うだるような暑さが続いている。気温の上昇に比例して美菜浜には海水浴客が増え、賑やかだ。
忙しいと悲鳴が上がるのを聞きつけては、一臣もあちこちを駆け回る。
その日もグラスボートに客を乗せ、海底散策の案内人を務めていた。自分にとっては見慣れた海の底を覗き込んでは歓声を上げたり感嘆したりする客の反応に満足して、船を砂浜につける。
「足元気をつけてくださいねー。ありがとうございましたー」
地面に足をつけてほっとしながら笑顔を見せる人たちを見送っていると、スタッフが缶コーヒー片手に近付いてきた。
「おつかれさん」
「どうも」
よく冷えたコーヒーを受け取ったところで、浜から上がる階段の上から若い女性グループが名残惜しげに手を振ってくる。バイバイと振り替えすと、きゃっきゃとここまで笑い声が届いた。目移りすることはないが、女の子が喜ぶ姿は素直に可愛いと思えた。思わず笑顔になっていると、
「事務所に、藤本さんから電話があったんだと」
顔を引き攣らせる名前が挙がった。美菜浜の重鎮の名前にスタッフも苦笑している。
車の整備工場を営む藤本氏は、今でこそ引退宣言をしているが以前は長く町議を務めた町のご意見番で、今もその声には随分な影響力が含まれる。一臣自身は小学生の頃に所属していたスポーツ少年団の監督として世話になっていた。厳しい声に幾度も叱り上げられて育ったせいか、この町で暮らすかつての少年は一様に藤本の前では直立不動となる。とは言え、ハイティーンでドロップアウトすれすれのやんちゃをしていた一臣はそんな可愛げを失って久しい。
「観光協会にいるから、顔出せって」
「えぇー。俺、こう見えて案外と忙しいんだけど」
「ともかく、うちは伝えたからな」
「なんだろーなー。最近、若年会も大人しくしてるんだけど」
藤本は町のフリーマンとしてあちこち駆け回る一臣の存在を認めてくれてもいるし、若者が軽挙で集まったような若年会の活動を不安視したり見守ったり監視したりもしてくれている。何か事を起こす度に様々な忠告とお咎めが入るのだが、それらには若者らしくちゃんと耳を傾けて伺い、反論できるところは反論して突き進んでいる。
ここのところの素行を振り返れば急な呼び出しを受ける覚えがないのだが、藤本の気まぐれはいつものこと。自分の気の向くままに人を呼び出して、一、二時間はご隠居の暇つぶしに付き合わされることも多い。
「藤本さん、まだスポ少辞めないんだな」
「辞めさせてくれないっつって、辞めないんだ」
「うちの子、来年から入団させようと思うんだけど、気が重いなぁ」
「ガキの教育にゃ悪くないんですけどね。他所のじいさんから怒鳴られるって経験は今じゃ貴重ですよ。だけど、保護者の立場となると、ね」
「子どもの前で叱り飛ばされるんだから、立場がないってみんなぼやいてるよ。老兵は去れ、って誰か言ってくんねぇかなぁ」
「俺に期待されちゃ困ります。さー、ご機嫌とってくるかな」
ごちそうさまと空き缶をスタッフに渡し、砂を踏みながら浜を出る。
携帯を開いて、藤本に呼び出されたため遅くなると簡潔なメールを春海に送っておいた。今頃は栄月館の掃除に汗を流しているだろうから、返事は暫くないだろう。
先ほどの女子グループが土産物屋の軒先で、ソフトクリームを手にまたキャイキャイと笑っている。美味しいねと目を輝かせる、その顔を見たくてこの浜辺は努力するのだ。栄月館のロゴ入りワゴンを発進させながら、また来てねと手を振ればまた笑い声が弾けた。
美菜浜観光協会の事務所は美菜浜駅の近くに存在する。
