寒さは厳しいが、綺麗に晴れ渡った大掃除日和。
師走とはほど遠いのんびりとした空気に包まれた虹明寮の玄関先で、英介は陽光を浴びて口笛を吹いていた。
「お? 英介も今日、帰省か?」
大きな荷物を持った富永の声に振り返る。
「はい。富永さん、荷物多くないですか?」
「今日はこのまま長野行き」
嬉しそうにスポーツバッグを抱えなおした。
手にはスーツケースもある。
「長野?」
「そのあとノルウェーの家で雑煮作るんだ」
「ノルウェー? 彼女ですか?」
「そ。遠征とかあるから、応援とお手伝い」
彼にしては珍しいほど嬉しさを滲ませている。
「鼻の下、べろんべろんに伸びてます」
富永の婚約者は、ノルウェーのモーグル選手。
テレビでその姿を見る富永の目は真っ直ぐだ。
誇らしげで、熱い。
拳を固めて、技が決まる度によしっ、と口にする。
表彰台の天辺に立つ彼女を見ると、笑いが止まらないらしくニヤニヤしている。
電話では胸焼けしそうな愛の言葉を囁いて、電話を切ると淋しそうな顔をする。
それは彼女に関するときだけ。
富永真吾のイメージをぶち壊すほど特別な顔。
「お前、タカと一緒じゃないのか?」
「帰省しないみたいです」
「ふぅん。まぁ、たまには親孝行してこい」
「はぁい」
「じゃあな。良いお年を」
「富永さんも」
片手を上げて富永は車に乗り込んだ。
富永の車と擦れ違いで、シルバーの国産車が寮の駐車場にやって来た。
車から降りたのはスーツ姿の勲で、ニコニコと笑いながら手を振ってくる。
「エ〜スケ〜」
「なんでスーツ?」
「ちょっと朝方仕事が入ったから。ごめんな。待った?」
「別に」
「淋しかったか? ごめんな〜」
「誰もそんなこと言ってねぇって!」
大手スポーツメーカーの社員として神戸レインボーチャーサーとも関係がある勲は、仕事としてもチームを訪れることがある。
その時に話をするクラブの女性職員は英介にこう語る。
『お兄さん、素敵な方ですね。落ち着いてらして、仕事もできるし。でもそれを自慢してる風もなくって。素敵だわぁ』
そんな具合で密かにファンが多い。
英介は兄の仕事ぶりを見る機会がないから、それが本当なのかどうなのかわからない。
こんな姿を見せられてはますますわからない。
「会いたかった〜」
ただスーツの着こなしや、嫌味にならず香る香水の匂いなんかが大人の男なんだと思わせる。
汗臭く体一つで稼ぐ自分達とは違う、知的な匂いだ。
「お、英介くん、お兄さんのお迎えかい?」
寮スタッフの馬越さんが箒片手に現われて、微笑ましいという顔をする。
「あ、馬越さん、お久しぶりです。英介がいつもお世話になってます」
英介を腕にしっかり抱き締めたまま、ペコリと頭を下げる。
「兄ちゃん、苦しいんだって!」
「いいじゃないか。久々のスキンシップ〜」
「間に合ってます!」
ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回していた手が不意にぴたりと止まって、顔を覗き込んでくる。
眉間には皺。
「それは、浩二くんのスキンシップがあるからってことかな?」
「……別に、そんな意味じゃなくって。もういい大人なんだからってこと!」
「嘘つけ、こんなところにキスマーク発見! ぎゃー! 兄ちゃんは悲しい!」
「うるさいな! いいだろ、別に!」
できる男のレッテルをいとも簡単に捨ててしまって、勲は見事なブラコンっぷりを発揮する。
「年末年始と家にいるんだろ? 兄ちゃんと年越しして初詣行って、初蹴りしようなぁ」
「はいはい。もう、恥ずかしいから帰ろう」
スーツの裾を掴んで車に引っ張っていくと、嬉しそうな顔をして運転席に乗り込む。
「うっしゃ、うちまでドライブ〜。寄り道たっぷりして帰ろうなぁ」
「真っ直ぐ帰ろう」
相変わらずの一方通行な兄弟愛を乗せた車は、安全運転で虹明寮を後にした。
車が高速に乗る。
「スムーズに帰れるとは思うんだけどな」
ハンドルをしっかり握ったまま、勲はちらりと横目で助手席を見る。
窓の外を見ている英介の横顔を。
