈そうな寝返りの気配が聞こえてくる。それが気になっているのだと、眠れない理由をこじつけて一臣は目を閉じた。
 訪れるのは眠りではなく、押し寄せる記憶の波だったけれど。





「伊井直弼が暗殺された事件をなんと言いますか?」
「……ナマムギ事件?」
「はずれ。桜田門外の変」
 風がよく通る公園の東屋には、野良猫と少年達が涼を求めて集う。
 暑さ対策のため芝生化されたグランドだが、真夏の炎天下ではそこで遊ぶ者もおらず、コンクリートでできたドーム型の東屋の影の中に日焼けした少年たちがたむろするのは美菜浜の日常の風景だった。
 中央のテーブルに置かれたペットボトルから伝った水滴が、放置されている教科書に及ぼうとしている。
「じゃあ、大政奉還したのは誰ですか」
「……たいせいほーかん……?」
「徳川幕府の、最後の将軍です」
「徳川吉宗」
「はずれ」
「徳川家康」
「はずれー」
「水戸黄門」
 春海が顔の高さに持ち上げていた問題集を膝の上におろした。
「カズちゃん……」
 春海の琥珀のような瞳に哀れみが含まれると、いっそ悲しげに見え、
「明日の追試、落ちたら留年なんでしょう?」
 憂いに満ちた声が告げる事実の悲劇性が増す。
 せっかくの夏休みが台無しなのだが、台無しになるのが高校生と言う立場だとすれば踏ん張るしかない。
 雑然とした記憶を必死に探り、それらしい答えを導き出す。
「徳川、よしのぶ」
「正解。……、漢字で書ける?」
「あ、それは大丈夫。うちの学校の先生、そこまで俺らに期待してないから」
 では次の問題と、問題集を捲る春海の額に薄っすら汗が滲んでいた。
「先に、泳ぎに行かん?」
 自転車の前籠には水着とタオルが突っ込んである。日陰とは言え炎天下の屋外で勉強しているのは、いつでも海に飛び込めるようにと目論んでのこと。
「駄目だよ。泳いだら疲れて眠くなるし、楽しいことが待ってるって思ったら頑張れる」
 帰省したその日に追試の事実と留年の可能性を聞かされて目を丸くして驚いた春海は、必死に一臣に勉強させようとしている。春海相手だと拒めない一臣の習性を理解しているから、朝子も春海によろしくとわざわざ頼んだのだろう。
「暑いだろ?」
「暑いけど、留年したらどうするの?」
 もっともだ。
 追試は初めてのことではない。これまでの危機もなんとか乗り越えてきたのだが、万が一と言うこともある。
「じゃあ、海は諦めるから、図書館でも行こう。暑くて集中できねー」
 その提案には頷いてくれた春海を荷台に座らせて、冷房の効いた図書館へ向けてペダルを踏み込む。生み出した風が一時の涼を生む。
 人が町を満たし始める気配がする。横切った商店街も通り過ぎたコンビニも、いつもよりも客入りが良く、知らない顔もたくさんある。八社巡りで四季を通じて観光客が出入りする町だが、海開きを終えると一気に町は賑やかになる。日本各地から人を集める魅力を持つ故郷が誇らしいと感じる季節だ。
 栄月館も慌しくなる。本当は追試などに縛られている場合ではないのだが、思えば去年の夏も同じようなことをしていた。
 図書館前には見慣れた自転車が数台停まっている。通学用のそれに大した違いがあるわけではないが、釣り道具が括りつけられていたり真っ赤に塗られていたり、数台のママチャリにはキラキラしたビーズのようなものが貼り付けられてたりと、有り余る個性が発揮されている。
「持ち主の頭の軽さが手にとるようにわかるチャリだな……」
「赤い自転車可愛いよ?」
「そうかー?」
 締め切りのドアを押し開くと、過ぎるほどの冷気が体を包む。古めかしい外観に似合った微調整の効かない冷房は、今日も必死に冷気を送って避暑にやって来た文無しの老若男女を芯まで冷やしていく。
 顔見知りの司書が一臣の来館を予測していたように笑って、階段を指差した。二階には個室になった自習室がある。小窓から覗き込むと、自転車の持ち主達が悲痛な顔で参考書に向かっている。
「バカばっかりだな」
 ノック替わりの揶揄はそのまま自分に返ってくる。
 追試仲間たちは驚きもせず、やっぱり来たかとニヤリ笑った。
「ハルちゃんもいらっしゃーい。馬鹿な従兄もって大変だね」
 そんな揶揄を春海は微笑して受け流してくれた。
 一臣もその場に加わり、春海に出題役を任せて吸収率の良くない脳に近代史を含めていく。それに幸太たちも加わってにわかにクイズ大会の様相になり、それは館内に閉館を告げる音楽が流れ始めるまで続いた。
 明日の善戦を誓って散り散りに帰途につき、一臣は幸太と夕日が沈んでいく海を眺めながら国道沿いの歩道を走る。
 名残惜しそうに浜辺を離れ、帰り支度をする海水浴客の姿がちらほらと見える。海沿いに点在する駐車場で、萎んでしまった浮き輪を車のトランクに詰め込む親子の姿が多い。
「一臣、幸太」
 ゆるゆると夕暮れのサイクリングを楽しむようなスピードで進む自転車を呼び止める声に、一臣はブレーキをゆっくりと握りこむ。
「あ、桐沢(きりさわ)先生だ」
 浜辺から歩道へ上がる階段に足をかけた初老の男が、ニコニコしながら近付いてきた。
 肩に下げた大きく平べったい鞄にはスケッチブックや画材が入っているはずだ。
 世界に名を馳せる桐沢画伯は無名であった頃から美菜浜の風景を愛し、栄月館を定宿にしていた。浮世絵を思わせる色合いでキャンバスの中に海をつくり、さらさらとした細い線で美菜浜に暮らす人々の営みを描き出す。世界各地の人たちを惹き付ける桐沢だが、一臣にとっては幼い頃から馴染んだ常連さんの一人だ。
 ふらりと現れては栄月館に滞在し、画材を持って美菜浜を闊歩する。今回も三日前に電話があって、翌日にはいつもの荷支度で栄月館に現れた。
「明日の準備は出来たのか?」
「できましたよ。ばっちりです」
「期待しておこう。世話の焼ける兄貴だな、春海」
「そんなことないです」
「カズの成績のフォローができるのは、この世でお前さんだけだ」
 にやりと笑いながら見慣れぬ煙草を銜え、百円ライターで火を点ける。芸術家らしい拘りを見せるくせに、ツメが甘いのかわざと外しているのか。
「明日は幸太の親父さんに世話になるよ」
「えー、また船乗るんスか? 去年、すんげぇ酔って絵を描くどころじゃなかったのに」
「前は船の上で描こうと思ったから失敗したんだ。今年は親父さんの働いている姿を目に焼き付けて、陸に上がってから描くことにした」
「桐沢先生は頭いいっすねぇ」
「お前らとは違うだろう?」
 高校生と言い合ってゲラゲラ笑える無邪気さと、歳を重ねたことで滲み出る男の魅力を併せ持つこの画家を美菜浜の人間は深く愛していて、海沿いに植えた松に薄手の布を垂らして羽衣伝説に見立てた景色を作りあげたり、ある朝突然浜辺に精巧なナスカの地上絵を出現させたりする奇行も許している。
「俺はちょっと酒仕込んでくるから、これ持って帰ってくれ」
 担いでいた画材を自転車の前籠に突っ込んでくる。
「先生、明日の朝早いんじゃないんですか?」
「早く眠れるように飲むんだよ。夕飯までには帰るから」
 肩越しに手を振って歩いて行ってしまった。
 肩を震わせて笑う春海を促し、家路を急ごうとした。
「大月?」
 浜辺から掛けられた声が、その足を止めなければ。
 春海が振り返らなければ。
 あの日が、なければ。
 九年間の空白は横たわらなかった。