観光協会会長の田代が、顔を出した一臣にやや申し訳なさそうな表情を向ける。藤本と幼馴染のこの会長は、やはり藤本と同じく影響力を持つ人物ではあるがどちらかと言えば物静かな性質だ。事務官として優秀で、イベント事の段取りはいつも完璧だ。若年会が持ち出す新たな試みも柔軟に受け止めてくれるのだが、観光協会を仕切るにしては自発的な発想に欠けるというのが藤本の田代に対する評価だ。
当の藤本は来客用ソファーに体を沈め、しかめっ面で座れと命じてきた。
「こんちわ。って、まずは挨拶が基本でしたよね? 総監督」
よろしくないご機嫌をとるには、猫なで声よりは逆らってみせる方が有効である。
「口ばっかり達者になりやがって」
悪態をつくが、表情が綻んだ。こういうところが、関わる者に扱い辛いと思わせるのだ。悪い人ではないんだけど……と皆が困った表情で呟くのが、藤本の人物評だ。
あまり人のことばかり悪くは言えないと、目の前のソファーに腰を下ろしながら一臣も思う。あちこち走り回る自分のことを、いったい町の人たちはどんな風に噂しているのか。幸いに助っ人に呼んでもらえるということは重宝されていると言うことだろうが、天狗にはなれないなぁと目の前の老兵の姿に教訓を得る。
「俺、けっこう忙しいんですが、何かやらかしてますかね?」
藤本は皺の刻まれた小難しそうな顔を更にくしゃりと歪めた。
「まだ、あの子を相手にしてるのか」
やがて吐き出すようにぼそっと低い声で告げられた本題に、一臣は条件反射のように天井を仰いで溜息をついた。
「このアホタレが。逆上せ上がって、いつ正気に戻るかと思えばいつまで経っても現実逃避で、仕方のねぇ」
藤本の低く響く声が文句を綴る時、それは坊主の唱える読経に似る。聞き流しやすい声でもあるが、時に聞いていなければ応えられない相槌を求められるのでうっかりもしていられない。
いつもの情勢や人物批判になら耳を傾けて相手をしてもいいが、この話題は真面目に聞くつもりはない。
「まだ春海のこと言ってんの? もういい加減、わかってよ」
一臣は春海を生涯の伴侶とすることを誰彼に言いふらしたわけでも、公言したわけでもない。ただ早朝の浜辺を手を繋いで歩いているところとか、一臣の言葉の端々に滲む恋情が少しずつ広まって、一臣が春海の手をとったことは多くの人の知るところとなった。
ありがたいことにその多くが、二人を見守ってくれている。漁協組合を総括する幸太の父などは目出度いとすら祝福してくれて、厳しい見方をする人を不器用ながらやんわりと説いてくれている。
けれど勿論、万人に受け入れられる関係ではない。藤本のように反対する者もいるが、一臣のこれまでの地元への貢献度に遠慮してか、真っ向から反対するのは藤本くらいだ。自分のことを思って言ってくれているとわかっているから最初の頃は大人しく聞いていたが、最近はしつこさに苛立ちを隠せなくなってきた。
「わかるか。男同士で、何がのこるわけでもない。朝子が悲しむ」
「誰よりもお袋が喜んでくれてるよ」
「今はまだ男でも可愛い見てくれだけどな、そのうちただの爺さんになる」
「藤本さんの奥さんもただの婆さんだ」
「減らず口をきくな、馬鹿タレが」
「ってか、もう諦めた方がいい、藤本さん。時間の無駄なんで、俺をどうこうしようと思う情熱を子どもたちに捧げてやって。俺は春海が可愛くて仕方ないんで、どうしようもないです」
一臣の主張が終われば、藤本の読経のような説教が溢れ出す。聞き流れていけばいいのに、何故かそのぶつぶつとした声は明確な単語と言う輪郭を持って脳内に入ってくる。眉間に皺を寄せて聞いていると、協会長自らアイスコーヒーを運んできてくれた。恐らくはここでいつものようにぐだぐだとお喋りに興じているうちに一臣の話になり、今日こそはと息巻いて田代に一臣の所在を追わせて呼びつけるように我侭を言ったのだろう。多忙な業務を抱える協会長は、苦く笑いながら厄介な昔なじみの要望に付き合ったわけだ。冷たいアイスコーヒーは詫びのつもりか。目を覗き込むような不躾な視線を投げると、すまんと口だけ動かして自分の机へと逃げてしまった。
