「あ、逢沢瑠璃子だ」
「英介、逢沢瑠璃子好きなの?」
食堂のテレビに映るCMに反応した英介に、寺井が尋ねた。
着物姿で日本酒を口に含み、ほうっと息をつく女性を指差しながら。
「美人じゃないですか。母親世代だけど、すげぇ若く見えるし」
「癒し系ですよねー」
話題のベテラン女優はぽってりとした口唇と、大人の女の魅力溢れる流し目で人気がある。
「かっこよくて、綺麗」
「へぇ、英介もそういうこと思うんだ?」
「どういう意味っすか。マジ怒りますよ。それ」
英介の正面に座っている高山の首に腕を回しながら、昴が絡んできた。
昨日でリーグ戦は終了。
神戸は思った結果を出せなかったが、終わったことは仕方ない。
派手な宴会はできないが、とりあえず今日は寮生で飲もうと言う話になって、地味に寮内で宴会中だ。
「タカはどうよ?」
「俺はどーでも」
「あ、そうなの? まぁ、お前のタイプは英介だもんなぁ」
「スバルさん、マジで酔ってるし! もー、富永さーん、どうにかしてくださいよ!」
後輩から助け舟を出された富永は、背中を向けたままヒラヒラと手を振っただけ。
どうやら、最近連載を受け持った新聞の記事がまだ書けていないらしい。
日本のサッカー文化についてだとか国際交流がどうのとか。
飲ませ魔が今日は奇跡的に素面でいるため、宴会ものんびりムードだ。
「〆切、明日らしいぜ」
ケケケケケと昴は笑う。
サッカー馬鹿のくせに、サッカー以上に難しい仕事なんてするからだと言う。
「えっちゃんも裏ないけど、スバルさんもないっすねぇ」
「ないねぇ」
「でもサッカーになったら、英介多少腹黒くはなるよな」
昴の手から缶ビールを取り上げたのは、今年完全移籍した山本だった。
去年までは山形のボランチをしていて、英介とは何度も対戦している。
「潰したら怒るからな。俺なんてイエロー貰ってまで潰したら、ペナん中で倒れるからな。ちょっとつついただけなのにPK献上。こいつ笑いやがるの」
「そうそう、こいつファウルとれたら笑うな」
「その笑いがめっちゃむかつくんだって! ニヤリって感じの」
時々中継でも映される、英介の笑みは確かに味方から見ても不敵だ。
「潰したときに睨んでくるのもなぁ。迫力あるんだよ」
「普段はこの顔なのにな」
この顔、と言いながら山本が片手で英介の顎を掴んだ。
「うー、掴まないでくださいよ!」
「顎、ちーせぇー」
顔を背けようとするのに、山本の大きな手がしつこく離さない。
「がー、あー、うー」
「あはは、おもしれぇ」
「山本さん」
山本の悪戯を止めたのは、プレー中の英介の睨みよりも迫力のある高山の呼びかけ一つだった。
ぱっと手を離すと、山本は、
「ゴメン」
あっさり謝る。
「タカはもうちょっと広い心をもてよ」
機嫌を損ねた高山の肩をぽんと叩く酔っ払いの言葉に、高山も苦笑を浮かべた。
「スバルさん、もう寝た方がいいっすよ」
「にゃにお言ってるんだ! 夜はこれからだぞー!」
「スバル、うるせぇんだよ!」
「カリカリすんな、馬鹿野郎〜。大人になれー」
「高山、山本! お前らその馬鹿部屋に連れて行け!」
「やだ! 一人淋しくなんて飲めるか!」
本格的に酔いの回ってきた昴の声に、富永が怒鳴る。
かなりカリカリされている模様なので、
「……暴君」
「自分の部屋でやりゃいいのに」
高山と山本はぼやきながらも席を立ち、昴の両脇をがっちり固定した。
「いーやーだー!」
悲痛な叫びを残しながら、昴はズルズルと引き摺られていった。
残すは天皇杯。
頭を切り替えるための宴会は、夜遅くまで続いた。
「えっちゃ〜ん」
