眩しい所だなぁと春海は目を細める。
闇夜は遠く、色とりどりのネオンに照らされた道は落ちているゴミの姿もくっきり映し出すほどに明るいが、視界がちらちらして定まらない。
この街で働いて生活していた頃には思いもしなかったが、たった一年とちょっとの時間を海辺の穏やかな町で過ごしていたせいか、ひどく息苦しい環境に感じられた。
アスファルトと下水の匂いが気になってしまう。
けれども懐かしい。
角を一つ二つと折れ、視線を上げる。開店にはまだ随分と時間があるはずなのに、看板には灯りが灯っていた。まるで春海に合図を送るように。
白地に青字のロゴで書かれた看板を掲げる店に勤めていたのに、この看板を見上げたのは最初の一度だけだった気がする。随分と爽やかな看板だなぁと苦笑して、狭い階段へと足を進めた。
最初の就職先でお世話になっていた先輩料理人の結婚式に出席するため、春海は美菜浜を離れ久々に上京した。
美菜浜に腰を据えた春海は、かつて世話になった人たちに葉書を出していた。自分は美菜浜と言う海辺の町の民宿で頑張っていますと、胸を張って伝えることができるようになったから。
それをきっかけに、年上の料理人は春海を結婚式へと招待してくれたのだ。元気そうにしてる顔が見たいと、かつての仕事仲間たちも会いたがっていると教えてくれた。
高校を卒業しないうちから職人の世界に入って、厳しい修行に挫ける様子もなく淡々と仕事をこなして自分の糧とする姿をいじらしいと感じて、周りにいた大人たちはあれこれと世話を焼いて気に掛けてくれていた。店主が体調を崩して店を人に譲ってから、春海を囲んでいた人たちはそれぞれ次の働き口へと散っていったが、縁は続いている。
かつては煩わしいとすら感じていたものが、今はかけがえのないものに感じるから自分はよほど現金な人間だと思う。
披露宴で顔を合わせた人たちは喜んでくれて、春海の姿をしげしげと眺めては立派になったと褒めてくれた。またいつか、必ず栄月館を訪れようと約束もしてくれた。
新郎新婦が落ち着いた年齢を迎えていたせいか、結婚式は和やかな空気で行われ、春海も心からの祝辞を伝えることができた。
二次会は新郎の営む小料理屋で行う予定で、主役は式が一通り終わるやいなや準備のために新妻をつれて帰宅した。
準備が整うまでの間、自分に繋がる糸をもう一本辿りたくて、春海は自分を美菜浜へと送り出してくれた恩人が住まう空間を訪れたのだ。
もちろんここには、苦い思い出もあるのだけれど。
懐かしい重みの扉を押せば、白い空間が広がっている。
「いらっしゃい」
蒼が微笑んで立っていた。出会った頃とあまり変わらない店主の傍ら、スーツ姿の紳士が手をあげた。
「よぉ、久しぶり」
カラリと笑う青年実業家も変わりがなかった。
今すぐにでも、美菜浜に戻れるものなら戻りたいと衝動が突き上げる。
お前の居場所はここだろうと、強引な腕に囲って欲しかった。
同性愛者が集うロコに、同じ性指向を持つ春海が勤め始めたのが二十歳を過ぎた頃。
日常の中で幸福感を得ようと思うことのない生活を送ってはいたが、時に人肌が恋しい夜もあった。埋め合わせのための逢瀬を数回。一夜の人肌の求め方をレクチャーしてくれたのが、布施と言う男だった。
春海よりも七歳年上の青年は、学生時代に起こした会社を成功させていて、何もかもがスマートだった。成功者を自負する危うさもなく、世間を一歩引いたところで観察している冷静さが年齢に見合わない貫禄をかもし出していた。異性からももてたし、この界隈にいる間は同性からももてた。
蒼とは大学時代からの付き合いがあるらしく、互いを理解しあった上で容赦のない言葉をかわす悪友のような絆を持っていて、開店前や閉店後のカウンターに彼だけがへばりついていることもあり、春海とも自然と多く会話を交わすようになっていた。
と言っても、春海はこの店では無口な調理担当者で通っている。手を出したくなる容姿をしているが、あまりに淡々とした仕事っぷりや接客に無言の拒絶を感じるのか、春海に対して積極的に秋波を送る客は少なかった。
ただ布施だけは業務時間外にも存在しているせいか、春海が蒼の前で見せるラフな姿を目にすることができた。愛想を振り向かないくせに淡い社交辞令的な微笑だけは見せる調理スタッフの年相応の幼さに興味を持ったのか、うるさくない程度に他愛のない世間話を振ってきた。
春海が厨房で調理をしている間、布施は見目いい若者を甘く口説いては駆け引きを楽しんで、大っぴらにするのが憚られる恋愛をこの店で楽しんでいるように見えた。マイノリティに属することに悩み込むこともなく、適度に自分を満足させる術を心得て。開き直るわけではないが、許される空間を自分で確保してその中で自由に恋愛を楽しんでいた。