「だいたいな、子どももできないんじゃどうしようもないだろう。お前、じいさんになった時に誰に面倒見てもらう気だ。弟達に面倒みさせようったってそうはいかねぇからな」
「誰もそんなこと思ってねぇし。藤本さんは子どもに自分の老後の世話をさせるために奥さんと結婚したんですかー」
足を組みソファーにふんぞり返り、対抗心丸出しの子どものような態度をとる。もう嫌なんですよ、勘弁してよ、ぐれるよ。言外に訴えるがどうも通じない。苛立ちが募っていく。
「確かに、春海は可愛そうな子だけどな、同情だけで添い遂げるのは難しいぞ。いつか破綻する」
「同情だけで男を選ぶかよ」
「カズ、お前は、ちゃんとした家庭を築ける。あの子とは違う」
「あぁ? なんだそれ」
愛想笑いで誤魔化すこともできなくなった一臣の声の変化に気付いたのは藤本ではなく、傍観を決め込みたい田代の方だった。
「藤本、もう止めよう」
しかし静止の声にはまた説教がかぶさってしまう。
「同い年連中見てみろ。あの幸太でさえちゃんと光子を嫁さんにした。アツシのところはもう子どもが三人いるんだぞ。春海が可愛そうなのはお前のせいじゃない。あれの母親やじいさんやばあさんの責任でもある。お前が背負う問題じゃない」
ふんぞり返っていた体を起こした一臣は、組んだままの足に肘をつき行儀悪いままではあるが藤本の言葉に耳を傾けるような姿勢をとった。
「お前はちゃんと、嫁さんもらって子どもこしらえて、家庭を築いて美菜浜に居てもらわなきゃ、困る」
一臣が顔を上げた。田代が自分のデスクから滑るように来客ソファーに席を移す。張り詰めた空気が弾ける場面が、有能な壮年男の脳裏に浮かんでいるのかもしれない。いつも穏やかな眼差しは一臣の拳の辺りを凝視している。そちらにちらりと視線をやれば、田代が“抑えろ”と目で訴えてきた。わかっていると答える代わりに、藤本を呼んだ。その声の穏やかさに、田代がほっと息をつく。けれど視線は拳に絡む。
十代の頃、一臣は今ほど大人達に信頼される性分をしてはいなかった。暴れん坊、困ったヤツ、悪い子ではないのだけれど抑えが効かない。暴れ始めたら手がつけられないガキ大将を持て余していた。それが栄月館を継いでから随分と落ち着き、今の信頼を得るに至った。けれど自分が積み重ねてきた過去は消せるものではない。一臣が声のトーンを落とす時、怒気をあらわにする時、今でも周囲は激しく緊張する。
決して自分をコントロール仕切れている大人ではない自覚はある。つまり自分は、田代よりも藤本に近い大人になっていると言う自覚が。
「藤本さんは、俺を誰の息子だと思ってんの?」
「あぁ?」
「あの親の子に生まれて、自分の家庭を築こうって思わない、わけがなくねぇ?」
家庭だとか居場所だとか、そういうものに人一倍拘っているからこそ今の自分がいて、周りの人間から重宝される存在にもなれている。家族を愛おしく思う気持ちを教えてくれたのは、両親や祖父母や弟達だ。生まれつき繋がっていた縁とはまた別に、自分の縁を得ていきたいと幼いころから思ってきた。生涯の伴侶とする人と出会い、その伴侶の家族と大月の家がつながり、二人の間に新しい命ができて、一臣の家族が築かれていく。両親の睦まじい姿から、そんな未来を想像していた。自分が本当に欲しいと思う人の存在に気がつくまでは。
