サンクスラン (前)


 その試合には、チームの未来がかかっていた。
 その年、神戸レインボーチャーサーはJ2に顔を出してから初めて昇格争いに参戦した。
 チームの調子はよく、シーズン後半にどんどんと順位を上げてきた。
 試合にはサポーターも多く詰め掛け、それまで脚光を浴びることのなかったチームだったが、瞬く間に台頭を遂げた。
 昇格の枠残り一つ。
 それに入り込む可能性の高いチームとして、神戸RCはそのシーズン最後のゲームに挑んだ。
 勝てば昇格。
 引き分け、敗退は昇格が叶わない。
 そんな試合だった。
 胸が震える試合がある。
 体が震える試合がある。
 しかし、それは興奮や感動や悔しさによって震えるのであって、決して恐怖なんかじゃない。
 神戸RCが最初に昇格に手を伸ばした時代、あのゲーム。
 選手は恐怖に体を震わせ、その震える指の間から勝利を、昇格という希望を取り零した。
 相手チームのクロスボールを、フォワードと神戸RCのディフェンス、それにキーパーが団子になって追った。
 四人の脚がピッチを蹴り、それぞれの体が宙に浮く。
 空中でぶつかりあった体はバランスを崩し、中でも一番長身のフォワードのヘッドに当たって、高く宙に舞い上がった。
 先に着地したのはボールに触れた選手に肩を押される形になったディフェンダーだった。バランスを崩したまま着地し、脚を投げ出す形で落ちた。
 その上に、ボディ・バランスの良さが評価される日本人選手とブラジル出身の大型フォワードが落ちてくる。
 一人のスパイクはディフェンダーの脛に落ちた。
 枝が折れるような、不気味な音を彼らも聞いただろう。
 最後に瞳孔を開いたディフェンダーの上に最後に圧し掛かったのは、味方ゴールキーパーだった。
「カオル!」
 チームメイトの声が彼の名を呼んだ。
 ディフェンダーは思った。
 それは信頼を込めて呼ばれる、ゴールを守れと訴える声なのだと。
 守らなければ。
 ボールを視界に捜した。
 見つけた。
 上空だ。
 彼は立ち上がろうとして、体がそうはならないことに気が付く。
 腕を伸ばした。
 体を引き摺った。
 誰もがゲームを止めたピッチの上でボールに追い縋り、落下してきたボールをヘディングでクリアしたのは矢良薫だった。
 ボールはタッチラインをわった。
 それを見届けて初めて矢良は気が付いた。
 J2とは思えない人数のサポーターを迎えたスタジアムは静まり返り、選手の足は敵も味方もまるで凍りついたように止まっていることに。
 審判までもが呆然と立ち尽くし、のろのろとした仕草でホイッスルを口にして力なく吹いた。
 それを合図に、止まっていたスタジアムが動き出した。
「矢良!」
「薫、動くな。ドクター早くっ!」
 顔色を変えたチームメイトが駆け寄ってくる。
「おい、イチ? ……俺……」
「いい。いいから、見るなっ」
 チームメイトの市井が、強引に矢良の上半身をピッチに寝かそうとする。
 何を見るなと言うんだと、極自然な動きで自分の脚を見た。
 神戸RCのユニフォームは白。
 その白が、何故か赤。
 あぁ、今のヘディングは。
「ラストディフェンス、かな」
 驚くほど落ち着いてそう笑った矢良を見た市井の体は震えていた。
 確かに今は寒さの厳しくなってきた季節。
 だけど市井は前線で走りまわっていたから、寒いはずがないのに。
 担架に乗せられ、ピッチの外に運ばれながら矢良は気が付いた。
 今フィールドにいる人間全てが震えている。
 血まみれの、自分の脚を見て。
 なんとなくぼんやりとしてきた頭で、矢良は最後のピッチで思った。
「悪いことしたな」
 ラストディフェンス、ラストゲーム。
 そして、矢良薫の登録は抹消され、左足を失った。
