九十分の戦いの終わりを告げる笛が鳴り、矢良はゆっくりと瞼を降ろした。
少しだけ仰向いて、胸の中に溜まった思いを一つの溜息に変えて吐き出した。
ピッチに一ヶ所に集まり抱き合っているのがオレンジ色のユニフォームで、ピッチのそれぞれのポジションで屈み込み仰向けに倒れているのが白いユニフォームだった。
例えばそこに、十一番を背負う得点王の右足が存在していれば、立場は逆になっただろうか。
例えばそこに、三番を背負っていたディフェンダーの力が介在すれば。
キャプテンマークを外した富永は、赤い腕章がないことが物足りない腕をチームメイトに伸べ、声をかけていく。
矢良は背後を振り返った。
じっとそこに立っていた片岡昴の姿はなかった。
再びピッチを向いた矢良が見たのは、サポーターに深く深く頭を下げるイレブンの姿だった。
自分には、そんな感謝の意を示すことさえできなかった。
謝罪さえも、できなかった。
彼らにはまだ来年がある。
ちらりと胸を焦がす羨望を誤魔化して、矢良は富永のコートを手に、最後まで戦い抜いた戦士を迎えた。
「来年がある。天皇杯もあるんだ。いけるさ」
笑って答えようとした富永の唇は、ただ白い息を零すだけで引き結ばれた。
「そうだろう?」
しかし矢良は言葉を続けた。
富永の声を聞くために。
富永は汗の滴る顔をタオルに埋め、首を大きく上下に動かした。
「ガキじゃねぇんだ。返事をしろ」
いつもの言葉。
富永はタオルで表情を隠したまま、はいとくぐもった返事をした。
神戸レインボーチャ―サーのリーグ戦は幕を降ろした。
あぁ、いつかと同じだと矢良は思った。
このチームが発足してから最初に手にしかけたチャンスを逃した時と。
このチームはそんなことばかりを繰り返し、それでもここまでやってきた。
神戸RCはいつかまたこの挫折を乗り越えて、先に進んでいくのだろう。
矢良にはそれがはっきりと確信できる。
一度逃した昇格のチャンスを、確実にチームが手にしたように。
ロッカールームに向かう富永の背中を見送って、矢良はワイルドウィンド山形のために降る紙吹雪に目を細めた。
ウィニングランが始まろうとしている。
その日の夜、ワイルドウィンド山形の優勝を祝う特集番組の収録を終えた市井の携帯に、光子からの連絡が入った。
預かり者の昴が帰っていないと言うのだ。
日付も変わった時間帯。
市井の予想した範囲内での出来事だったので、光子には心配するなと言って電話を切った。
市井の自宅から五キロほど離れたところにフットサルコートがある。
市井はそこに車を走らせた。
そして、これも想像とおりにまず矢良の姿を見つけた。
「運動するなって言っただろう。引退しちまいたいのか?」
フットサルコートの真ん中に、ボールを抱えて座り込んでいる昴の背中に矢良の声がかかる。
昴が吐き出すのは白くなった吐息で、矢良が吐き出すのは煙草の煙だろう。
コツコツという硬質な足音が他に人のいない深夜の公園に大きく響いた。
昴の返事はなく、ただ荒い呼吸が聞えてくるだけだ。
市井は二人から少し離れた場所で、成り行きを見守った。
「もう、終わったつもりでいるのか?」
「一人に、してください」
弱々しく、やっとのことで答えた昴の言葉を矢良は鼻で笑い飛ばす。
「一人にしたらつぶれちまうだろうが。どうしようもない甘ちゃんが」
「喧嘩売りにきたんですか? 今、買う元気ないんで帰ってくださいよ」
「あたりまえだ。お前は今自殺しようとしてるんだからな。焦る気持ちはわかるが、無茶して治るわけじゃないんだ」
「気持ちはわかる? あんたに、俺の気持ちがわかるかよ! こんな大事な時に動けなくなって、何もできないで、ただ仲間が戦ってるのを見てるだけの自分がどれだけ惨めか、悔しいか、あんたにわかるっていうのかっ?」
振り返って、背後に立っている矢良を仰ぎ見る昴の眼光は鋭く矢良を責めた。
だがそれすらも矢良は受け止めてしまう。
「わかるさ」