「だけどそれが、春海の手を離さないと手に入らないものなら、俺はちゃんとした人生とやらは要らない」
可哀想だからだとか、罪悪感からだとか、そういう情で春海の手を掴んでいるわけではない。
何故春海なのかと藤本をはじめ、幾人かに尋ねられたけれど、ただでさえ自分の感情を的確な言葉に変換するのが苦手な一臣は、その問いにちゃんと答えられた試しがない。春海が自分のことを好きなのだと知り、それにひどく安心した覚えはある。それをきっかけと呼ぶのなら、自分の春海へ向けた恋情はずっとずっと幼い頃から形成されていたような気がする。春海が如何に可愛そうな子どもであったかを理解するよりも前から。互いに気まずさと罪悪感に苛まれて向き合うことができなくなった出来事が起こるよりも前から。
春海を手に入れてから、自分でも変わったと自覚することがある。友人の結婚式に顔を出した時や子どもの相手をする時、以前であればちりちりとありもしない尻尾の先が焦げるような落ち着きのなさや息苦しさを覚えていたのだが、それが無くなった。お前も早く嫁と子どもを据えて一家を作れと、独身貴族の宿命とも言えるその言葉を掛けられるたび、できればそうしたいのだけど相手がいないと苦笑いで答えてきた。それが、今では穏やかな気持ちで祝辞を送り、親の顔になった友人を称えることができる。
春海を相手に彼らと同じことが出来たらと、不可能なことを想像しないわけじゃない。親と言う存在に憧れてもいる。けれど、藤本が思う以上に、そして春海が思うその何倍も、一臣は春海が好きでしょうがない。
「これは最終勧告だと思って欲しいんだけどさ」
時は金なりと言った人は偉大だ。春海と別れろという趣旨の藤本の説教を聞く時間で、一臣は一件の助っ人業をこなすことができる。大月一臣の未来に期待をしてくれる人たちの意図に添えない決断をした一臣が出来る穴埋めは、美菜浜のために動くことだ。
「幸いなことに俺らのことを認めてくれてる人は多くいる。ありがたいことだよ。感謝してる。だけど、藤本さんみたいな人がいることも俺らはちゃんと知ってる。わかってる。その分、何か出来るならそこに力を注ごうとも思ってる。それでも許されないって、あんまり多勢の人に批難されて拒絶されて、春海が傷付くんだったら俺は」
藤本は完璧ではない。欠点の方が多く感じられるかもしれない。それでも、一臣はこの藤本を尊敬している。怒ると叱るの違いを教えてくれた人だ。子どもの失敗や遠回りを見守ってくれる人だ。その眼差しは、今も昔も変わらない。これから先もずっと、美菜浜の子供達を見守る目を持っている。認められたいと思ってきた人だ。その目を見据えて一臣は言う。
「俺は、美菜浜から逃げる覚悟がある」
藤本の一見眠そうにも見える重たい目蓋がぴくりと動いた。田代が何か場を散らすための言葉を探して、結局口を噤む。
「春海はきっと嫌がるだろうけど。それでもさ、逃げるよ」
何でもそろっていて賑やかで幾らでも遊ぶところがある都会の暮らしを求めたり、より良い働き口や夢を求めて美菜浜を離れる若者は多い。だが一臣は憧れることはあっても、美菜浜を出ようと思ったことは一度もなかった。それなのに今は美菜浜を離れる自分を想像することがある。そんな自分の執着を怖いもんだと一歩引いて眺めている自分もいる。
「まぁ、俺の力が必要だと思っててくれるんなら、いい加減黙っててくれよ。あと、こういう話は絶対に春海に聞かせないようにお願いします。黙って消えられたら、かなわん」
