コンタクト(前)

 「なぁなぁ、高山のことさ、タカって呼んでいい?」
 真冬の大気を連想させるような緊迫感が漂うグラウンドに、休憩を告げる声が響いた。
 あちこちで上がる悲鳴とも溜め息ともつかない音たちが、高山の立っている場所を五月の温んだ空気に戻した。
 十七歳以下という条件をもって、日本サッカーのトップレベルと認められた少年達が集う代表合宿で、高山のことをタカと呼んだ最初の存在を振り返る。
 高山と同じく初召集の江口英介が、高山のジャージの端を握っていた。
 視線を少し下げなければならない小柄な体ながら、その俊足には先刻の練習中に驚愕させられた。
 広島の高校サッカー部からの選出と紹介されていたが、耳にした校名を聞いたことはなかった。
 どこから発掘されてきたのか知らないが、足の速さやゴールへ向かう姿勢は他のフォワードに劣るものではなかった。
 中学時代は俊足を生かして選抜チームに選出されてもいたらしいが、交通事故で一度姿を消したらしい。
 這い上がってきた少年の顔はサッカーを始めると大人びたものになる。
 初召集の緊張や謙虚さは持ち合わせていないのか、人懐っこいし明るい。
 早くもムードメーカーとして他の召集選手に囲まれていたのに、その群れの中からはみ出して高山に声を掛けてきた。
 いかにも口が重そうな高山を捕まえて、愛称で呼んでもいいかと問う。
「あ? あぁ、いいけど」
「俺んことはなんでもいいから。みんなえっちゃんって呼ぶけどさ」
 高山の了承に僅かに安堵の表情を見せた。
 こいつの懐っこさは、馴れ馴れしいのとは違うのだと気付く。
 サッカーで繋がろうとしているのだ。
「タカって、タッパあるね。何センチ?」
「179かな」
「マジ!? 俺なんかやっと160。いいなー」
「でも、足で勝負するんだったら、あんまりでかくても」
「あっ、そっか。そうだよなぁ」
 あまり表情を変えない高山の前で、英介の顔はクルクルと色を変える。
 ぱっと目をひく整った顔立ちだからなのか、見ていて飽きない。
 素直で天真爛漫で、無神経なわけでもなく。
 衝撃のスピードを見せ付けた後は、好感触の人間性をうかがわせる。
 高山が、今でこそ所在地は違うが、出身は広島だと告げると嬉しそうな顔をした。
 その顔を見て、人間関係に消極的な高山も比較的早い時間で打ち解けることができた。
 ポツリポツリと自分を明かす高山の話を聞いたり引き出したり、その合間に自分のことを英介が話す。
 ぎこちない会話のキャッチボールは、グラウンドでボールの受け渡しがすべらかになるに比例してテンポ良くなっていく。
 
 英介が走る。
 ディフェンダーが近付くことすら許さないスピードで、ピッチを縦横無尽に駆け回る。
 ボールを放れば落下点に走りこむ。
 直線を描くようなスルーパスには必ず追いついてフィニッシュまでもっていくから、高山もより大胆なパスを出せるようになる。
「タカのパスは、ダイレクトでシュートするのが一番気持ちいい」
 ミニゲームでボレー三発を見事にゴールマウスに突き刺したフォワードは、汗を拭いながら自分が得た感触を確かめるようにそんなことを声に出して言い出した。
「あのキラーパスをダイレクトで合わせられるのなんか、英介くらいだ」
 英介を止められなかったディフェンダーの夏木が苦い顔で突っ込んだ。
「タカのパスもどんどん容赦がなくなっていくな」
「だよなー。絶対にライン割るように見えるから、ドキドキする」
「あれくらいの球威があれば相手の不意をつけるかなって」
「どこに蹴ってんだよって思うけど、あとで線繋いでいくと納得のコースなんだよなー」
「それにしても最初の頃の柔らかいパスが懐かしい。ふんわりと、まるでシフォンケーキのようなパスを出してたよ、お前は」
 受け手に優しいパスを、というのは今も心掛けるところなのだがと高山は首を捻る。
「今はまるでレーザービーム。まぁ、英介が追いつくって信じてるから蹴れるんだろうけど」
 夏木が英介のスパイクを見た。
 その視線を高山も追う。
 紐を解いた英介の黒いスパイク。
 そうか、この足を信じているから蹴れるのか。
 英介のサッカーが自分の描いたものに近いだろうと思えるから、タイミングや距離やスピードが噛み合ったアシストが生まれるのか。
 自分のプレーの動機を解明された気がして、高山の胸が晴れわたる。
 一陣の風が、ふわふわと漂っていた雲を全て吹き飛ばしてしまったようだ。
 これまでの漠然としたプレーとは違う、しっかりとタイトルのつけられたプレーが手に入った。
 じわっと腹の底が熱くなり、体が疼く。
 目の前に投げ出された黒いスパイクの先へ、ボールを蹴りだしたい。
 こんな風に、疼くように突き動かされるようにサッカーをしたいと思ったのは初めてのことだった。
 青いユニホームに袖を通した時、喜びよりも不安の方が勝った。
 それが今、穏やかな日差しの下の雑談で高山は自分のサッカーの中に歓喜を見出す。
 コミュニケーションが下手くそな自分の繰り出すパス達は、誰かの足にちょっとでも触れれば満足だった。
 それを熱烈に欲してくれるフォワードがいる。
 高山の我侭に似たキラーパスを、もてる限りの力を出して追い縋ってくれるフォワードがいることを心で理解した。
「やろう」
 耐え切れず、高山は英介の手を引き立ち上がる。
「サッカー、しよう」
 きょとんとした顔のフォワードに、この奮えが伝染すればいい。
「おいおい、サッカーは司令塔とスピードスターがいればできるってもんじゃねぇだろが」
 休憩で緩んでいた空気が張る。
 十七歳のサッカー小僧の集団の中で、ボールが一つ転がりだした。