微苦笑さえ浮かべて、矢良は紫煙を吐き出した。
「わかるよ。お前の気持ちなんて、思い出したくもないけどついついオーバーラップして見ちまった。おかげで、ここ最近、足が痛んでしかたがない」
昴が目を見開いた。
神戸レインボーチャ―サーに在籍している選手でさえも、矢良薫というディフェンダーの存在を知っている人間はそういない。
矢良は足の話をするときは、事故だと言っている。
間違いではない。
あれはピッチの上での事故だった。
しかも事故に関わった全員が信号無視だと矢良は笑うのだ。
あれだけのディフェンスを見せながら、誰の記憶にも存在しない矢良。
たった一年間だけの在籍の意味は、そんなものになってしまった。
左足を失ってまで神戸RCのゴールを守ったディフェンダー。
矢良の浮かべる笑みは悲しい。
市井はたった一度だけ矢良の見舞いに行った。
ベッドの上で笑う矢良は、つい数日前まで一緒にピッチを駆け回っていたチームメイトとは思えないような体を指して笑っていた。
大人のように見えて、実は誰よりも負けん気が強く弱音など吐かない矢良らしい、精一杯の虚勢だった。
精一杯の状態だった証拠に矢良は翌日自殺を謀り、サッカーはもうできないと告げられていた足を切り落とすことになったのだ。
その時だって、駆けつけて怒鳴ってやろうとした市井の前で、矢良は失敗したよと笑ったのだ。
ただ、矢良はそこから這い上がってきた。
新しい戦いを見つけ、義足を受け入れ、諦めずに今の矢良薫を受け入れた。
矢良が、いかにも彼らしく簡潔に自分の過去を語った。
「色気のない説明ですけど、薫さんらしい」
突然市井の背後で声がした。
振り返るとそこには富永が立っていた。
連絡を受けれ捜していたのだろう。
コートを肩にかけて、呼吸を整えている。
「俺、あの試合見に行ってたんですよ。薫さんは、声もあげずに足を真っ赤にしてて、スタンドからもそれが見えて、怖かったですよ。サッカーってこんなもんかよって、怯みました。それでも俺が今もサッカーしてるのは、薫さんのラストディフェンスが胸を打ったからでしょう」
矢良が大袈裟に言うんじゃないと笑った。
少し距離はあるが聞えているらしい。
「俺の選手生命は事故で終わった。お前は自殺なんかで終わらすつもりか? お前は、何を焦ってるんだ? スバル」
短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けて、新しい煙草に火をつけた。
昴は座り込んだまま、呆然としたように矢良を見上げていたが、重い口を開いた。
「真吾が……、真吾がキャプテンマーク、外したから……」
思わぬ言葉だと思ったのは富永と市井だけで、矢良はそらみろとでも言うように振り返ってにっと笑った。
「早く優勝しなきゃって思ったんだよなぁ? 早くしないと真吾は引退しちまうんじゃないかって。富永はプロになってからはずっとうちのチームだ。優勝経験がない。お前の、お前なりの恩返しをしたかったんだよな?」
神戸RCのキャプテンは、一人の人物に絞られる。
その時代時代の精神的支柱となる選手に託され、その選手が引退・退団する頃に新しい人物に引き継がれるのだ。
富永は肩を大きく上下させた。
「バァカ。勝手に人を引退させるなっていうの。俺がキャプテンマーク外したのは前の引継ぎの時がぎりぎりすぎて、俺が馴染むのに時間がかかったから、今回はそれでも早めにしておこうと思ったからだ。まだ三、四年は神戸にいるぞ」
引退、とは言わない。
富永はチームやフロントに神戸RCを大きく飛躍させた選手の戦力外通告までさせてから、退団して他のチームに移るつもりなのだろう。
それこそ、市井のように。
「焦るなよ。焦るんじゃない、受け入れるんだっていつも薫さんが言ってるだろう?」
富永に、最近ひどく落ち着いた雰囲気が出ていると市井は思い始めていた。