場の空気を重くさせてしまったと自覚した一臣は、責任をとるつもりでわざと明るく言い放ち、臨戦態勢とでも言うかのような前傾の体を起こしてソファーにふんぞり返った。すっかり氷のとけたアイスコーヒーを口に含んだところで、未だどんよりした空気が去らないのに気付く。一臣が真面目に怒ったとしてもそれに参るような柔な大人たちではないのだが、何やらしゅんとしている。そのうち、田代の方がのろのろと顔を上げた。
「カズ、早く帰れ。こいつ、ここに居座る前に栄月館に寄ってハルちゃんと話をして来てる」
田代の言葉を理解するのに数秒。そこから立ち上がり、
「さっさとくたばれ、クソジジイ!」
最も相手を傷つける言葉として考え付いた罵声を発し、老兵の前から立ち去るのには間髪置かなかった。ドアを蹴飛ばしながら開け、閉めるのにもドアを蹴った。最後には駐車場に停めてあった藤本の軽四の車体も蹴飛ばした。
若年会会長がまだまだ子どもっぽい行動から抜けきらないから、老兵達は去るに去れないのだとは、この時の一臣には思えない。
最悪の気分で戻った自宅の奥からは、水音が聞こえてきていた。
宿泊客の老夫婦と主婦グループは朝早くから神社巡りをするのだと出かけている。父は仕事で二男はナンパで三男は補講で四男は部活に出払っているから、栄月館に残るのは春海だけだ。
水音を辿って民宿の奥へと進むと、客用浴室のタイルに膝をついて風呂掃除をしている春海の後姿が見えた。
「ただいま」
「あ、おかえりなさーい」
声をかけると、ごしごしとタイルを擦りながら春海が応える。
「……おい」
「おなか空いたなら、冷蔵庫におやつ入れてるよ」
勝手に出して食べてと告げるのも、タイルと格闘しながら。春海は一度も振り向かない。一臣は浴室の入り口にしゃがみこむ。
「こっち向け」
「忙しいから、後で」
「あぁ? そんなん、もうすぐ二葉が帰ってくるからやらせりゃいい」
「駄目だよ。二葉はちょっと雑だから。ちゃんと俺が綺麗にする」
「いいから、こっち向け」
「いやだ」
「あぁ?」
低い威嚇の声が出ると、春海は一瞬だけ振り返りかけて、それを止めた。
「こっち向いてくんねぇ?」
「泣いてるから、嫌」
不機嫌を装っていたものが、ぐずっと鼻声になった。
「ばっか……、お前、本当に馬鹿」
大人しそうな顔をして、案外と頑固だ。そういうところに心底呆れて、心底愛しくて、一臣は濡れたタイルを素足で踏む。春海のすぐ後ろにしゃがみ、顔を覗き込もうとするが頑固者はレトロなタイルの模様の意味を一生懸命に考えようとしているらしい。
「なぁ」
ちょいと髪の毛を引っ張る。
「何で泣いてんの? 誰に泣かされたの? 俺が仇をとってこようか?」
幼い頃によくかけた言葉を引っ張り出せば、華奢な肩がふるりと震えた。抑え切れず乱れた呼吸が、涙一滴と共に握り締めた風呂掃除用のタワシの上に落ちていく。
「春海」
名前を呼ぶと怯えたように肩を縮める。耳を塞ぎたいのだろうが、泡のたったタワシを握り締めていてままならないらしい。
藤本の来訪を受け一人で話を聞いて、恐らくは離れろと諭されたのだろう。朝子に面差しのよく似た春海に対して、藤本が自分に向かって吐いた言葉に何重もオブラードを被せたことは想像できるが、一臣と離れろと促す内容に春海の胸が波立たないわけがない。気にするな、放っておけ。慰めの言葉のどれほどの効果があるだろうか。見ず知らずの人間の言うことならそれも可能だろうが、一部分とはいえ一臣が敬う男からの説得だ。そして何よりも藤本が、一臣のことを思って発した言葉達だ。
藤本の読経は一臣の胸に落ちた時に比べ、ずっと鋭く研ぎ澄まされていたに違いない。それでもきっと、この耐え忍ぶことばかりが上手な従弟は黙って、藤本の気が済むまで耳を傾けていたのだろう。
振り向かない春海の顎からポタポタと滴が落ちる。嗚咽を噛み殺しているから肩が時々不自然に揺れた。