悠々と、飄々と、羨ましさを覚えるほど、布施は自由に見えた。
影で人一倍の努力をしているのだろうが、一見してそれを想像させない余裕を持っている。天変地異が起きたとしてもこの人は走ったりしないんだろうなぁと思うほど。
だが蒼の前でだけ、会社経営の愚痴を漏らしたりもしている。そうして弱みを垣間見せるところが、美菜浜にいる従兄弟に少し似ていると思ってしまった。
余裕綽々の笑みを浮かべながら、こっそりと溜息をつく横顔を興味を持って眺めた春海の視線を感じ取ったように、
「春海は、人恋しい夜はない?」
ロコの深夜のカウンターでジントニックを傾けて、頬杖をついたまま布施は春海を射抜いた。
「俺はあるんだよね。誰かを思い切り可愛がりたい夜が」
布施の常套句からはじまった背信行為は、春海に一時の安らぎを与えてくれた。後腐れなく孤独を埋める方法も。
「この店に通うネコちゃんは布施くんのお手つき」
そう言って蒼は肩を竦めただけだった。遊び方の下手な男については、あらかじめ春海に耳打ちをしてくれるような店主が黙認したのだ。
布施との逢瀬はたった一度。それ以後は布施も春海を誘わなかったし、春海も同じ手に縋ることはしなかった。
だから、春海がロコを辞めて美菜浜へ引っ越すと伝えた時、春海の手首を掴んで「行かない方がいい」と怯むほど強い視線をぶつけて言われた時は、春海も蒼も驚いた。
「俺じゃ、駄目か?」
その一言を、一臣が見慣れぬスーツに身を包み緊張した面持ちでやって来る前に告げられていたら、自分はどんな返事をしただろう。あの大きな手の平に頭を撫でられる前であったなら。
「報われない想いを抱えて何年耐える気だ? いつか絶対に破綻する。君の従兄弟は君の気持ちに気付かないよ。君が俺を選んでくれるなら、俺は、……、遊びなんかじゃなくて、本気になるのに」
あれほど余裕をもった大人の男性が真剣な目をして求めてくれる。その手をとって得られる優越と安らぎを想像することは容易かった。
でも、もう遅い。
「駄目です」
「……春海」
「俺は、布施さんじゃ駄目なんです。報われようなんて思わない。ただ、あの人の役に立ちたいから、俺は美菜浜に行きます」
覚悟なんてかっこいいものではない。ただ抗えないだけだ。
美菜浜の気風そのままに育った家族思いの彼の手の届くところにいたい。家族の一人として、愛されたい。朝子と言う、とても大きな存在を失った悲しみを押し殺して立っている一臣を支えたい。無力な自分でも家族の一員と認めてくれる一臣に、自分は確かに必要とされている。
布施が注いでくれようとしているたった一人の存在へ対する愛情よりも、一臣の家族へ対する愛情が欲しい。
こみ上げる欲求に抗えないから、飲み込まれてここを離れる。
自分を欲してくれる人の手を振り払っても。
「布施さん」
「……」
「ありがとうございます」
例え一時とは言え、与えてくれた温もりは確かに必要だったから。
春海の礼に布施はほんの一瞬だけ顔を歪め、掴んでいた春海の手を解放した。
「ふられちゃったよ」
傍観していた蒼に顔を向けて、おどけてみせる。
「当然よ。相手が本気になったら自分も本気になろうなんて、本当に意気地がない男だね」
「ちょっと、失恋した友人に慰めの言葉の一つも思いつかないわけ?」
「半端な勝負しかけて失恋なんて図々しい。あんたは失敗するのが怖いだけじゃない。臆病者め」
「三島に優しさを期待した俺が馬鹿だった。本当に、大馬鹿者の意気地なしでした。おかわり!」
空になったグラスを掲げて笑ってくれた布施との会話は、それが最後になっていた。
それから一年以上の時間をおいて、
「よぉ、久しぶり」
布施は春海に手を振ってくれた。変わらぬ、どこか飄々とした佇まいで迎えてくれた。
「お久しぶりです、蒼さん、布施さん」
「久しぶり。びっくりしたでしょ? 春海が来るってつい口を滑らせたから、開店三時間前からここに陣取ってるの。仕事しろっつーの」
「仕事は片付けてきたんだって。開店前だからって酒も飲ませてくれないんだ。強請ってようやくコーヒーが一杯。春海が辞めてからこの店のサービスは低下したぞ」
相変わらずのやり取りに思わず笑ってしまった。
世の中から隔離したような白い部屋の中で味わった甘味や苦味を思い起こしたり、ここを訪れて笑える日がくるなんて思ってもいなかった。
「悔しいけど、本当にいい顔してるな」
「え?」
「いや、三島がさ、春海は俺の予想を裏切って従兄弟くんと両想いになって周りにも祝福されて幸せにやってるって勝ち誇ったように報告してくるから、俺はてっきり俺への牽制かと思ってたんだ。だけどまぁ……」
極自然に伸びてきた手が春海の頬をぷにっと突く。