神戸のホームスタジアムの待機所には、神戸レインボーチャーサーと大阪ライジングチェアフルの2チームの選手が、体を揺すりながら入場の時間を待っていた。
その中に響いた呑気な声に、両イレブンだけではなくスタッフまでもが振り向いた。
声をかけたのは大阪RCのユニフォームを着た水内純平。
背番号十二を背負う一九二センチの超大型ゴールキーパーが呼んだのは、神戸RCの九番を背負う小柄なフォワード。
「んだよ、純平」
普段は天真爛漫で明るい英介も、試合前の闘争本能をバチバチ言わせている状態では呑気に呼ばれても剣呑な返事しかできない。
「久しぶりやね〜。相変わらずかわえぇわぁ〜」
選手としては小柄な方の英介だが、その英介が選手の中でも超大型の純平に懐かれていると更に小柄に見えてしまう。
純平は遠慮なく英介の背中に張り付くようにして、アップで流した汗で濡れている髪の毛をくしゃくしゃと掻き乱す。
「今日は一点も入れさせへんで」
「うっせぇよ。ぶち込んでやるから覚悟しとけ」
「痺れる口説き文句〜。どっちかっつーと俺がぶち込みたい感じ?」
ぎょっとするような巨体だが、純平の愛嬌あるキャラクターは憎めないと評判だ。
場を盛り上げるのは得意で、落され役も買って出るあたり根っからの関西人を自負するだけのことはある。
彼ほどヒーローインタビューに登場するGKもいないだろう。
そして英介に対する熱烈なアタックは、関係者の間では有名でもある。
本気なのか冗談なのかわからないという点でも論議を呼んでいる。
「水内、てめぇ、いいかげんにしねぇと試合前に怪我するぞ」
ペタペタと遠慮なく英介の体を触っていた純平から英介を奪い取ったのは、高山浩二。
寡黙だと称される高山にしては珍しい喧嘩口調も毎度のことなので、他の選手は気にしない。
神戸RCと大阪RCのRC対決では、ほぼ毎回見られる光景だ。
極一部だけ、無闇にボルテージが上がっている。
「なんやねん、自分鬱陶しいなぁ。試合前のスキンシップや。あっち行っとれ」
「うちのストライカーは精神統一中なんだよ、邪魔すんな」
「お前こそ邪魔やろ。四六時中でかいのが一緒におるんやで」
「お前にでかいとか言われたくねぇんだよ、木偶の棒」
一触即発の空気を醸し出した二人を止めるのは、
「えぇかげんにせぇよ、純平」
「いいかげんにしとけ、タカ」
両チームのキャプテンと、
「うっせんだよ、二人とも」
ぴりぴりしている英介の三者三人の声だった。
RC対決では、高山がやたら積極的にゴールを狙うことでも注目のカードだった。
生まれてこの方ゴールキーパー以外のポジションを経験したことがないという一九二センチは伊達なわけがなく、純平がゴール前に立つとそれだけでピッチの景色が違った。
でかいだけではなく、洞察力が優れているのも純平の特徴だ。
高山の絶妙のカーブを描くセットプレーも、英介のディフェンダーの間から飛び出してくるスピードにのったプレーも、ディフェンスラインからのサイドアタックも読み切ってゴールを守る。
鉄壁のセーブを前に、神戸RCは無得点で敗戦となった。
天皇杯の4回戦敗退で、神戸RCのシーズンは幕を閉じた。
Jリーグは天皇杯敗退からシーズンオフへと突入する。
勝ち進めばそれだけオフが遠のくのだが、敗退すればタイトルを逃す。
正月を迎える前にオフに突入するのは複雑な心境だ。
インターバルに突入して、ストライカーは闘争本能を休めてゴロゴロしている。
高山の部屋のベッドの上で。
耳元の携帯電話が鳴り出しても起きない。
眠り込んではいないのだろうが、まどろみの中にいるらしい。
「エースケ、電話」