「なぁ、お前は、どうしたい?」
意地悪で聞いたのではない。選んで欲しくて尋ねた。その意図が曲がって伝わらねばいいがと不安になったのは一瞬で、くるりと振り返った春海の手が一臣が期待した通りに伸びてきた。
縋るように一臣の腕を這い上がった手は、しっかりと背中に回り、闇雲にシャツを掴む。
肩口に押し付けられた口唇が何度か開閉を繰り返し、しかし言葉にはならず、もどかしそうに空気を噛むような音だけが幾度か漏れ、その度に震える歯が薄いTシャツ越しに肩の筋肉につきたてられた。
春海が投げ出すことなく偲び続けてくれた想いの尊さを知るのは自分だけでいいと思った瞬間、ぶるりと一臣の体が震える。脳が揺れるような衝動が、頭のてっぺんから落ちてきて全身を駆け巡った。泣きたくもあり、笑い出したくもある。対極の感情だが、どちらもリミッターを振り切っている。
自分の意思で一臣を求める春海を軋むほど抱きしめ、顎を掴んで貪るように口付けた。春海以外のなにもかもがどうでもよくなる。
思えば一臣は、何かと短気だ直情型だと評価されてはいるが、こと恋愛だとか性的なことに関しては血の気の多いこの男らしかぬ鷹揚さで応じてきた。一人の対象に必死でアプローチすることもなかったし、性的欲求に関しては適度に発散させてくれる気軽な相手を探すのに苦労もしなかった。切羽詰るほどの欲求を抱え込んだ覚えもない悠長な態度は、時に淡白だとか不能だとか悪く言われることもあった。だから、こんな衝動を一臣は知らずに過ごしてきた。状況や相手の表情を楽しむことなく求めるなんて勿体無いと思っていたが、そうせざるを得ない状況もあるのだと体感している。
千切れかけている理性が、一臣にシャワーのコックを捻らせた。降り注いだ水がタイルに残っている泡を流していく。
真昼間だ。客が観光から帰ってくるまでには余裕があるが、ナンパに出かけている二男の帰宅は近いかもしれない。風呂場のドアが開きっぱなしだ。濡れたら服が脱がし辛い。そもそも着替えもタオルもここには備え付けがない。あれこれ浮かんだ心配事は、春海が欲しいと訴える本能の前に掻き消える。
時と場合を一臣よりもよほどわきまえる春海の手が拒まないのも悪い。
欲しい欲しい欲しい。食らいつくしてしまいたい。春海以外のものは、どうだてっていい。捨てて逃げたってかまわない。焼け付くようにそう思い、生じる火傷がもたらす痛みは罪悪感だと知っている。
春海の体を掻き抱き、熱に浮かされたように肌を探る。いつも言葉遊びを楽しむことから始まる前戯も、今日はまるで初めて体温を交わす思春期の子どものように覚束ない。まるで動物のように言葉を失うその前に、
「もう、離れないでくれ」
今の一臣がもつたくさんの願いのうち、最も叶えたいものを伝える。
結局、自分はどんなに大口叩いても、何一つ手放すことはできないのだ。だからせめて、我侭を叶えてくれる人へ懇願する。欲張りな自分の両手は色んなものを掴んでいて離せない。だからお前がしがみ付いていろ。
春海はそれに素直に頷いて、涙で潤んだ瞳に一臣だけを映して、希望通りに両腕で一臣にしがみ付いた。
2011/10/29
藤本さんのモデルは前の職場に出入りしていたオジサンです。
面倒な人をいかに面倒に、でもBL=ファンタジーのポリシーの下いかに「根はいい人」に書くか頑張ったつもりが撃沈です。人物描写、難しい。
後に誤字修正しました///長男がシャワーのコックを捻る表現の「に」が「の」になって卑猥な文章になってました(笑)全体的に桃色なのにそこだけパッションピンクになってました。ご指摘あざーっす!!ミラクル!!