若手と呼ばれていた頃でさえも落ち着いていた男だったが、ここ最近になってその落ち着きに穏やかさという言葉を加えることができるようになった。
その微妙な変化を、昴は察したのだろう。
あの手の穏やかさは、身近な者に不安を与える。
それでも、富永はまだいけるだろうが。
「お前はまだ若いんだ。それに、まだ足も二本ともついてる。皮肉に聞こえるか?」
微妙なところだと市井と富永が笑った。
「まぁ、そうとっとけ。確かに、うらやましいから」
銜えた煙草が上下した。
思わず矢良の顔を昴は凝視する。
少年のような顔をした、意地悪なチームドクターの顔があった。
コツリと意味なく義足が打ち鳴らされた。
いつか、自分から、ピッチでのゲームが取り上げられるときがくる。
プライドや気持ちを燃やせることのできる場から、去らなければならないときが来る。
その時を、思う。
「なぁ、昴。お前はもうサポーターからエールをもらってる。初めてお前の名前がコールされたそのときから、きっと選手って言うのはもう一人だけの体じゃなくなるんだ。お前が勝手してピッチを去ることで、悲しむサポーターが何人もいるんだ。お前に希望を見て、支えにしている人がいることを忘れるな」
矢良が登録を抹消されてから、何通もの手紙が届いた。
それは病室の矢良のもとに届けられた。
謝罪することもできなかった自分に歯噛みした。
その手紙に応えることの場を失った矢良は、選手としてピッチに戻ることではなくチームドクターとして戻ることを誓った。
そして、ありがとうとプレーであらわす変わりに、矢良は最高の状態の選手をピッチに送り出した。
「スバルコールが、聞こえてないわけじゃないんだろう?」
いつだって聞こえていると、昴は答えようとした。
だけど声にならなかった。
今の自分の幸福さが、じわりと胸に広がって不意に耳に蘇ってしまったのだ。
自分の名を呼ぶたくさんの声が。
自分の背を押し、いって来いと言ってくれるスタッフの声を。
「返事、しろよ?」
「うッス」
いくらか元気の出た声を聞いて、矢良が少しだけ笑った。
またく、仕方がねぇなぁ。
そんな笑みだった。
「ったぁく、手のかかる連中ばっかがそろったもんだな。神戸も」
「類は友を呼ぶって言うからな」
市井の茶々を矢良が笑った。
その笑みはチームを愛している人間の浮かべる笑みだった。
「誰の友だよ。なぁ?」
笑いが止まらなくなった矢良がケラケラと声をあげはじめた。
それはどこか、ウィニングランをしている王者達の笑みに似ていた。
誇らしげな、どうしようもない笑みだ。
「いいチームだよ。ほんっとぉに。返事をしねぇ困った連中ばっかだよ」
声を。
声を上げたかった。
自分はここにいると。
神戸レインボーチャーサーのディフェンダーだった男は、ここにいるんだと。
「飲みに、行こうか?」
笑いを収めることができずに、矢良は喉を震わせて言った。
「祝おうぜ? 神戸レインボーチャーサーの年間ランキング五位入りをさ」
天皇杯も残っているが、これからしばらくはチャンピオンシップだ。
今日くらいは、いいかもしれない。
富永がいいですねと言った。
市井に文句などない。
昴もうなずいた。
一致可決。
レインボーチャーサーの新旧選手達はそろって、歩き出した。
空は快晴。
そして、市井の笑顔も晴れ晴れとしていた。
まるで子供のように。
「今日は神戸RCのキャンプ地宮崎にお邪魔しましたー」
マイクを片手に古巣の取材とあってご機嫌である。
サッカー番組の収録で市井は顔を見せた。
収録の内容が番組で人気のサッカー選手へのゲームだと聞いて、ほとんどの選手がグランドに集っている。
五十メートル走やら垂直跳びやらバナナシュートやら、サッカーに関連しそうなゲームの記録で競うのだ。
これが選手の中でも人気で、のりのいい選手はこぞって参加したがる。
息抜きゲームのようなものなのだ。
「今年は年間総合で三位、チーム最高位! キャプテン、どうですか?」
