日高達郎と言えば暴力団だけではなく、警察とはうまく付き合っていくことが不可能な連中の中ではかなりの有名人として知られていた。
かけ引きが上手く、厄介な刑事として恐れられ慕われていた。
その日高達郎の女だと噂されている刑事がいる。
パンツスーツが良く似合い、肩まで届く真っ黒い髪の毛をいつも綺麗に結い上げて、きりっとした印象を与える鋭い眼を光らせる。
笑えば柔和な顔つきになる顔に化粧は薄い。
素顔で人前に出ても十分なほどに目鼻のバランスは良く、くっきりと浮かび上がる色を持つ顔立ちだった。
機敏に歩くその足取りや、直立すると綺麗に伸びる背筋がいっそう女の綺麗さを際立たせていた。
鮮やかだと言う形容が良く似合った日高達郎の隣に立っていても遜色がない。
二人並んでいるところは滅多に見なかったが、それでも似合いの二人とも言えた。
吉野英子。
大学出のキャリアながら現場に拘り日高の隣で働くことを自ら選んだ女傑だ。
「吉野ぉ」
そんな間延びした声で呼ばれれば、凛とした視線だけを日高に寄越し用件を問う。
信頼関係が二人の間にはあった。
吉野は日高の単独行動を黙認し、日高も吉野の行動を咎めることはなかった。
それでも二人は預けるものは預けあい、時に突き放し相棒を務めてきたのだ。
「吉野ぉ。この書類……」
「自分で書いてくださいよ。その件はあなたのヤマでしょう?」
「そうだけどよ、俺デスクワークしてたら調子が悪くなるんだよなぁ」
「頭痛薬ならありますけど」
「……だって、お前暇そうに見えんだよ」
「これから忙しくなるんですよ。外周り行ってきまーす」
吉野が日高を置いて立ち上がれば、日高は慌てて吉野の後を追う。
吉野が一言「セクハラだ」と声を上げれば問題になりそうなほどの距離をもって。
日高が吉野の肩に手を回すのはいつものことだった。
危険な話をするときの。
女の肩を抱く男の仕草とはまた異なる、重めに体重をかけ話しを聞けと拘束する意図を持つ行為に吉野は顔色を変えることなく応じて見せた。
「どこ行く気なのか教えてみろよ」
「いやなこったってヤツですよ」
「お前な……」
「嘘ですよ。親殺しの井田が潜伏してそうな場所見つけたんで張り込みです」
「うっそだろー。お前、俺もそれ探ってたっつーの。どこだよ、どこー?」
「大昔の女んトコ」
「なんでだよー。お前、なんでそれ突き止めてんの?」
「女の勘っつーヤツじゃないんすかねぇ」
「俺も行く」
「報告書、あんたもちですからね」
「ハイハイ」
年上の同僚を軽くあしらい、尊敬している素振りはまったくなく吉野は日高に肩を組まれたまま歩いている。
そんな二人の様子を見て、他の刑事が眉をしかめたりぎょっとしていたりの様々な表情を向けている。
男と女の友情というよりは刑事同士の繋がりをもったコンビが協力して捜査に当たれば、検挙率は驚異的な数値をしめし、二人の組織的でない行動を咎める上司も巷のヤクザも青ざめさせることができるのだ。
本当は、吉野と日高は幼馴染というやつで、昔は酷く仲がよかった。
吉野の父親と日高の父親が同期の刑事で、二人はその子供で遊んだことがあった。
吉野は一人っ子で日高にもその姉にもよくなついて、昔は日高のことを「お兄ちゃん」と呼んでそれはそれはかわいらしかったものだ。
日高も下に兄弟がいないから、吉野を可愛がった。
それが今では「吉野」と「あんた」で呼び合う仲になっている。
可愛かった吉野英子がこんな男勝りな女傑になったのは、父親の殉職からだった。
吉野の父は威厳があって家族を愛した、いい刑事でいい父親だった。
吉野の自慢の父親が凶弾に倒れた時、吉野の中での絶対とも言える正義や自分を守ってくれる腕をなくした。
憔悴しきった母親を支え、吉野は一人だけで立ち歩くだけの力を身につけようとしたのだ。
そして誰かを守るだけの実力を確実にし、この職場にいる。