防音壁が続くこのエリアでは、車窓の風景なんて眺めても面白くないだろうに、じっと外を見ている。
「浮かない顔してるな」
「別に」
「別に?」
「だって、天皇杯負けたし、リーグも駄目だったし」
「そうか」
「うん」
トップに入れっぱなしのギアから手を離し、英介の頭を撫でた。
車内では嫌がる素振りは全く見せずに、大人しくされるがままになっている。
小さな音量で点けっぱなしにしているラジオからは、癒し系としてヒットしたピアノ音楽。
プロになって、サッカーを仕事にした英介は確かに大人になった。
収入だって、兄である自分を大きく上回る。
神戸レインボーチャーサーと言う、言わば一つの会社の中の英介は、遠い存在。
汗だくで年上のチームメイトにもゲキを飛ばしている姿はかっこよく、時にニヤリと不敵に笑う顔は獲物を目の前にした肉食獣の顔。
だけど、勲にとってみれば何時まで経っても可愛い弟だ。
浮かない顔は、戦績のせいじゃないことくらいはわかる。
「浩二くんは、帰ってくるのか?」
シフトレバーに手を戻して、ゆっくりとシフトダウンする。
言葉に詰まった英介が何かを隠そうと身じろぐのに気が付かないふりをして、サービスエリアに車を進めた。
「実家、帰らないかもって」
「そうか」
「休憩するの?」
「家にお土産。ココ、南京町の中華まん売ってるんだって」
そう言って売店で買い物をしている間、英介は自動販売機でコーヒーを二つ買う。
相変わらず浮かない顔の英介は、
「あの」
と声をかけられる。
「神戸の江口選手ですよね?」
小学生くらいの少年をつれた母親が、オフなのにごめんなさいと申し訳なさそうにして頭を下げた。
戻ってくる、江口英介の笑顔。
いつも応援してますと言う母親。
僕もサッカーしてるんだ、江口選手みたいになりたいんだと言う子供。
「ありがとう」
子供の頭をくしゃりと撫でて、差し出されたペンと帽子を受け取ってサラサラとサインを書いた。
写真も快く引き受ける。
母親の向けるカメラに向かって、少年といい笑顔を見せた。
親子と別れてから勲の姿を探す。
手を上げてやると、安心したような顔をして早足でやって来た。
「人気者だな」
照れるのか、軽く勲を睨みつけて車に乗り込んだ。
ほんの少し妬けるけど。
そんなことを思いながら、勲も運転席に戻った。
両手でカフェオレの缶を包んで、ゆっくりと口にする。
ほうっと息をつく仕草をじっとみていたら、視線に気付かれた。
「なに?」
「嬉しそうな顔してるから」
にっと笑ってやると、堪えきれなくなったようにくしゃっと笑った。
プライベートの時間に声をかけられても困った顔一つしない。
自分が好きでたまらなくてやっているサッカーが、他の人の気持ちにも火をつける。
好きだと言ってもらえる。
それがたまらないと、英介ははにかみながら言う。
沈んだ気分は少し浮上したらしい。
ラジオから流れた曲にあわせて、鼻歌を歌い始めた。
いつもと違う朝の音が、英介の意識を覚醒させていく。
家の前の道を行き交う車のエンジン音、電線に止まり囀る鳥の声、母親の賑やかな声とその母によく似た妹の会話。
がりがりとドアを引っ掻く音は愛犬のリベロが起こしに来た音だ。
そして、すぐ近くでは自分のものとは違う鼓動と呼吸……。
「……?」
おかしい、と英介は目を開けた。
そして自分の体が自由にならないことに気が付く。
背後からしっかりと抱き締められている。
「……」
その腕を引き剥がそうとすると、
「ん? なんだ、英介起きたのか。オハヨ」
なんて満面の笑みを向けてきた。
「おはよーのチュウ」
ガッタン、バッタンと二階で起こる物音を、階下の人間はのんびりと聞いていた。
「なんだか懐かしいねぇ」
「ほんとねぇ」
「成長してないね」
のんびりと朝食の準備をすすめながら、江口夫婦と友里は耳を澄ませた。
ドタドタと階段を下りてくる音が近付き江口家の次男坊が顔を出し、
「もう、あの馬鹿兄貴!」
と怒るのだ。
おはよう、の挨拶も忘れずに。
「やっぱり俺、居間で寝ればよかった」