ニコニコではなくニヤニヤと笑いながら市井が向けるマイクに、富永は苦笑しながら答えた。
練習場での富永の表情は柔らかい。
「いい結果だとは思うんですけどね。ここ数年四、五位とまりでもどかしい思いをしてたんで、やっぱりこのへんでって気持ちはあったんで、悔しいですね」
「セカンドステージで急に調子があがってきたでしょう? それでけっこういけるって思ったんじゃないの?」
「思ったんですけど、肝心なところで落ちたんで。下から這い上がってきたチームなんで逆境には強くても、いいプレッシャーには弱いところはあるんですよ。でも、今年そういうのを体験したんで、来年はもっと食い込めるチームになってるんで、来年は。あと、うちにストライカーもそろそろ復帰できるんで、本当に来年はサポーターにいいゲームを見せれると思うんで期待してください。あと、応援とか本当に力になるんで、お願いします」
キャプテンのキャプテンらしいインタビューが終わってから、ゲームの始まりとなる。
五十メートルから始まり、チームの仲がいい神戸RCは大いに盛り上がった。
「次はホットラインを探せ、ゲーム!」
市井ののりのいい声で告げられたゲームはチームの威信をかけたゲームで、ハーフラインより下がってパサーが前線の得点者にロングパスを出す。
それをボレーで見事ゴール枠に入れることができれば合格。
芸術点を競うゲームだ。
一発勝負で名MFがポカをしたりと、波乱ありのゲームである。
「まずは、大本命のRCホットラインのこの二人でしょうっ。片岡昴選手と富永選手でーす」
くるくると手の中でボールを回しながら富永がセットポジションについた。
それから、いつもピッチの上で上げるような大きな声を前線に飛ばす。
「はずしたら焼肉奢れ!」
「はぁ? はずしたらパサーの精度の悪さのせいだろう?」
「じゃあ、お前が五歩以上歩くようなパスになったらゲームキューブ買ってやるよ」
「うっしゃぁ、来いやぁ」
考えてみれば、片岡昴復帰最初の映像がこの映像と言うのはなんともかっこうがつかない気がすると、市井は楽しそうに眺めた。
それからホイッスルを銜えて高い音を吹き鳴らす。
フリーキックのようにボールの位置を確かめて、富永は僅かな助走でボールを蹴り上げた。
低くもなく高くもない、絶妙な高さのパスが飛ぶ。
セットプレーのそれよりは少し長く、前へ。
ボールは昴の足元めがけて飛んできた。
昴は二歩動いて距離を測った。
残念ながらそれ以上動く必要はなかった。
持ち上がった昴の足に、ボールが綺麗に当たった。
何も問題はないはずだったのだが。
「あぁっ!」
ボールは浮いた。
ゴールの上をふぅわりと浮いたまま通り越した。
チームメイトは呆然と浮いたボールの軌跡を追いかける。
拍手も呆れた茶々もないままに沈黙が落ちる。
第一声は、
「焼肉」
富永のそんな声だった。
低くてぼそっと喋るくせに、ピッチの上で指示を与える時の癖でなのか、やたらとはっきり彼の声は耳に届く。
「おっまえ、最悪だな! 普通浮かすかよ! シャレになんえぇことしてんじゃねぇぞ! この下手っくそ!」
「うるせぇなあ! 俺だって入れて決めて歴代キングとかって放送して欲しかったよ! ちくしょう、かっこわりぃー。かっこいいとこ真吾がもってったじゃねぇかー」
「奢れよ、焼肉」
「先輩のくせに後輩に奢らせるなよ」
「そういうのは先輩扱いしてる後輩が言えるセリフだ」
突如始まった言い合いはいつものことなので、免疫のないギャラリー以外ははいはいと受け流している。
昴の体は徐々に元の調子を取り戻しつつある。
浮いたシュートも軌道は大きく外れたが威力はあったし、何よりも感情豊かな昴の表情が生き生きとしていて、いかにも調子が良さそうな顔をしているのだ。
彼を理解する人たちは、その笑顔の意味を察しているからシュートを浮かせた彼を悪く言う。
「もういいよ。お前は。次俺、江口と組むから」