その姿勢は日高と似ていた。
日高の母も姉も、吉野の父が殉職する前に殺害された。
想いを寄せていた女性が陵辱され、親友がその仇を討ち刑務所に入った。
父親もまた復讐を果たしてしまった。
それでも、そんな悲劇をきちんと受け入れ寄りかかってくる人達を支え、自分の脚で歩いている。
弱音を吐かないところも似ているかもしれない。
人一倍情が深く、それ故に大切な人間を守るためには手段を厭わない。
だから二人は互いに弱音を吐く隙を与えないように側にいる。
誰よりもその心情を、痛みを、叫びだしたいような感情を理解し合いながらも。
「吉野さぁ」
「……」
「結婚、しねぇの?」
「さぁ?」
「……さぁ、かぁ」
「日高さんは、しないんですか?」
風が吹き付けるビルの屋上から、二人は向かいのマンションを見下ろしていた。
体を低くして、視線はとある一室の玄関に向けたまま会話をする。
「さぁ」
「……落合さん、は?」
日高が一番大切にしている女性の名前を吉野は知っていた。
何度か挨拶したこともある。
日高のことを「達っちゃん」と柔らかな声で呼び、無防備にその腕の中に抱かれることを許されている女性。
落合美和。
綺麗な人だと思った。
壊れそうな人だとも思った。
ドロリとした羨望を、抱かせた人でもあった。
「刑事の嫁さんにはできねぇなぁ」
「特にあんたじゃね」
「その通りだ」
低い笑い声が暫らく続いた。
冷たい風が、コートとカイロで防寒した体に遠慮なく吹き付けてくる。
耳が痛い。
「お前なら、いいかなと思うがな」
耳が痛すぎて、おかしくなったのかと思った。
ちらりと一瞬だけ刺さった視線が、北風と同じかそれ以下の温度で肌を撫でた。
「……願い下げです」
声が僅かに震えたのは寒さのせいだ。
先刻と同じように、日高が喉の奥から低い笑い声を出した。
「ま、考えとけ」
「……体が資本ですからね。ダメになったら考えます」
口の中が酷く乾いてしまった気がして、手の平で包んでいた缶コーヒーを開けた。
口内に広がった苦味と甘味が、じわりと涙腺を刺激した。
本当は、いつだってこの男を追いかけていた。
吉野の父親が殉職した時に、さり気無く横に立ってくれたこの男を。
きっと、いいコンビになる。
お前になら俺の背中、預けられる。
組むか?
そんな短い誘いの言葉に頷いた。
この誘いには頷くことが出来ない。
恋焦がれて今まで男と女の空気を持たずに過ごしてきた日高達郎だからこそ。
吉野に男の影がなかったわけではない。
見栄えもいいし、興味深い気性をもった女だ。
裏の世界を生きる男達は惹かれ、口説きにかかる。
時に本当の殺し文句、時に肘打ちをかまして飄々と吉野は言い寄る男達をすり抜ける。
妖艶な笑みでもって事情聴取にかかり、用がすめばさっさと踵を返す美人は時にとんでもない危険人物と一夜を供にし、貴重な情報を掴んで帰ってくることもしばしばあった。
寝たのかと問えば、口角を持ち上げて好みだったんでと笑う。
それでも、いい女には変わりなかった。
他の人間がすれば侮蔑してしまいそうな行為をしておきながら、しゃんと背を伸ばし毅然としている。
阿婆擦れが、と毒づく人間よりも検挙率が高いのだから文句は態度と結果で跳ね除けてしまう。
この女を組み敷くことができた男は幸せなのかもしれない。
例えそれが致命傷となって塀の向こうに追いやられたとしても。
引き締めた唇が零す嬌声だとか、生理的であれきつめの双眸から流れる涙であるとか。
セックスで相手を支配できたと思うのは男の勝手な考えかもしれないが、それであっても吉野英子を一瞬でも自分のものにしてしまえたと言う優越を感じとれたなら、それで充分幸せじゃないか。
じっとターゲットのドアを見つめる横顔を盗み見た。
不幸な女だなと思う。
昔は屈託なく笑い、甘えていた。