「……ん。とって」
「俺が?」
「……ぅん」
英介はますます体を丸めて、ゴロゴロしている。
携帯のディスプレイに表示された相手の名前を見て、高山は躊躇を捨て迷わず電話をとった。
『えっちゃ〜ん。今、何してんの?』
「寝てる。俺の部屋で」
『なんでえっちゃんの携帯にお前が出るんやっ? 人の携帯勝手弄ったら犯罪やねんで!』
耳に当てなくてもよく聞える純平の声が、高山の眉間にざっくりと皺を刻ませた。
「英介が出ろっつったんだよ」
『なにぃっ? 俺はえっちゃんの声が聞きたいんや!』
「寝てるっつったろうが」
見えない相手に誇示するように、高山は英介の頭を撫でる。
『お前、寝てるえっちゃんにちょっかい出してるやろ! その手を止めぇ!』
なかなか鋭い。
舌打ちしていると、英介の手が髪の毛を弄っている高山の手を引き、電話を取り上げる。
まだ目は起きてはいないが、相手が純平だとはわかったのだろう。
普段、そんなに怒りを露わにしない高山のピリピリした空気を感じたのかもしれない。
「純平? なに?」
おぼつかない声を聞くなり、純平の声が猫撫で声に変わった。
『自分、ぼちぼち帰省するんやろ。その前に遊ぼうや』
「やだ、眠い」
『ほんなら一緒に寝よ?』
「やだ、タカがいるからいい」
『……がーん。純ちゃん、ショック!』
「また遊ぼ。じゃね」
そう言うと英介は電話を切って、そのままずるずると布団に沈む。
ざまぁみろと思う反面、さすがにかわいそうかなとも思ってしまった。
シーズンオフは体を休めるものだ。
リラックスしてもらうに越したことはない。
あまりに気持ちよさそうに眠り続けるものだから、高山も邪魔できないでいた。
の、だが。
再び携帯電話が鳴る。
英介は煩そうに眉を潜めて、近くにいる高山の膝を叩く。
溜息一つで承諾して携帯を手にし、ディスプレイに表れた文字を見て凍りついた。
「……英介」
「……ん〜」
「英介っ、俺、出れねぇよ、これは」
「だれ?」
「勲さん」
兄の名前に、英介も重たい目蓋を持ち上げた。
英介の十歳年上の兄は重度のブラコンで、アホほど英介を愛しているから高山に対する風当たりは強い。
二人の仲が友達でチームメイト以上のものになってマスコミに騒がれた後、一応けじめをと言うことで英介の家に高山は挨拶に行ったことがある。
英介の両親はサッカー馬鹿な息子の色恋沙汰が例え男相手であろうがかまわないと、リベラルな思考の持ち主で、あっさりすぎるほど受け入れてくれた。
英介の一つ年下の妹の友里も、絵的に綺麗だからという理由で喜んだ。
唯一反対したのが兄の勲だったが、英介の『好きになっちゃったんだから仕方ないじゃん』発言に反論の余地を奪われてからは、ただ延々と高山を睨みつけるに終わった。
「もしもし?」
『英介? 兄ちゃんだけど、今大丈夫か?』
「ん、大丈夫。なに?」
『今年は正月には帰るんだろ? いつ頃帰るんだ? 兄ちゃんが送ってやる。一緒に帰ろう』
スーツ姿の彼はいかにも仕事ができそうで、エリートの匂いがする。
二枚目だが遊んでいそうな空気はなく、誠実さが滲み出ている。
彼が最も誠実なのは顧客でも会社でもなく、弟にだが。
「年越しは実家でしようかなって思ってるから、兄ちゃんに任せる」
『そっか。去年は淋しかったからな。今年は楽しい正月になるなぁ』
「俺ら負けたんだから、あんまり楽しくない」
『あぁ、わりぃ。じゃあ、明日迎えに行くぞ』
「明日っ? 早すぎねぇ? って言うか、兄ちゃん、もう休み?」
『有給使った。だって正月じゃないとお前と会えないじゃないか』
「……はぁ」
『じゃあ、明日、寮まで迎えに行くからな〜』