 サンクスランもないままに、俊足のディフェンダーは姿を消した。


 それから十五年後。
「ドクター!」
 紅白戦が繰り広げられていた神戸レインボーチャーサーの練習グランドに、矢良薫を呼ぶ声が上がった。
 ベンチで観戦していた矢良は徐に立ち上がると、自分を呼んだ選手達に向かって手招きしてみせた。
「神尾だろう。脱臼か?」
 やや大きめの声を出して問えば、肯定する声が返ってくる。
 傍らに立っている監督は他のキーパーにアップを命じる。
 キーパー不在で紅白戦は一時中断となり、選手は水分補給を始めた。
 神尾は一人で歩いて矢良の元まで来ると、悔しそうに左肩ですと言った。
 水分補給をしている選手も、神戸RCの正ゴールキーパー・神尾の負傷を心配そうに眺めている。
「いきますか?」
 矢良は神尾の肩に触れると思わせぶりに言った。
 神尾も苦い顔をして、不承不承頷いた。
「いってください」
 周囲も思った。
「い……いくのかな?」
「そりゃ、いくだろう」
 監督も思った。
 そして耳を塞ぐ。
 数秒後、神尾の深呼吸に合わせるようにして矢良は、掴んだ神尾の腕を思い押した。
 ぐっと言う押し殺された悲鳴は神尾の意地も虚しく、次の瞬間には絶叫となってグランドに響き渡った。
「ホラ入った。次の試合はダメだな。ドクターストップ。オーケー?」
 ホラじゃねぇよと思いつつ、神尾はこれまた不承不承頷いた。
「ガキじゃねぇんだ。返事をしろ」
 怒っているわけではない。
 性根の悪さと口の悪さが矢良の性分なのだ。
 脱臼癖のある神尾はしょっちゅう矢良の世話になり、そのへんのことはわかっているから、
「……はい」
 素直にいい子に返事をした。
 やり取りを聞いていた監督は、アップを終えた控えのキーパーを神尾と交代させる。
 そして紅白戦再開となった。
「終盤までには間に合うだろう。焦らずに治せよ。この先も付き合っていく癖なんだからな。抗うんじゃない、受け入れられるようになれ」
 ベンチに座って脚を組み、視線を再びグランドに投じながら矢良は淡々とした口調で言った。
 矢良はいつも素っ気無く、どこか横暴で粗野だが選手にはよく好かれている。
 長くこのチームのドクターをしているせいか、長兄的立場で監督にも信頼を得ている。
「スバル、あがれー!」
 激しく声を上げながらピッチを駆け回る選手達をじっと見つめる矢良の目は、今はボールに追い縋ることができなかった神戸RCのストライカーに向けられていた。
 そしてもう一対の双眸が、スローインされたボールを受けたストライカーの姿に厳しい視線を注いでいた。
 神戸RCの古参、富永真吾だった。
 矢良と富永の視線の先、片岡昴は膝に手をつき額を暫らく押さえる仕草をしてから再び走り出した。
 ここのところ、動きにきれがない。
 普段の彼の様子は至って普通。
 変わらず明るく煩いのだが、ミニゲームだけでなくアップの時点で誰よりも早く息を切らすことが多くなった。
 スタミナはある方だが、これは異常だ。
 本人は何も言わないが、昴の体調は明らかに異常を訴えているはずだった。
 矢良もここ数日、昴の様子を注意深く見てきた。
 昴が隠す変調を。
「ほほう」
 楽しそうに目を細め、顎をさする矢良の低い笑い声を間近で聞いた神尾は、恐怖のために蒼白でそこに固まっていたとか。


「おーつかれーしたー」
 いつもは練習場まで押しかけてくるファンの相手を遅くまでする昴が、ここ数日その余裕を見せない。
 足早にクラブハウスの中に逃げ帰り、シャワー室に向かいながらスタッフ達に声をかける。
 頭からタオルをかぶり、ジャージを脱ぎながら歩いている昴は俯いていて、ひょいっと出された矢良の脚に気がつかず見事に転倒した。
「うおっ?」