「あ、富永さんすみませんっ。俺、今日タカと組むってことになってるんです」
若きFWは、アンダー17時代から仲がよかったゴールデンレフティとの先約があると言ってチームの柱の前から駆けて行った。
「ふられてやんの」
「はずしたヤツに言われたくねぇんだって」
「タカー、外すなよー」
「えっちゃん、浮かすなぁ〜」
「タカは駄目だよ。カメラに弱いから」
「「うっさいですよ!!」」
ここにもツーカーコンビが誕生している。
賑やかな風景からはなれて、昴と富永は芝に転がりながら眺めた。
江口とタカは同い年で仲もいい。
息もあう。
若い故に時に周りを巻き込んだ喧嘩もあるが、それでも少しずつバランスを取ることを覚えてきた。
「タカってさぁ、真吾とは全然違うパス出すよな」
「裏を取らせようとするからな。だから江口とも合うんだ」
極自然な動きで富永は、昴の体のストレッチを始めさせる。
視線はゲームに向いている。
センターサークルで二人は何やら綿密な計画を練っているらしい。
本命のRCホットラインのまさかの失格でチャンスではある。
熱が入っているのか若さ故の情熱か。
「俺さぁー」
ぐっと筋を伸ばしながら昴が言う。
「完全休養の間、すっげぇやることなくてさ、サッカーゲームとか映画見るとかばっかしててさ。本当に俺って、サッカーしかねぇんだなぁって、痛感した。引退したら俺、どうするんだろう」
「お前ならイチさんの後釜いけるだろう」
「あー、それもいいかも」
「で?」
「あ? あぁ、で、さ。薫さんさ、薫さんって本当にサッカー好きなんだなぁって思ったのよ。俺もすっげぇサッカー馬鹿だと思ってたけど、俺って結局自分がしてるサッカーが好きなんだなぁって。あんまり海外とか興味ないし。でも薫さんは、サッカーが好きなんだって思った。どっちの好きがいいのかなんてないけど、すげぇなぁって思った」
視線は緊張してぎこちない動きになっているタカから外れ、それを面白そうに見ている義足のチームドクターに向けられている。
穏やかな横顔。
あの顔を、ピッチを冷静に見ることのできる気持ちをピッチに近寄る意志を取り戻すのに、一体どれだけの覚悟や苦労があっただろう。
ドクターとして帰ってくること自体はたいしたことじゃなかったと矢良は言う。
彼は頭がいいのだ。
しかもずば抜けて。
「すごい人だと思った。あの人の前で、無様なサッカーはできないって思った」
いつも、穏やかに隙なくそしてどこか淋しげにピッチを見守る目の前で。
「あんな最強のサポーターがいたら、頑張るしかねぇもん」
タカの蹴ったボールが、江口に向かう。
大きな孤を描いたボールに江口が数歩走りこんだ。
「えっちゃん、行け―!」
「浮かせ!」
そんな茶々の中、若きRCのFWの足はボールのど真ん中を捉えてシュートを放った。
左右に45度、どちらからもゴールを狙うことができる足だ。
白いネットが軽やかな音をたてて揺れた。
鮮やかなボレーシュートだ。
「タカとえっちゃんっていいコンビだよな」
「お前が浮かせなきゃ、俺とお前がいいコンビだよなぁって言われてたんだ」
「焼肉奢るって言ってんじゃんよ」
無駄口を叩きながら背筋を伸ばしていた二人が、ふと動きを止めた。
視線の先。
腕を組んで立っていた矢良が、にやにやと笑いながらコートを脱いだのだ。
「イチ! 俺にもやらせろ」
それは、義足のDFの言葉。
ピッチに立つことへの渇望から癒されたはずのサッカー選手の言葉だった。
コートの下はいつものスーツで、そのジャケットまでもを脱いで放り投げる。
義足が、一歩ピッチに踏み出された。
ボールを蹴ろうという意志をもって矢良がピッチに入る。
市井はしばらくその動作を見守ってから、矢良とよく似た笑みを浮かべた。
「俺が五歩以上動いたら、焼肉」
「オッケー」
パサーは勿論矢良。
彼のロングパスの精度の高さは富永も知っている。
知っているが、彼の左足は義足だ。
利き足は右。
左の義足は軸足になる。