「顔色もいいな。ここにいた頃はいっつも青白いような顔して、お人形さんみたいだったのに。かーわいーなー」
冗談にしか聞こえないような口調の布施の手を、カウンターの向こう側から伸びてきた蒼の手が叩き落した。
本音を冗談や強がりの下に隠してしまう癖が一臣に似ている。だから春海にとっては、布施との一夜が慰めになったのだ。
「布施さんのおかげです」
「言うようになったね」
「布施さんは、どうなんですか?」
「こいつは相変わらずの初心者キラーよ」
布施から一つ空けたスツールに腰掛ければ、蒼がジントニックを提供してくれた。
自分も同じグラスを持って、乾杯を促す。
「春海の一途さの勝利と、布施くんの相変わらずの意気地のなさによる連敗と、私のかわいこちゃんの笑顔に」
「かわいこちゃん?」
「また可愛い子囲ってるんだよ、この男前なオネエ様は」
「またとか言わないでくれる? これでも私は一度捕まえた子とは長いの。羨ましいでしょ? 春海に似て一途で健気な可愛い子よ。今度紹介するわ」
「はい」
「はーい、かんぱーい!」
「乾杯」
「乾杯!」
触れ合わせたグラスから、澄んだ音が転がり落ちるように響いた。
「俺も春海のカズオミくんに会いたいなぁ」
「あー、それは止めた方がいいわ」
「なんでよ?」
「たぶん、お互いに嫌いなタイプよ」
「同属嫌悪、ですよね」
似てるのに俺じゃ駄目だったわけかと布施が過去を混ぜ返す。
布施と出会って、自分を誤魔化していると知りつつその手をとった夜を後悔はしない。
この人を、嫌いではないと思う。
春海の中にある傷に気付いて、優しく慰めるように触れてくれた。見て見ぬふりをするわけでも、無理に抉ろうとするわけでもなかった。例えその場限りで動いた情によるものだとしても、春海はあの時確かに穏やかに呼吸が出来た。
幸せになって欲しい人だと思える。
「布施さんは、いい人ですよ」
「カズオミくんはいい人じゃないわけ?」
「カズちゃんは……、もっと自分勝手で意地っ張りで、案外と不器用です」
「そこがいいの?」
「時々、びっくりするくらい自分勝手なこと言ったりやったりするけど、後で後悔してるのが可愛いですよ。いつも誰かのために動いてて、一生懸命です」
「失敗をおそれないのよ、一臣さんは」
「はいはい。もう耳が痛い。心が痛い」
この時間と空間の居心地の良さに浸りながら、胸の奥では帰巣本能が疼きだす。
帰りたい。
自分の帰りを待つ人がいる、美菜浜へ。
名残惜しい気持ちを振り切って、またゆっくり時間がある時に寄りなさいと蒼と布施に見送られて店を出て、二次会の会場へと向かう。
日もすっかり落ちて、通りは人に溢れて歩き難い。
以前はそんなことを考えることもなかった。
人の流れも会話も、時代の動きも他人の幸福も、自分に関わりのない違う世界の出来事だと思っていた。歩き難いとマイナス感情すら抱くことはなかった。
自分とリンクすることなど、この世界には何もないのだと。
だけど今は違う。
こんな、満ち足りた気持ちでこの街を歩く日がくるなんて思ってもいなかった。
あの人のおかげだ。
声が聞きたいと思うけど、それだけを理由に電話をかけるのは躊躇われた。忙しくしているのかもしれないし、友人たちと楽しく過ごしているのかもしれない。
明日になれば自分は美菜浜に戻るから、それまで少しの我慢だと言い聞かせる。もう二度と会えないと思っていた時代もあるのだから、耐えられないことではないはず。
二次会の会場への道筋に集中しようとした途端、意識していたポケットの携帯電話が短く震えた。
届いたメールは叔父からのものだった。
『久々の東京、楽しんでますか? 作って行ってくれたカレーとおつまみ、美味しかったです。一臣がどうにも落ち着かないようなので、時間ができたらちょっとだけ声を聞かせてあげてください』
二度、丁寧に綴られた文面を目で追って、一臣の番号を呼び出し通話ボタンを押す。
気持ちが急く自分が情けない。同時に、こうして衝動のままに彼に繋がる糸を手繰ることができる喜びも感じている。
緊張する間もなく、電話は繋がった。
「……あ、春海、です」
聞こえてきた返事が涙腺を優しく刺激する。
あなたがこの名前を呼んでくれるだけで、世界の色は変わって、ぬくもりを帯びる。
この気持ちを伝えたい。
月も星も見えない夜空に訴えても答えは与えられないが、すれ違った女性二人組の会話が耳に残った。友人同士らしい彼女達は深刻に、そして楽しげに語らないながらスカートの裾をひらめかせて遠ざかっている。
「なんて言ったら伝わるのか、わからないんだよねー」
「そういう時は好きなら好きって、シンプルに言った方がいいんだって」
軽やかな笑い声がストンと心に入ってきた。
2010/12/8