 べしゃり、とまるで車にひかれた蛙のような体勢で廊下と熱烈なキスを交わしている昴を、スタッフやチームメイトが驚いた表情で見下ろした。
「何すんだよ!」
 殴打した鼻を押さえながらの鼻声で噛み付かれ、矢良は口角を持ち上げて笑った。
 昴も相手が矢良とわかった途端に、しまったという表情になる。
 矢良は優秀なチームドクターだ。
 練習や試合を見つめる視線は繊細で、どんな些細な変調も見逃さない。
 選手が自分で判断して、大丈夫だと思っている不調でも矢良は捕まえて白状させるのだ。
 矢良につかまって白状させられた選手は皆一様に、まるで犯罪者の気分だと感想を零している。
「シャワー浴びてすっきりしたら、お茶でもどうかな?」
 矢良の笑顔ほど怖いものはない。
 薫ちゃんの満面の笑みを見た時は、素直に従うべし。
 神戸RCの不文律である。
 シャワーを浴びて、すっきりしようにもできない状態で昴はシャワー室の正面、壁にもたれて自分を待っていた矢良に強張った笑みを向けた。
「……お待たせしました……」
「待たされました。じゃあ、行こうか」
 がしっと私服の襟元を掴むと、まるで犬の散歩のように歩き出した。
「よう、真吾。弟ちょっと借りるぞ」
 廊下で富永と擦れ違った。
 今日は彼の中で設定されている週に一回のファン感謝デーだったらしく、引き上げてくるのが遅かった。
「どーぞー」
「ちょぉっ、真吾! 助けろよ。俺、調子なんか悪くねぇよ!」
「はいはい。さかもとー、お前、奥さんとヒカリちゃんが来てるぞー」
「えっ、マジで! 俺、ヒカリちゃんにまだ会ったことないんですけど」
「会わんでいい」
「ロビーで待ってるぜ」
「うっしゃ、ヒカリちゃんのお婿さん候補になってこよう」
「あ、俺も行く!」
「行かんでいいっつーの」
 賑やかなシャワー室のドアは無常にもピシャリと閉ざされたのだった。


「体のきれが悪いな。重そうだ。すぐに息も切れてるし、額を押さえる癖がでてる。頭痛か?」
 立て続けの言葉には昴が首を横に振る質問は含まれていなかったから、素直に一つだけ頷いた。
「ガキじゃねぇんだ。返事しろっつーの」
「……はぁい」
 ゴツン、と鈍い音をたてて矢良の左足がテーブルの足を蹴った。
「はいっ」
 矢良の左足は義足だ。
 蹴られたらかなり痛いことを、もう多くのチームメイトが知っている。
「明日の朝一で精密検査を受けに行くからそのつもりで」
「はぁ? 精密検査? 必要ないって。薫さん。たぶん、風邪かなんかだよ」
「はぁ? 風邪ぇ? てめぇ、この俺が風邪っぴきの野郎が口つけたドリンクを他の連中に飲ませるようなドクターだと思ってんのか?」
 神戸RCの不文律その二。
 義足の威力を見せ付け始めた薫さんには反論しないこと。
「すみませんっ、すみませんったらすみませんー!」
 ある意味監督よりも怖い男が、矢良薫チームドクターである。
 平気で頭は殴るし、聞いたら三日間は立ち直れなくなるようなどきついセリフをさらりと与えてくれる。
 チームキャプテンであり、チーム一の貫禄を持つ富永真吾でさえも敵わない相手なのだ。「明日、必ず行けよ。もう連絡してあるから、行けばわかる。まっ、俺の勘じゃあ、異常はないだろうけどな」
 矢良が苦い顔をした。
「……なんなんですか?」
 面白いほど調子がよかった体が、ファーストステージが終了してセカンドステージが始まるまでのほんの僅かなインターバルの間、昴は代表合宿に参加し国際Aマッチを戦った。アウェイでの戦いのための長距離の移動とハードスケジュール。
 休む間もなくセカンドステージ突入。
 秋口から少しずつだが体調が悪くなってきた。
 自分が思い描くスピードを出すことが出来ない。
 跳躍ができない。
 スタミナが足りない。
 焦りが生まれた。
 止むことのない頭痛に襲われ始めた。
