※ 大切な貴方へ10の言葉「05:しょうがない人ね」の続きっぽくなってます。
三咲が小学校に行って帰ってくる間、「兄貴は大丈夫なのか」と多勢の人に声を掛けられた。
昨日の夕食は一緒にとったが、それ以降は姿を見ていませんと答えれば、ご近所さん達は不安そうな顔をして差し入れをたくさん渡してくれた。
「カズに食わせてやってくれ!」
なんて言いながら。
昨日の夕食後、友人の家に遊びに行くから朝帰りになるかもしれないと告げて外出したきりの兄は、夜明け前には戻ってきたらしい。朝食の時間になっても姿を見せず、夜遊びをしたせいだと二葉が悪く言っていた。
真似しちゃ駄目よと言った母は普段通りではあったが、いつもの朝とは違った慌しさを感じさせた。
カズ兄が、何かしでかしたんだ。
悪さをしたのだと思っていたが、両腕で抱えられないほどの差し入れが悪事ではないことを示していた。
玄関先で昨日から泊まっているお客さんに出くわす。かえりましたと頭を下げれば、おかえりなさいと穏やかに声をかけてくれた。
「まぁ、お土産がいっぱいね」
笑顔を作るのが上手ではない三咲だが、こういう時にははにかんだような少年らしい笑みが浮かんだ。
「ただいまー」
「おかえりー。三咲だけ? 二葉は?」
客を送り出していた母が片割れを探す。
「宿題してなかったから、居残り」
仕方ないわねと眉を寄せる母は、今晩雷を落とすことだろう。その手に救急箱が提げられている。
「どうしたの、そのお菓子。野菜もあるじゃない」
「いろんな人がいっぱいくれた。カズ兄に食べさせてって」
居間のちゃぶ台に土産を広げて顔を上げ、三咲は小さな悲鳴を上げた。
縁側に胡坐をかいて座っていた長兄が上半身裸の状態で、その背に無数の痣や擦過傷が浮かび上がっていたからだ。思わず母の方を振り向けば、
「暴れん坊のお兄ちゃんには困ったものねー。三咲は真似しちゃ駄目よ」
三咲の頭を一撫でし、振り向きもしない兄の後ろで救急箱を開ける。
「……なにしたの、カズ兄」
生傷の絶えない兄ではあるが、これほど派手な傷を三咲は見たことがない。
「喧嘩よ。大喧嘩」
フィルムを剥がした湿布を、強かに打たれたであろう打撲の後に向かって叩きつけるように貼り付けた母は、今夜二葉に対して落とすであろう雷よりもよほど凄まじい怒りの鉄槌を昨夜下してきたらしい。それでもおさまらないほど心配をかけたらしい兄は、強烈な痛みに上がりそうになる悲鳴を必死に飲み込んでいる。二枚目の湿布を手にしたところで電話が鳴った。
「三咲、これ、ココに貼ってやって。乱暴にしてもいいから」
母が電話機に向かうと、頑なに庭を見ていた兄がちらりと三咲に視線をやる。わかってるだろうな、とでも言いたげだ。おそるおそる近付いて、二の腕に浮かび上がる痣を覆うように貼り付ける。ぐっと、兄の背中が緊張したのが伝わってきた。息を詰める横顔も、変色した上に傷が重なっている。
「うえぇ、いたそ……」
「痛くねぇ」
何のための強がりなのか、よくわからない。
湿布薬を貼り付けた腕とは反対の腕には古い傷がある。犬の歯型だ。
まだ三咲が幼稚園に通っていた頃、近くの公園で野良犬に出くわした。駆けつけた兄は二葉と三咲と、近所の友達とを背中に庇って野良犬と対峙して噛み付かれた。騒ぎを聞きつけた大人たちが集まってくるまで、兄は自分の腕に噛み付いた犬を離さなかった。病院で手当を受ける兄の横で、二葉と二人で痛いか、大丈夫なのかと泣きじゃくって繰り返し問いかけた。その時も口をへの字に曲げて、痛くないと言い切ったのを覚えている。