英介と勲の部屋は同じ部屋で、ずっと二段ベッドを使っていた。
勲は社会人になって収入が安定しても家を出ようとしなかったし、思春期になっても幾つになっても一人部屋がいいとも一人暮らしをしたいとも言わなかった。
普通の兄弟よりは長く使用されていた二段ベッドは、さすがにもう使えないと捨ててしまった。
昨日は兄弟で布団を並べて眠ったわけだが、朝起きてみると勲が英介の布団に入り込んで眠っていた。
「チュウされたの?」
「された! ムカツク!」
「相変わらずだねぇ。あの人も」
食卓について、カフェオレを一口。
「本気で蹴っちゃったかもしんない」
やっと落ち着いたのか、ぽそりと申し訳なさそうに言った。
「どっちの足だ?」
「……右」
黄金の右足だ。
「暫らくは起きてこないかもな」
父親は二階へちらりと目をやってから、再び新聞へと戻した。
朝食を終えて縁側でのんびりと爪を切っていると、父親が座布団を丸めて転がった。
分厚いハードカバーを読み始める。
「父さん」
「ん?」
「髭、似合うね」
「そうか」
父親は、最近髭を伸ばし始めたらしい。
帰ったら誉めてやってと友里が言っていたから実行すると、大きな反応はないけれど嬉しそうにフフフと笑って本をニコニコと読んでいる。
これを勲に言おうものなら大騒ぎになる。
似てない父子だと思う。
たぶん、自分が一番似てないんだろうけど。
考えてみればこの家族でスポーツをやるのは自分しかいない。
元々文学一家だったのだ。
鳶が鷹を産んだと、親戚からはよく言われている。
「父さん」
「ん?」
「タカのお父さんと釣り、行ってるの?」
「ショウちゃんか? 一緒に行ってるよ」
「ショウちゃん……」
「もうショウちゃん、やっちゃんの間だぞ」
高山と英介の付き合いから始まった、父親同士の友情は深いらしい。
同い年で、釣りが趣味。
気が合う要素はいっぱいあった。
「タカが帰らなくても淋しくないのかな?」
「どうかなぁ。ずっと父子二人暮らしだっただろう? お互い好きにやるのが楽なんだって言ってたよ。親子って言うよりは友達みたいなんだって」
「ふぅん」
「時々電話をくれるので充分だって。それに、浩二くんには英介がいるって知ってるからねぇ」
パチン、と爪を切っていた英介の頬が赤くなる。
公認されているのはいいけれど、こうして口にされると恥ずかしい。
実は帰省しないと言う高山の言葉を聞いて、余計な想像を膨らましてしまっていた。
あまり家族のことを話さない高山だから、実はあまり仲がよくないのかとか。
高山の父には何度も会ったが、どうも親子の会話があっさりしているようで。
考えてみれば自分の家が異常なのだ。
あの兄もいるわけだし。
「ショウちゃん、恋人いるみたいでねぇ」
「え? そうなの?」
「浩二くんも立派になったしねぇ」
「ふぅん」
相槌を打って、英介は再び爪を切る。
母親と友里は買出しに出かけ、勲はまだ起きてこない。
リベロはのんびりと食事を終えて、英介の隣に座り込んだ。
いつも賑やかな家が、少しだけ静かになる。
「父さん」
「ん?」
「俺ってさ」
「うん」
「大人になってる?」
本から目を離して、自分をじっと見てくる視線。
言うんじゃなかったと思ったりしながら、英介は爪を切る。
「なってなかったら、君みたいな子をうちから出しません」
「……どういう意味?」
「可愛くて無邪気で人懐っこくて、これで子供のままだったら心配で心配で、他所へなんかやれませんって意味」
「……なんか兄ちゃんみたいなこと言ってるよ?」
「いつもは勲が僕の言いたいことを言っちゃうからね」
ページに栞を挟んで起き上がると、英介の手から爪切りを受け取り、胡座をかいた足に英介の足を乗せて爪を切っていく。
「大人になったから、神戸へやったんだよ。英介が自分の手で、足で、生きる場所を見つけたからね」
優しい声。
いつのまにかロマンスグレーになりつつある頭が目の前にある。
パチンパチンと丁寧に爪が切られていく音だけが暫らく続いた。
「……俺」
「うん」
「人より成長、遅いのかな」