 これが今でなければ、昴は素直に矢良に変調を訴えただろう。
 だが、今はそういうわけにはいかない。
 神戸RCは例年と同じく中堅としてまずまずのスタートを切り、ファーストステージでは五位に終わった。
 ところが、セカンドステージでは第一戦から連勝し首位に踊り出た。
 J2から這い上がってきた叩き上げチームの優勝争い参戦はまさに快挙。
 観客動員数も日に日に増加し、注目を浴びた。
 今現在は、去年の優勝チームであるワイルドウィンド山形にぴたりとつけられた。
 一試合でも負けるか引き分ければ、首位の座から引き摺り下ろされる僅差だ。
 優勝争いはやはり一筋縄ではいかないのだ。
 しかし、優勝は手の届く場所にある。
 そんな大切な時だ。
 中堅と呼ばれ、やはり後一歩及ばないと言われ続けた自分達が、優勝を手に入れることができるかもしれない時期。
 チームの調子はいい。
 そんな状態を崩すわけにはいかない。

「あー、俺の勘じゃあなぁ、それは早期発見が必要で、下手をすれば選手生命に関わるってもんなんだけどな。まぁ、俺の勘だ。気にするな」
「いや、気になるし」
「そうか?」
「……」
 暫らくの沈黙を、矢良はどうしたものかと困惑した心持ちで持て余した。
 昴はこのチームのエースストライカーだ。
 今年は最多得点を記録している。
 二位を突き放しての得点王だが、明日の精密検査後の結果次第では二位が昴を超える可能性は多分にある。
 このチームの得点率も下がるだろう。
 神戸RCは、ワイルドウィンド山形のようにどのポジションからでもゴールが決められるようなチームではない。
 九割のゴールが、フォワードによるものだ。
 チームが最も頼りにするフォワードが、片岡昴。
 代表ではスーパーサブの役割を任せられているが、神戸RCでは先発出場ばかりだ。
 神戸RCがここまで勝ち昇れたのは、昴の力が大きい。
 今昴を戦線から外すことは、かなりの痛手になる。
 しかし、矢良はチームドクターだ。
「あくまで俺の勘だ。俺の勘だと……、お前は、オーバートレーニング症候群だろう」
 オーバートレーニング症候群は、過剰な練習によって引き起こされる慢性疲労の状態のことだ。
 ホルモン分泌の変化から疲労の回復が困難になり、少しの運動で息が切れたり頭痛や睡眠障害、苛々感が発生する。
 症状がすすむとうつ病や分裂病などの精神異常に至り、選手生命に関わってくる。
 軽度の場合でも約一ヶ月の完全休養が必要とされる。
 重度であれば一年間はボールに触れない。
 一ヶ月だとしても、サッカー選手が一ヶ月間ボールに触れないことは危険なことだ。
 ボールに触る感覚を失うかもしれない。
 昴の持つ鋭い嗅覚を、視線の動きを、飢餓感を。
「オーバートレーニング症候群って、大阪の森下さんがなったヤツ?」「森下? あぁ、そうだったな。一ヶ月、完全休養した。実家に帰って、温泉に入って、何もしなかったって言ってたな。今は調子を取り戻して絶好調だ」
「俺も、一ヶ月の完全休養?」
 去年、自殺点を決めてしょげていた時と同じ顔をして昴は尋ねた。
「もし、本当に俺の勘があたっていればな」
 ジャケットから煙草を取り出して矢良は銜えた。
 火は点けない。
 昴はその仕草をじっと見ながら、何か言葉を捜しているようだった。
 それを待ちながら、矢良はフィルター越しに苦い匂いだけを吸い込んだ。
「明日、病院行ってきます」
 結局昴が口にしたのはそんな言葉だけだった。
 さっきまで練習していたとは思えない蒼白の表情で、黙って席を立った。
 その背中を見送って、矢良は煙草に火を点けた。
 この喫煙行為こそが、矢良が選手でなくなった証拠だった。
 矢良が矢良に課す痛みだった。


「薫さん」
 煙草を半分ほど吸ったところで、私服に着替えた富永が顔を見せた。