「痛いのに、なんで喧嘩なんてするの」
「痛くねぇっつってんだろーが」
「馬鹿じゃないの」
「誰に向かって言ってる」
頭を鷲掴みにされた。拳骨が降ってこないのは全身がじくじく痛んでいる証拠だ。
「カズ!」
キリリとコメカミを襲う圧力に身を捩っていると、兄の頭上に母の拳骨が落ちた。三咲が恐る恐る貼った湿布が剥がれかけているのをバチーンと叩き押さえられ、兄が喉の奥で奇妙な悲鳴を上げた。
「誰と喧嘩したの?」
母に問えば、浜辺を騒がせる暴走族と一戦交えたうえに、警察に補導されたのだと事の顛末を知らされた。
兄の傷だらけの体に湿布やガーゼを貼り付けながら、母はぷりぷりと怒っている。そっぽをむいた兄が見ようとしない母の顔は怒っているくせに悲しげだった。
心配かけないでよねと、最後に投げつけられた言葉は優しく、柔らかい手の平も兄の頭をそっと撫でて離れた。
しまった。
その光景を眺めていた三咲は思う。ここに自分がいたのでは、兄は母に対してごめんなさいを言えない。
「何したの、カズ兄」
あれから何年が経ったのか。
三咲はもう幼稚園児でも小学生でもなく高校生になっていたが、幼い頃に口にした言葉を同じニュアンスで問いかける。問いかける先にいた母は他界したが、三咲の疑問を受け取ってくれる従兄弟は母に良く似た面差しをしている。
早朝、どうも家がバタバタしていると思えば、朝ごはんに出てきたのは父お手製の卵かけご飯だった。料理上手な従兄弟が作ってくれる朝食は彩りも味も良く、食に執着の薄い三咲でも朝がくるのを待ちわびるのだが、その日の食卓に並んだのは卵かけご飯。
長兄と従兄弟の不在に、またどこぞのホテルにでも出かけたままなのかと思っていたが、学校から帰宅した三咲が見たのは、兄の顔にまた一つ増えた男の勲章。
「竜宮城の辺でパトカーがウロウロしたって聞いてたけど、カズ兄が連行されたわけじゃないのか。残念」
「うるせぇ、三咲!」
軽口を叩けば途端に怒声が返ってくる。元気なことだ。
「で、何したの。今度は」
「喧嘩の仲裁だって」
三人分のお茶を淹れきた春海が、不意に兄へと手を伸ばす。
「カズちゃん、剥がれてる」
ガーゼを留めているテープを額に優しく押し付けるその横顔を見て、三咲は思う。
思ったことを、口にしてみた。
「ほんっとーに、カズ兄は馬鹿なんだから」
ヒーロー気取りがいい加減にしろと思う。そこまでは口にできないが、身近な者に悲しそうな顔をさせて、本当に馬鹿な兄だ。
心底からの呟きに飛んでくるはずだった鉄拳は、春海が睨みをきかせていたお陰で制された。春海に叱られるのが、長兄は怖いらしい。
「ハル、今日って時間ある?」
「夕飯の支度までなら大丈夫だけど」
「じゃあ、モデルになってよ」
「俺?」
「そう。美術部で卒業制作作るんだけど、その準備をそろそろ始めようと思うんだ」
頼むよと顔を覗き込めば、自分なんかで大丈夫かなと首を傾げながら了承してくれる。そのやり取りに鋭い視線が注がれるが、黙殺してやった。
春海が悲しんでいる顔を描こうと思った。
言葉がなかなか通じない馬鹿兄貴でも、ビジュアルにしてやれば伝わるはずだ。
春海がどんなに心配しているか。
どんなに切ない表情でいるか。
そんで、あんたのことを、どんだけ好きでいるか。
それが伝わるような絵を描こう。
馬鹿兄貴と、悪態をつくことしかできない自分の言葉の代わりに。
2010/5/3更新
ちょっと時間軸がウロウロするのでわかりにくいなーと思いつつ。