 サッカー小僧の集団は、やがてプロになったり学生になったり。
 進路希望調査書に迷いなく綴れる文字があることの幸運を噛み締め、高山はボールペンを走らせる。
 書き終えた一枚のプリントを見ながら、昨日の電話を反芻した。
 どうしよう、と表情が容易に想像できる声を出した電話の相手は、自分がオファーを受けたチームの名前を上げた。
 指折り数えたチーム数が、自分が列挙できるそれよりも一つ多いことが少し悔しかった。
 サッカーがしたい。
 一緒に。
 たくさんもらった言葉を要約して、俺もだと答えた。
 サッカーがしたい。
 お前と。
 行き先は神戸レインボーチャーサー。
 江口英介と同じ方向を向き、走ることを選んだ。
 契約書にサインを記す。
 その時二人は違う制服を着ていて、今度会う時は同じユニホームに袖を通すのだ。



 隣を走る高山の口から白い呼吸が零れ、ゆらゆらと変幻自在な形を作って消えていく。
 英介が視線を足元に落とすと、並んで走る高山のシューズが見える。
 自分の歩幅よりも幅のあるそれは、ゆったりとしたペースを刻む。
 大きな足に大きなサイズのジャージ、太い腰周りを見上げていく。
 初めて会った頃に比べ逞しくなった体格が少し憎い。
「タカ、タッパ、何センチに、なった?」
「……あー……、あー、……ひゃく、は、ち、じゅー、ごっ」
「185! お前、伸びすぎ」
「お前、は?」
「俺、165」
「スピードで、しょうぶ、だろ」
「そう! スピード勝負!」
 高山のフォローに気持ちを浮上させていると、グラウンド脇のベンチから大声が上がった。
「タカ―! 英介に付き合って馬鹿みたいに走るな! 休憩しろ!」
「馬鹿みたいって。薫さん、ひどい」
 監督よりも厳しいドクターの怒声にも慣れてきた。
 高山がスピードを緩めてゆっくりと歩き始めるのに合わせ、英介もランニングを終了させる。
 高山が上がりきった呼吸を整える。
「お前は、タフすぎる」
 汗を拭う英介を、膝に手をついた体勢で見上げた高山が笑った。
 高山は、笑うようになった。
 初めて顔を合わせた十七歳の時、でかい上に無表情のこいつは回りに随分な威圧感を与えていたけれど、話してみれば言葉こそ少ないが周りを排除しようという気配はない。
 人付き合いが苦手なだけなんだと勝手に思い込んであれこれと話かけていれば、ぽつぽつと答えてくれる。
 クールで落ち着いているように見えるのに、本番になると緊張してパスの精度が鈍る。
 わかりやすいほどの上がり症は微笑ましくもある。
 人に無関心のようで実は面倒見が良いという面もある。
 そっと人のフォローができる器用さがあるのに、人付き合いに関しては不器用で、その不器用さに安心もする。
 その分とでも言うように、ピッチの上で出されるパスは雄弁。
 決めろ、打て、走れとやかましいからサッカーが楽しくなる。
「明日」
 腰を真っ直ぐに伸ばした高山が水分をとりながら英介を見る。
「神戸観光でもするか。軽く」
「マジで? するする! 南京町行こ!」
 神戸に越してきてからはチームに慣れることを優先させ、練習場と寮とスタジアムを行き来する毎日。
 サッカーができればそれで幸せではあるけれど、この街がどんな顔をしているのか見たい気持ちはずっとあった。
 まさか高山から誘ってくれるとは思っていなかったから、喜びは倍増する。
 いつも高山の周りをうろちょろしてちょっかいを出している英介が、高山からのリアクションや言葉に安心していることを、英介本人もまだ知らない。
「じゃ、とりあえずは今日のストレッチから」
「はーい」
 実家を離れての生活に家族依存の強い自分が耐えられるのか、英介にしては珍しいことに不安を抱えて挑んだ新生活だったが、隣に高山がいてくれたせいか覚悟していたよりも早く馴染むことができた。
 故郷恋しさに涙ぐんだ夜がなかったとは言えないが、それでもホームシックに苛まれた夜が明ければ同期の友人が練習場行こうぜと声を掛けてくれる。
 そのことが英介を安心させた。
 高度なレベルのサッカーは戸惑うこともあるが面白い。
 高山とのコンビネーションも評価されてきたし、ベテラン勢と連動して動くのも楽しい。
 心も体も焦げ付いてしまうんじゃないかと思うほどに欲した場所での生活は順調だった。