 煙草を消そうとするのを富永が止めた。
「いいですよ。吸いたいんでしょう? ちょっと寒いけど、外でなら」
 さすが長い付き合い。
 富永真吾は、矢良の習性をよくわかっている。
 クラブハウスのグランドにはまだファンも残っているだろうし、練習しているチームメイトもいるだろう。
 クラブハウスの屋上に上がった。
 冷たい風が吹き付けてくる。
「あ、あれヒカリちゃんですよ。坂本の娘さん。可愛いですよね」
「あー? あぁ、美人になりそうな顔だな。坂本に似なくてよかったじゃねぇか」
 屋上からクラブハウス入口を見下ろして関係のない話を一言ずつ。
 そういう会話の流れが、富永と矢良のやり取りだった。
「で?」
「で、やっぱりオーバートレーニングですか?」
 そして、本題へ。
 矢良は風下に立ち、銜えた煙草の先をわざと上下させた。
 それが返答だった。
 昴の調子が悪いと矢良よりも先に気がついて矢良に進言したのは、富永だった。
 そうですかと言ったきり、富永は黙った。
 目が痛くなるほどの晴天と、ビュウビュウという不気味な風音にギャップがあって自分達が置かれた状況とオーバーラップする。
 富永は今シーズンのセカンドステージ、長年腕に嵌めていたキャプテンマークの腕章を手離した。
「焦るなよ、真吾」
 目を合わさずに矢良が言った。
 富永は笑った。
「焦ってませんよ。ただ、今年もあと少しだなって思っただけですよ」
 焦るなというのは、矢良の口癖だった。
 口癖だが説得力がある。
「今年は、優勝します。中堅って言われ続けてますからね。このへんで、びしっとうちの実力を思い知らせてやりますから」
「エースストライカー抜きでか?」
 からかうような矢良の言葉は挑発的だが、そんなことを富永は気にしない。
 いつものことだ。
 にっとこちらも挑戦的な笑みを浮かべる。
 ピッチの上では逆に小憎たらしくなるくらいに表情を変えないくせに。
「新加入の江口はいいですよ。昴とタイプは似てますが、スピードがある。裏を狙っていけば、昴以上のストライカーになります。それと、俺もいる」
 ピッチを降りると途端にこれだ。
 子供のように強気でいて、その自信には根拠がある。
 憎らしい奴だと矢良は声を上げて笑った。
「さぁて、どうかな? 優勝はそんなに簡単なもんじゃねぇよ。だいたい、単独首位だったのが今じゃどうだ。もう山形の台風に吹かれてる。んんー? どうしてでしょうねぇ? 神戸レインボーチャーサー元キャプテン?」
「ほんっと、どうしてでしょうねぇ?」
 さすがの富永も、笑みを強張らせて苦く笑った。
「でも、まだありますよ。チャンスは」
「その通りだ。まだシーズンは終わっていない。頑張れ」
 この何気のない頑張れと言う一言も、矢良に言われると重みが違う。
 富永は返事をした。
 矢良に首を縦に振る返事は通用しない。


 片岡真吾の精密検査の結果は異常なし。
 やはり、オーバートレーニング症候群だろうとの診断が下された。
 よって、
「一ヶ月の完全休養を命じる」
「何様のつもりだよ!」
「チームドクター様のつもりだよ」
 監督やコーチ、チームドクターとキャプテンの富永に囲まれて、昴はまるで生徒指導室に呼び出された気分を味わっていた。
 だから、本能ともいえる反抗心が頭を出すのだろう。
 矢良の休養命令に噛み付いた。
「練習まったくなし? 他の連中に聞いたら練習量落すだけでいいって言ってたのに?」
「ほう? ちっとは勉強したわけか? だが、残念ながらお前が健気にも不調を隠してたおかげで症状は悪化してる。一ヶ月間、一切の運動をしないって方法が一番回復が早い」
 矢良チームドクターはいいドクターだ。
 欠点があるとすれば、この物の言い方だろう。