突っ張るだけの力があるかどうか。
「カメラなんて回さなくていいよ。俺、選手じゃないから面白くないだろう」
カフスや襟元のボタンを緩め、できるだけ体を楽にしてから矢良は体を伸ばす。
ざわめきは潜まり、奇妙な静寂が矢良を包んでいる。
市井も足首を回しながら、軽いアップを始めている。
「そういやさ」
市井が話しかける。
叫ぶに近い大声で。
「うちのチームのメモリアルビデオの製作でさ、広報からアンケートがきただろ?」
神戸レインボーチャーサーの軌跡。
そんな名前で選手の選ぶ名シーンを集めたビデオのことだろう。
選手達やスタッフ、OBや関係者にアンケートが配られた。
「俺、あれにお前のラストゲームを書いたから」
「俺、お前の引退試合書いたから。しかも、ボロ泣きしてたサンクスラン中心でって」
「しめっぞ」
「しめてみぃ」
若手の会話となんら変わらないやり取りをして、二人はセットポジションに立った。
ピッチに、ボールを蹴るために立っている。
自分の匂いになってしまっていた煙草の香りが何故かしない。
鼻につくのは風の匂いや芝の青臭い匂いだ。
自然にできあがった空気は、まさにセットプレーの時にピッチに漂うもの。
思わず矢良の眼つきが変わった。
市井スターターを命じられた中堅が、ホイッスルを吹き鳴らす。
矢良は助走をつけられない。
その場で右足を引いた。
感触のないはずの左足が、ピッチをしっかりと踏みしめる。
その感触を矢良は確かに感じた。
風を切る右足。
左足は体を支え、全ての重みを受け止める。
これまでの鬱憤を全て。
押し殺していた感情を全て。
矢良薫の全てを。
ボールが右足に触れる。
球芯を捕らえる独特の感覚が体の中に蘇る。
体が、壊れてしまいそうな感情が噴き出てきた。
それをボールに託した。
矢良のロングパスは、いつもゲームの流れを神戸RCの方へと引き戻した。
追い縋るのは市井。
たった三歩の疾走。
市井の体が翻った。
彼の膝にある強靭なバネが、決して小柄ではないが細身の体を宙に浮かせる。
オーバーヘッド。
まるで計算されたような正確さで、矢良の蹴ったボールは市井の足に当たった。
引退して数年経つのが嘘のような身体能力の高さを見せつける。
15年前のゲームの借りでも返すかのような勢いで、市井の足に触れたボールはゴールネットを揺らした。
沈黙。
それから、ゴールを告げるホイッスル。
そして、歓声。
矢良の体はゴールを見届ける前にピッチに倒れた。
「ひゅー、いいねぇ」
倒れこんだまま、矢良は笑った。
歓声が近付いてくるのを感じるが、起き上がり身構える間もなく人の群れが降ってきた。
エルボーに近い攻撃は痛いが笑いは止まらない。
「たまんないわ。やっぱ」
サッカーが好きだ。
結局一番綺麗なゴールを決めた矢良と市井のシュートは撮影されておらず、幻のゲームとなった。
結局記録に残ることになったのは、若手の江口とタカのコンビだった。
矢良は普段よりもずっとラフな姿で、肩からベンチコートを引っ掛けて何故かドッチボールに発展してはしゃいでいるチームを眺めている。
監督も今日は無礼講と思っているのか、一緒にドッチボールに加わっている。
ノリのよさは神戸RCのうりかもしれない。
波にのりやすいチームは窮地にもちょっとしたきっかけで挑むことができる。
「薫、コーヒー? ポカリ?」
スタッフは撤収したが、市井はまだ残っている。
二つの缶を持って矢良の隣に腰掛けた。
「コーヒー」
コーヒー缶を受け取って、その缶の角で膝をコツンとつついた。
膝は生身のはずだ。
不思議そうな顔での不可解な行動だが、市井はなんとなく真意を察して黙っていた。
矢良の顔つきがなんとなく変わっている。
怪我についての整理なんてとっくの昔にしてはいるだろうが、それでもやはり少し違う。
「うちのチームはいいな。叩き上げだからかな」
いつもはきちっと整えられている髪の毛が風に乱れて、青い芝が一本混じっている。