自分に降りかかった不幸を、自分のために悲しむ間もなく人の悲しみを癒すために生きた。
同類、なんて言葉で距離をつめれば怒るだろうか。
日高は落合美和を愛しているが、それとはまた別次元で吉野英子も好きだった。
女としてではなく、きっと人間として。
そして吉野もまた、日高に惹かれていた。
けれども互いの弱味を見せることはできずに、ただの同僚として不器用に距離を近づけただけだった。
「……弱ってんですか?」
「あ?」
「いや、あんたらしくないこと言うから」
ピタリと定めた視線は外れることなく。
吉野は突き放しているような硬質な声で問う。
「そっかぁ?」
「そうですよ」
煙草を探るそのついでに、吉野の目が一瞬だけ日高を捉えた。
一瞬合った目が穏やかに笑った。
煙草を銜え、さらに屈みこんでから火をつけた。
再び視線を投じてから笑う。
「なに、泣きそうな面してんスか。ガキみたいで情けないですからやめてください。隣に立てれない」
銜え煙草でニヤリと笑う。
ひょっとしたら日高なんかよりもずっと男前という形容が似合う女かもしれない。
甘えんなと言外に言い放つ。
「……スミマセン」
棒読みの日高の言葉にくっくと喉を震わせて笑った。
僅かに細められた目が優しくなる。
綺麗な女だと、思った。
香水の匂いよりは染みついた煙草の匂いの方がよく似合う。
スカートよりはパンツスーツの方が際立つ。
口付けよりも辛辣な言葉の方に想いを感じる。
美和とは対極にいる女だ。
「……」
「……」
一際強い風が吹いた時、日高は吉野に口付けていた。
大きな手に後頭部を包まれ引き寄せられて。
触れ合わせただけの唇の間から、吉野が口に入れただけだった紫煙が零れた。
「……セクハラ」
大して堪えた様子もなく吉野は残った煙を吐き出して言った。
目が笑っている。
「もうちょっと他の反応してくれよ。赤くなるとか嫌がるとか」
「別に。赤面するような仲でもないし、別に嫌じゃないし?」
ペロリと舌を出しておどけてみせた。
そうしてみると子供っぽい面がちらつく。
その子供のような表情の中に、言い知れない翳りが見えてしまった。
鏡を見ているような錯覚。
「あんたには落合さんもいる。滝上順也もいる。私には、そういうモンがないから、きっとあんたよりは長生きできるでしょうね。だから、あんたの嫁さんになんか絶対にならない」
改めて煙草を吸う。
立ち昇る煙に細めた目は、もう子供のような面影もなくただじっと獲物を待ち構える刑事の目になる。
「……ザンネン」
日高も隣で煙草を探った。
ハイライトを一本銜え、ライターの石を擦る。
ターゲットからどちらの目も離された一瞬。
吉野のしなやかな指が日高の後頭部を強引に引っ掴み、引き寄せた。
ジリ。
触れ合わせた火種が鳴った。
日高の視界を支配した吉野が、薄く開いた唇に不敵なカーブを描いて見せた。
ゆっくりと離れながら煙を吸い込む。
「本当は、好き」
呆気に取られている日高の前で不敵な笑みが屈託を抱えた子供の顔になる。
吉野がこんなに表情を変えるのは珍しい。
「お兄ちゃんのこと、大好きだった。お嫁さんになるのが夢だった」
ネイルを塗らない指先が煙草を取るため口元に移動し、唇を隠す。
笑っているのか。
泣くのを我慢しているのか。
日高はただその横顔を見つめるだけ。
「でも、今だって充分、幸せです」
「……英ちゃ……」
日高の口から零れそうになる本音を封じるように、吉野の腕が機敏に動いた。
二人の間に置いてあった双眼鏡を掴む。
「井田の女です。一人ですね。っと、男モンの下着買ってますね。あの女に現在交際中の男はなし。行きましょう」
ギラリと光る双眸。
体を起こした吉野はさっさと行ってしまう。
「……ほんっと、いい女になったよな」
日高達郎をここまで翻弄できるのは、吉野英子だけだろう。