「でもっ、でも一ヶ月って言ったらシーズン終わるじゃん!」
「あぁ、終わるなぁ」
「今、大切な時でしょう? 優勝がかかってるんだ。初めての優勝が! そんな時に俺はボールに触れないんですか?」
 染髪の正当性を説く高校生のように、昴は訴えた。
 けれど、これは規則ではなく昴の選手生命を考えた結果だ。
 議論の余地はない。
「今年の優勝が、お前のラストゲームになってもか? そのラストゲームが優勝になるとも限らないし」
 火の点いていない煙草を銜えて、矢良はそこにいる全ての人間の言葉を代弁する。
 こういう役が矢良には合うのだ。
 有無を言わさないだけの言葉の数を持ち、何より情が薄い。
 チーム優勝は矢良にとっても大切なことだが、矢良がそれよりも重要とするのが選手の選手生命を下手に縮めないことだ。
 チームドクターというよりも、スポーツドクターとしての矢良の姿勢だ。
「……でも、一ヶ月もボールに触らないなんて、ヤバイんじゃないんですか?」
「んー、やばいね。やばいけど、お前はまだ若い。怖がるなら無理に出場して選手生命が終わっちまうことを怖がるんだな」
 昴は深く俯いた。
 まるでそこになら救いがあるかのように。
 長く濃い沈黙の中に、昴の苦しそうな呼吸がじわりと滲んだ。
 鉛でも詰まっているのかと思わせるほど重々しく頭を上げた。
 正面の矢良の後ろ。
 壁にもたれて腕を組んでいる富永の顔を見た。
 富永は一つゆっくりと瞬いて、いつも昴をからかう時の表情を浮かべた。
「お前なしでだって優勝できるさ。今年の得点王とMVPは諦めろ。来年もあるんだ」
「……おう」
「おうじゃねぇだろう。お兄ちゃんに。はいと言え、はいと」
「はいぃっ」
 ゴツリと金属の足に膝を突かれて、昴は呻きながら返事をした。
 痛みに顔を歪めるふりで、悔しそうに歪む表情を隠した。
「それでな、お前独身寮だから練習場も近いし、練習できないお前がその近くにいるのは酷だろうから、実家に帰るなり暫らくは好きなところに出入りしていいぞ」
 監督の言葉は優しいが、昴は曖昧な表情を浮かべただけだった。
「別に……行くとこないし」
「だと思って、お前のためだけに今日は特別ゲストを用意した」
「はぁ?」
「そろそろ来る」
 コツン、とまた矢良が踵を鳴らした。
 それが合図であったかのようにドアがノックされ、開いた。
「ちわーっす」
 呑気な声でドアを開け、入って来たのは、
「イチさんっ?」
 元神戸RCのフォワードで日本代表でも活躍し、今は引退してサッカー番組の司会や解説をしているサッカーコメンテーターの市井だった。
 イチの愛称で知られ、今も選手やファンに人気がある。
 矢良とは同期で、神戸RCのもう一人の兄貴分だ。
「なっ、なんだっ? なんの集まりだよ」
 監督からコーチまで顔をそろえた状況に、市井は面食らう。
「と、言うわけだ。どうせ昴のことだから、放っておいたらちょっとくらい大丈夫って判断でボールを蹴りだすからな。イチに預かってもらうことにした」
「イチさんにですか?」
「イチさんにぃ?」
「薫ちゃん、どういうことよ」
「そういうことだ」
 そうして、片岡昴の完全休養は宣言された。


 片岡昴が市井の家に上がりこんで一日目。
「サッカーしてぇ」
 二日目。
「ボール蹴りてぇ」
 三日目。
「試合してぇ!」
 そして、二週間目の土曜の午後、Jリーグの放送をテレビで見ながら昴は叫んだ。
「スバル、うるさいよー。パパの解説聞えないじゃん!」
 隣では、市井の愛娘の光子が昴の絶叫に文句を言っている。
「あぁっ! 何やってんだよ! 真吾ぉ! 江口、スペースあるじゃねぇか! バッカ、なんでスルーなんだよ! バカバカバカバカー!」
「もー、うるさいぃ! あぁあ! 江口さん!」