「かもねぇ。背の順で並ぶときは一番前だったね。確かにちょっと幼いところはあるけれど、急いで大きくなったっていいことはないよ。英介のペースで、ちょっとずつ歩きなさい」
綺麗にヤスリもかけられて、はい終わりと足の甲をペタンと叩かれる。
プロになってから、やっとわかった。
家族の大切さや、この家があることの安心感。
英介ははにかみながら、リベロの頭を撫でている。
「浩二くんと、何かあった?」
自分の爪を切りながら、さり気無く話題を振られる。
「なんで?」
「なぁんかねぇ、様子がおかしいんだよね」
「俺?」
「君以外に誰がいるの。心ここにあらずだよ。サッカーのこと考えてる顔じゃないね」
ふいっと、英介は視線をそらす。
「別に」
「ん?」
「別に、何かあったわけじゃないよ。ただ、何か……」
「なにか?」
「本当に、何でもないんだけど、喧嘩もしてないんだけど……」
漠然とした悩み事は珍しい。
英介は困ったように胸のあたりをさすって、
「たぶん、あんまりいいシーズンにならなかったから、変なこと考えるんだよ」
その違和感を誤魔化すように笑って見せた。
英介がリードを持つと、普段はおっとりと動くリベロが珍しくはしゃいだ様子を見せた。
「リベロ、大人しくしろよなー。リード、つけらんねぇじゃん。ちょっとー」
「久しぶりに英介と散歩ができるって、わかってるんだろうな」
英介はリベロにリードをつけ、昼過ぎてからようやく起き出してた勲は英介にマフラーを巻く。
「行ってきまーす」
「はーい、いっておいでー」
見送られ、英介と勲は日が落ちきる前に散歩に出かけた。
さすがに冷え込む年の暮れ。
吐き出す息は白くなった。
「リベロ、早いって」
英介を引き摺るようにして、リベロはいつもの散歩コースを邁進する。
英介が散歩を担当していた時には河原に辿り着くと思う存分走れたから、それを目指しているのだろう。
どちらが早く走れるか、本気で競争していた頃があった。
「リベロも歳とったからな。昔ほど走れないから、手加減してやれよ」
リードを外した勲は、先にゴールラインになる橋桁の下に向かう。
「リベロ、ゴー!」
英介が走り出し、リベロも同時に走り出す。
白いスニーカーが力強く地面を蹴り、長いリーチの足が風を切り前へ前へと踏み出される。
あっと言う間にトップスピード。
体全体をバネにするリベロの走りにも似た、疾走。
「チーターみてぇだな」
我が弟ながら、と勲は片頬で笑う。
一度は、その足で歩くことすら怖いと泣いた。
大丈夫だと無理にベッドから引き摺り下ろそうとした時もあった。
その時の悲鳴は未だに勲の耳にこびり付いている。
だから、今、英介が走りながら浮かべる笑顔が眩しすぎて、泣きそうになる。
先に勲の元に駆けつけたのは英介で、少し遅れてリベロがゴールする。
「もうおじいちゃんだな、リベロも」
ほんの少し淋しそうに、英介はリベロの体を撫で回す。
「お前が早くなりすぎたんだ」
「ボールが前にあったらもっと早く走れるんだけどね」
「言うねぇ」
「来年はもっとパスとかさ、チャンスを作れるようにならないと駄目かなぁって」
「そうか」
「うん」
ほんの少し上気した頬を冷たくなった手で包んでやると、英介は気持ちよさそうに目を細めた。
こういう顔は高山浩二にだけ見せてやればいいのにと、心から二人の仲を応援していないのに思ってしまうほど英介の表情は無防備だ。
どこか子供返りしたような言動や表情は、英介が久々の帰省とオフでリラックスしている証拠だろう。
いいことだと、勲は微笑む。
今のうちにゆっくりと羽を休めて欲しい。
そんな勲の思いと安息の時は、
「あのー、神戸の江口選手ですよね?」
その声から奪われた。
江口父再び登場。
息子のことを「君」って呼ぶお父さんがいいなぁと思って。なんか、こういう森本レオが演じてそうな(あくまで演じて(笑))父親像ばかり書いている気がする。実は文学一家な江口家の人々。きっと英介は「僕は橋の下で拾われた子なんだ!」って一時期は思っていたでしょう。次からじわじわ話しが動く、カモ。