 夜通し駆けたバスは東京の朝に辿り着く。四方をビル群に塞がれて、喧騒が木霊する。
 着慣れないスーツのジャケットが重いから溜め息が溢れ出るのだと言い聞かせ、春海の勤める店が開くまでの時間を潰すため、東京の地下へ潜った。





 春海に声を掛けたのは、春海が通う中学の担任だった。若い男だった。一臣の記憶にこびり付いた男の顔を脳裏に描き出すと、今の自分と同じくらいの年齢だったのだろう。
 女子生徒からさぞかし人気がありそうな顔だと第一印象を抱き、生徒から慕われているのだろうと思わぬ出会いに驚きと喜びを隠しきれない春海の表情を見て想像した。
 それが目の前でゆっくりと歪んでいく様子も、鮮明に思い出すことができる。
 教師は妻子を連れていた。
 男と同い年くらいの、痩せた女性の右手は三歳くらいの男の子の手を握っていた。
 学校から遠く離れた地で偶然に出会った、担任家族の旅行風景。一臣であったなら偶然を驚き喜んで、教師の顔とは少し違う表情を見せるとからかってみせただろう。
 春海はぎこちなく困ったような顔をしていた。
 春海が見せた理解し難い反応の理由を知ったのは、その日の夜だった。
 母が春海に取り次いだ電話は、例の担任からかかってきたものだったらしい。家庭環境に気がかりな点のある教え子が、長期の休暇になると預けられる親戚宅があるという情報は持っていたのだろう。美菜浜の宿泊施設に滞在しているのなら、栄月館と言う名前さえ覚えていれば電話番号も住所もすぐにわかる。
 朝子は畏まった挨拶をして受話器を持ったまま何度もお辞儀をし、春海に電話を取り次いでいた。緊張した声で応じた春海は、電話が終わると宿題を教えてもらってくると出て行った。
 遅くなるようなら一臣に迎えに行かせるから電話を頂戴。そう言って朝子は勉強道具を詰めた鞄を持った春海を送り出し、残った一臣にあんたは自主勉強よと言いつけたのだ。そのくせ、なかなか帰ってこない春海を心配して、ちょっと周りを見てきなさいとも言い出す。
 夏になると美菜浜には知らない顔が溢れる。花火、蝉、蛍と、夏は一瞬の輝きを残して消えるものが多いが、夏の恋もまた然り。開放的な気分にもなるだろうし、一度ふざけだすと止まらなくなる季節でもある。様々な出会いもあるだろうが、軽率な行動は控えるようにと夏休み前の終業式で校長が神妙な顔で訴えていた通り、美菜浜に夏が訪れると警察官も忙しくなる。この地で初めて出会った男女のトラブル、浜辺での火遊び、危険運転に若者同士の喧嘩と、夜散歩が安全とは言い難くなることを一臣も知っている。心配なのは一臣も同じだった。


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2009/6/21更新

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