真っ黒いパンツスーツに身を包み、飴玉のかわりに紫煙を転がす少女だ。
井田の潜伏していると見られている階の踊り場で、日高はどうするかなと吉野に話を振った。
「私がやります。あんた黙ってて」
さっさと歩き出す。
その足下はいつも登山靴のようなごつい黒のスポーツシューズだ。
インターフォンを鳴らす。
少しの間を持って通話状態になる。
『どちらさまですか?』
「あー、すみませーん。こちら、日陽新聞の者なんですけど、奥様新聞はどちらの新聞をお取りになられてますぅ?」
インターフォンを挟むように壁に両肘をつき一転した明るい声を出す。
『え? あの、もうお断りしますので』
「あぁっ、あの、お願いしますぅ。私、今日の契約一つもとれてないんですよぉ。周り、男性の営業ばっかりで出し抜かれてて。ほんと、契約とってこないと嫌味ばっかり言われまして。奥さん、お願いしますー」
『あの、ほんと、もう……』
「ダメですかねぇ。お試し期間分の契約だけでもしてもらえませんかね」
『けっこうですから……』
「ほんっと、おねがいします。人助けだと思っていただけませんか? うちの新聞、けっこう読まれてますから」
『あのぉ……』
吉野の演技力に押されて、インターフォンの向こうで怖気づく気配と僅かに苛立ったような気配がする。
にやり、と吉野が笑った。
「おねがいしますぅ。おねがいしますよ、奥さん。このままじゃ私、会社に戻れないんですよ」
『もう、いい加減にしてくださいっ』
勇気を振り絞っての抗議のあと、通信は切れた。
吉野の笑みが濃くなる。
何をするのかと思えば、インターフォンを再び鳴らした。
5秒ほど反応を待ってもう一度押す。
それを数回続けた。
すると、ドア越しにも荒い足音が聞えてきた。
吉野が一歩下がり、日高に視線で合図を寄越した。
ガシャンとチェーンを外す音がして、鍵が開けられる。
ドアが開くまでのほんの少しの時間、吉野の笑い声が日高の耳に届いた。
「うるっせぇんだよ! 痛い目にあいてぇのか!」
怒声が開こうとするドアの向こうから飛び出してくる。
吉野の手がドアを手前に引き、同時に内側から蹴り付けた。
勢いを更につけられたドアが凄い勢いで開き、内側から押していた井田の体が零れるように廊下に出てきた。
「なっ!?」
慌てて起き上がろうとした井田の頭を吉野のごつい靴が押さえつける。
拍子に顎を強かにコンクリートの廊下に打ちつける。
「甘ぇよ。井田」
グリグリと足を動かして酷薄に言い放つ。
何事かと出てきた女には日高が応じた。
ポケットから取り出した警察手帳をちらりとかざす。
「本庁の刑事です。貴方にもお話うかがいたいんですけど、準備していただけますか?」
日高の言葉に顔色をなくしながらも、女は深く頷いた。
井田は吉野の足の下で大人しくなって、ちくしょうと悔しそうに言葉を零した。
奥の部屋へと引っ込もうとする女が、背を向ける前に吉野をちらりと見た。
吉野の目もそちらを見ていた。
「……」
何か言おうと開いた吉野の唇は、結局何も女に伝えることなく引き結ばれた。
「立て、井田」
硬い声は井田に向かって吐き出された。
日高の方を見ることなく、吉野は自分のコートの中から手錠を取り出し静かに井田の手に打ち下ろした。
お前とするなら、背中合わせの恋くらいが丁度いい。
あんたとなら、純情ぶったキス一つで満足できる。
そんな間柄で丁度いい。
2001/09/22
Rised Dragonのサイドストーリーです。
こういう女性を書きたかったのですよ。美和とはまた違った人が。
達郎が自分で手に入れて打った覚醒剤はこの人からという設定がずっとあったのです。
この人はこれから、現場でばりばりやってって名前を聞いただけで恐れられる人になって、管理職になって、荒くれ者を管理するすんごい女傑課長になる予定です(笑)