上機嫌な声は高山の耳にも届いている。
今、隣に自分がいることを知ったら、とたんに不機嫌になるんだろうなと思っていると、
「あ、タカも一緒に帰ろう?」
言っちゃった。
『あ?』
既に声が違う。
「どうせ帰る県一緒だし。車で帰る?」
「いや、そもそも帰省するかどうかも決めてないし」
「いいじゃん。帰ろうよ。おじさん、一人で年越しなんて淋しいって」
高山の家は父との二人暮らしで、高山が虹明寮に入寮してから父親は生まれた町に戻り、一人暮らしをしている。
『エースケ』
いろんなニュアンスを含めた呼びかけは、ちょっと待ってとの一声で黙殺される。
確かに実家は近いから不都合はないのだが。
「わりぃ、俺年末は親戚の人と会う約束してるから。勲さんを喜ばせてやって」
英介は残念そうな顔を見せたが、そっかと頷き勲に告げる。
電話の向こうでは本当に嬉しそうな勲の声。
英介は呆れながら相手をして、早々に電話を切った。
また携帯電話を枕元に放り投げて、横になる。
けれど目は閉じられず、高山を見上げていた。
「なに?」
「帰省、しないん?」
手がシャツを掴む。
「しよ?」
「帰省?」
「そうしたらあっちで遊べるし、初蹴りできる」
「考えとく」
英介はちょっと淋しそうな顔をして、ごろりと寝返って背を向けた。
英介は毎年必ず帰省しているし、試合にもよく家族がやって来る。
本当に愛されているよなと思う。
子供の頃からサッカー漬けだった英介は、何一つ我侭らしい我侭を言わなかったと、英介似の母親が淋しそうに言っていた。
サッカーを何よりも優先させること。
それが英介の最大の我侭だった。
水内純平なんかよりも、家族よりももっと強く深く英介を愛したいと、その話を聞いて思ったのだ。
高山も横になって、目の前にあるチョコレート色の後頭部を見る。
染めていない柔らかな髪の毛を指に絡めた。
現われた形のいい耳をそっと撫でる。
その耳のすぐ下に、昨日残したキスマークを見つけた。
「……」
明日、兄貴と会うならヤバイかもしれない。
でも消えないだろうなぁ。
また悪い印象を与えてしまう。
何せあの兄は、中学生だった英介に初めてラブレターが送られてきたと知って悶々と悩んだ末、弟に夜這いをかけたことがあるくらいだ。
他にも笑えない兄弟愛のエピソードがある。
英介のファーストキスは両親よりも先に兄が奪っただとか、ホラーが嫌いな英介にわざと怖い話を聞かせて添い寝をしたり、高校になった英介と一緒に風呂に入りたがって水をかけられ三日寝込んだとか。
いくら年の離れた兄弟だからと言って、それはちょっと過激すぎやしないだろうかと思うが止められるわけもなく。
そろそろ勲にも遠慮しないで、俺のなんですと主張しなければいけないのかもしれない。
今のところ、最大の敵は熱烈なファンでも純平でもなく、英介の実兄だ。
丸まった背中を胸に抱えるようにして、力を入れて抱き寄せると猫が背伸びをするように伸びて寝返る。
ぐっと頭上に伸びた手が、ぐるりと高山の首を抱いて顎の裏をぺろりと舐めた。
「……っ」
思いも寄らない刺激に体が跳ねた。
「英介っ?」
「目ぇ覚めた」
顔を上げると悪戯が成功した子供のような目をしている。
にっと笑うと体を起こして高山の上に圧し掛かってくる。
「なに?」
「ヤりおさめ」
「は?」
「今年最後のセックス、しよ」
昨日の今日だろ、と言いかけてやめた。
せっかくのオフ。
灯った炎を自ら吹き消すことはない。
オムニバスでずっと書いてきたこのシリーズですが、一つくらいは長編をと思って。
まずはラブいプロローグから〜。