 順調だったのに。

 高山は、ブラジルへ渡った。
 監督から行ってみないかと声をかけられて、一日迷って行くと答えた。
 行って、帰ってくる。
 頑張ってくる。
 この性格も、ちょっとは変えられたらいいな。
 そんな決意を英介に告げた数日後、慌しく高山は日本を離れた。
 とりあえずは一年間の約束で旅立ったルーキーに寮の部屋は割り振られたままで、その部屋の鍵を英介は預かった。
 高山がいない寮で、痛みを覚えるほどの寂しさを感じる夜が英介の眠りを侵すようになった。
 そんな夜は預かった鍵を使って友人の部屋に入り込み、同じ造りのベッドに潜り込む。
 あの無口で無表情な男が、ブラジルで生活している。
 挨拶くらいはできるんだろうか。
 サンバなんか踊ってたりして。
 どんなサッカーをしているんだろう。
 楽しんでいるのか、苦しんでいるのか。
 思いを馳せれば、寂しさが募るのと同時に焦燥が生まれる。
 自分と高山の距離は離れていないか。
 今度会った時、自分はあのパスの先に走り出すことができるのか。
 高山は信頼を込めたアシストを自分に向けて託してくれるか。
 国を超えても数秒で届くメールは、彼らしい端的な言葉で元気にやっていることと、ブラジルサッカーのワイルドさに未 だ戸惑うことが多いと伝えてくれるけれど。
 笑えているのだろうか。
 サッカーを、楽しめているのだろうか。
 自分が置いていかれているのではないかという不安と、高山が躓いているのではないかという不安を抱えて、英介はふと気付く。
 今まで、こんな風に他人のことを気にかけたことがあっただろうかと。
 高校時代の友人は自分の無茶に付き合ってくれたかけがえのない存在だが、彼らを心配するということはあまりなかった気がする。
 むしろ心配されっぱなしだった。
 高山を心配する理由は何だろう。
 自分に余裕ができたから?
 違うな。
 抱えた膝の古い傷が疼いて答えを知らせる。
 痛くて疼くのではなく、走り出したいと疼く。
 あのサッカーを失いたくないからだ。
 プレッシャーに弱い高山の足が、ピッチで魔法を生み出せなくなることが怖い。
 輝きを増したパサーが操るボールに、ついていけなくなることが怖い。

 眠れない夜に降り積もった不安や寂しさを振り払うため、英介は走った。
 元気にしていますか?
 潰されていませんか?
 サッカー、楽しいですか?
 寂しくないですか?
 そんな問いに、地球の反対側で高山はきっとこう問い返す。
 お前は?
 その答えを示すため英介は駆け回り、チームのリーグ優勝に貢献した。
 置いていかれたくないと無我夢中で走り、ふと隣にいるはずの相手を見る。
 高山は、半歩後ろ。
 地球の反対側で一年を暮らし、たった一本のアシストという結果を残した。
 失意の帰国という文字がスポーツ誌の端っこに綴られた。
 結果らしい結果を残せなかった高山は、帰国して真っ先に英介に顔を見せに来た。
 練習グラウンドに現れて、悔しいと口にした。
 自分の感情を言葉にすることなど滅多にない男が、顔を歪ませて自分に腹の底をさらしてみせた。
 俺が生かしてやると英介は宣言し、高山の部屋の鍵を返した。
 主人不在の部屋が埋まった。
 精神的には隣、実際のピッチの上では自分の後ろ。
 戻ってきた同期のチームメイトは、数字で表せる結果以外のものをたっぷりと持ち帰っていた。
 厚みを増した体はディフェンスに囲まれてもボールをキープし、無理な体勢からも的確なパスを出せるようになっていた。
 ボールを受けてからの判断も早い。
 高山は一アシストという言葉に捕らわれて自覚がないようだったが、サッカー王国で培われたものは確かにあって、それに圧倒されそうにもなった。
 けれど高山が帰国してからの戦績は上々。
 つまりは高山が無自覚に得てきたものに引けをとらないだけの力を、英介もこの国のリーグで得ていたということ。
 二人そろって初めて、自分達の立ち位置を確認できた。
 自分達がどこまで走ってくることができていたのか。
 どれほどの速度で走ってきたのか。
 今の自分達の力を、確かめる。

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