「おかしいんだよ。サッカー選手ってだいたい口ベタ多いけど、うちのお祭り好き人口って他のチームの倍以上だろ」
市井の現役時代からそんなチームだ。
本当に厄介なところだけは変わってないなと矢良は笑った。
コートでは、坂本の顔面にボールを見事にヒットさせた江口が必死で頭を下げている。
顔面セーフだと監督が嬉しそうに言っているのが聞える。
「お前、入院中に俺に言ったこと覚えてるか?」
それは矢良が市井に向けた、たった一度だけの八つ当たりだった。
矢良は覚えていたが、今更自分で掘り返すのはあまりにも恥ずかしい話なので黙っておいた。
「サンクスランもないまんま、引退なんてまるで負け犬だって、自嘲して言ったのを、俺は覚えてるよ。お前はサッカーが本当に好きで、サポーターに感謝してて、そういうヤツなんだって初めてわかった瞬間だった」
そんなに高尚なもんかよと矢良はぶっきらぼうに言う。
「でも、思うよ。お前は自分を負け犬だって言ったけど、お前は今笑えてるし、サンクスランの代わりに選手を最高の状態でピッチに送り出して、そいつらが歓声と拍手を浴びてる。上等じゃないか。立派な負け犬だ。だからやっぱり、諦めることと受け入れることは違うんだって思えるよ」
照れたように市井を見ようとしなかった矢良が、仕方ないとばかりに首を捻った。
「たまにはいいこと言うんだな」
おそらくこの薫兄さんを動揺させることができる人間など市井くらいなものだろう。
矢良が足を失って、周りの人間は矢良をサッカーから遠ざけようとしていた。
そんな中、市井だけが矢良の元にサッカーボールを持って訪れていた。
諦めることと受け入れることはちがう、それを教えてくれたのは市井だった。
「言ってないって。ただ、ここにいる連中のほとんどっていうか100%がサッカー馬鹿って言ってるだけだ」
ドッチボールは、坂本の反撃から何故かサッカーに変わってしまっている。
汚名返上とばかりに富永と昴は半ば本気でかかっている。
「ちがいない」
自分達の人生はいつだって明快だった。
今も、かもしれないが。
「混ざってこいよ。やりたそうな面してるぜ?」
「えー、筋肉痛になりそうだ」
そんなことを言いながら、市井はベンチから立ち上がり矢良の方を向いて屈伸を始める。
「年寄りだな。終わったら揉んでやるよ。っつーか、現役復帰したらぁ?」
「馬鹿、そういうこと言うなって。本気になりそうだから」
まんざらでもなさそうに笑って、市井がピッチを振り返る。
その瞬間、センターサークル付近からもの凄い勢いのパスが通った。
パサーは富永。
ペナルティエリアへと昴が走りこんでいる。
空でも飛べそうな勢いで昴が飛んだ。
昴のバネは市井に匹敵する。
勢いのあるパスを頭にあてて、ほんの少しだけ軌道を下げてやる。
ボールはゴールマウスの右端に決まった。
キーパーは反応して飛んだが、間に合わなかったのだ。
富永と昴は拳を打ち合わせて、
「みたかよ、オッサン」
と言い捨てる。
「言いやがる」
肩にかけていたジャケットを矢良に放ってピッチに飛び込んでいった。
「がんばれがんばれ」
歌うような矢良の言葉は誰かに届いただろうか。
小学生のようにはしゃいでボールを追いかける選手達を眺めて、矢良は手にしかけた煙草の箱に暫し視線を投じ、伸ばした手を引っ込めた。
天国から墜ちたチームに、今希望の光が差す。
その光だって、決して誰かに与えてもらったものじゃない。
自分達で得た光だ。
「パース!」
伸びやかな声は、15年前のものと似た晴れ渡った空に吸い込まれていった。
番組はまさにスーパーサッカー(笑)もう病気。私はスパサカのバナナゲームを復活させて欲しいと思います。
そして鈴木さんに出て欲しいと叶わない夢をもってます。……絶対に不可能だ。
成り行きで出したタカちゃんえっちゃんの話を書きたいと思いましたので、書くでしょう。
楽しいよ、サッカー小説……!!