「馬鹿江口! 力んでんじゃねぇよ! 坂本さん、フォローしてやってよぉ。っていうか、俺にボールを回してくれ!」
 テレビの前はキックオフ直後からずっとこんな感じで、ダイニングからそれを眺めている市井夫人は娘に兄ができたようだと微笑ましく見守っていた。
 しかし、それも神戸RCの首位転落を告げるゲームセットのホイッスルが鳴り響くと、さっきまでの賑やかさはすぅっと消えて重い沈黙が部屋を満たした。
 画面には、深く項垂れるRCイレブンが映し出された。
 倒れこんだ江口に富永が声をかけて立ち上がらせている。
 市井の解説は淡々としたもので、それが自分の感情を隠そうとしているものだと夫人にはわかった。
「まだ、逆転できるよね?」
 光子が尋ねると、昴は一つ頷いた。
 それから慌てて、声を出す。
「うん。できるよ。優勝も」
 その声が昴らしくなく低いことと、笑顔がないことに光子は不安になる。
 いつも、土曜にはこの画面の中にいる昴。
 今はここにいて、試合を見ているだけだ。
 組み合わせた手に筋が浮いている。
 どれだけの焦燥が、このサッカー選手の胸の内にあるだろうか。
 それは彼にしかわからない。
 もしも、彼の気持ちを分かち合えるとしたら、と市井夫人は思う。
 それはきっと、彼しかいない。
 夫と共に戦い、ピッチで死んだサッカー選手。
 矢良薫。


 そして、最終節まで持ち込んだ優勝争いの決着が着く土曜日の午後。
 この日のゲームは全てデイゲームで行われる。
 昇格・降格争いは決着し、残る争いは優勝のみとなった。
 奇しくも最終節に神戸RCが対戦するのは、優勝争いの相手でもあるワイルドウィンド山形。
 Jリーグファンが最も注目する対戦カードとなった。
 オレンジ色のユニフォームの山形と白いユニフォームの神戸が対峙するそのピッチには、やはり日本で最も人気のあるストライカーの姿はなかった。
 その姿は神戸側のベンチにあった。
 その姿を確認してから、スーツ姿でベンチに入るチームドクターはいつもと同じく義足を右足に乗せて組み、小さく呟いた。
「頑張れ」
 それは白い煙となって、十一月の終わりに吹く風に消えた。
 矢良が左足を失ってから、彼の戦いはピッチの外から両足を駆使してボールを追う選手達から目を逸らさないことだった。
 頭がおかしくなりそうな焦燥や、体を引き裂きたいような衝動に耐えて選手でなくなった目で、サッカーを見続けることだった。
 チームドクターになり、周囲には振切ったように見られる今でも抑え難い感情が胸を突き上げてくる時がある。
 昇格のチャンスを逃した自分の怪我。
 今、片岡昴は自分の体の状態のせいで、チームの優勝を逃そうとしている。
 あの時も今も、神戸RCの選手層は厚くない。
 厄介な所だけは変わっていない。
 苦笑を零して矢良は背中をベンチに預けた。
 腕を組み、じっとピッチに視線を投げる。
 これから始まる九十分が、一人の選手の気持ちを癒すものになるのか引き裂くものになるのかを見届けるために。
 情はまったく存在しない。
 その替わりにピッチにあるのは、容赦のないスポーツマンシップだ。

Next 後


部誌テーマ「病気」の没原です。「GAME MAKER」の番外。
「虹」の「ゲームメーカー」の時点で部内であまり反応がなかったので、サッカー小説を封印したので没。
主人公は誰か。それは矢良さんです。なんだか楽しかったですわ。
「ゲームメーカー」でさえもハードボイルドっぽいと言われてるので、もう開き直ってハードボイルドチックサッカー小説です。わかんない人にはわかんないんだけど、なんとなく爽やかさとか嗅ぎとってください。

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