「なんだ。今日は、坂井は遅刻か?」
開店前のブラディ・ドールのカウンターに腰を降ろした川中が、店内を点検していた高岸に声をかけた。
いつもなら、川中にシェイクしたドライ・マティニィを黙って差し出すのだが、今日は姿すらない。
トラブルのとかく多いN市ではあるが、事件が起きているという情報は入っていない。
「みたいですよ。今、下村さんが連絡とってます」
高岸が答え終わらないうちに、控え室からタキシード姿の下村が現われた。
左手には白い手袋。
以前立野が「結婚式に遅れた花婿のようだ」と、第一印象を語ったことを思い出して、なるほどと思う。
「社長。いらしてたんですか」
「あぁ。今晩のドライ・マティニィにはありつけるのかな?」
「駄目みたいですよ。来る途中で、バイクで釘踏んじまったらしいです」
川中と会話をしながら、その視線は店内をくまなく見渡していく。
「修理に出してから来るそうですよ」
問題なしと見たのか、カウンターに近づいて、コツコツと硬い音をたててカウンターを何度か叩いた。
「おや、今日は天使は欠勤かな?」
背後から声を掛けてきたのは沢村だった。
開店前のソルティ・ドッグをやりに来たのだろう。
「遅刻だそうだよ。先生。天使が現われたらソルティ・ドッグを届けよう」
2人の会話を聞いていた下村が、ふいに顔を顰めてみせた。
「天使の話し、俺、お2人にしましたっけ?」
当然のように連呼されていた坂井の呼称は、下村と桜内、そして当人しか知らないはずだった。
下村も、揶揄するように「天使」を連呼していて、鳩尾に鉄拳という返事を戴いてからは自粛している呼びかた。
少なくとも、第三者のいるところで、坂井を天使と呼んではいない。
当然坂井が自分から暴露するわけがない。
と、なれば……。
「ドクから聞いた。面白い話しがあるって。実際聞いたら面白かったよ」
笑いを含んだ川中の言葉に納得した。
確かに、面白い話しではあるだろう。
「私はキドニーから聞いたよ。厄介なコンビになりそうだってぼやいてたな」
「宇野さんも知ってるってことですか……」
いつの間にか広まっていたらしい。
下村自身は、別に照れることもなく、他人事のような顔をしている。
このへんがパリ仕込みの思考回路なのだろうか。
コツンと、カウンターを一回叩き、口元に堪えきれない笑いを浮かべた高岸を義手でどつくとその場を去った。
店内が込み始める頃、ブラディ・ドールのバーテンは出勤して来た。
ボータイを締めている間は、「まいった」という不機嫌そうな表情だったが、カウンターに顔を出した途端、そんな感情は隠してしまう。
珍しく、開店後のスツールに座っている川中を目に入れると、小さく頭を下げた。
「お待たせしました」
一言だけ断ると、手早くシェーカーを振り始める。
「災難だったな」
「いえ」
「沢村さんも、お待ちかねだ」
短く答える間に、店内の様子をざっと見回しグラスにドライ・マティニィを注ぐ。
間髪置かずにスノースタイルのグラスを作り、ソルティ・ドッグを注ぐ。
見事な手際だ。
ボーイがそれをピアノの沢村のもとへともっていく。
沢村が、軽く坂井を振り返りグラスを掲げる。
それに、会釈で応えた。
「お前が来る間に、お前の話しをしていたんだ」
意地悪く川中が坂井の気をひこうとする。
ボーイのとってきたオーダーのカクテルを作っていた坂井の手が一瞬だけ止まった。
カウンターではあまり感情を見せない目が、困惑気になる。
その様子を見た川中が、楽しそうに笑みを湛えたまま告げる。
「天使の話しさ」
グラスに傾けていたシェーカーから一定の量で流れ出していたカクテルの流れが一瞬、大きく揺れた。
危うく零れるところだ。
動揺の具合は激しいらしい。
ともかくそのカクテルをボーイに渡してしまうと、ギンッと、擬音語が聞こえるような視線が、澄ました顔でフロアの一角に佇むマネージャーに向けられた。
「あの野郎……!」
忌々しそうな口調は、ほとんど動かない口唇から発せられた。
殺気さえ孕むような視線に気付いたのか、下村が白い手袋をした左手を自分の肩口でパタパタと動かして見せた。
黒いタキシードに浮かび上がる白手袋は、遠目には本当に小さな羽のように見えた。
その仕草から腹が立つ。
煽るように下村は片目を閉じたりなんかして見せた。
「恥ずかしい野郎だな!」
手はオーダーを消化しながら、視線はいつもならくまなく店内を巡るところだが、今ばかりは、気障ったらしいフロアマネージャーに向けられている。
ポーカーフェイスのはずの下村が僅かに口元を綻ばせる。
「くそ、ガキ扱いしやがって……!」
口唇は相変わらず動いてはいないが、目がより雄弁に下村への罵言を表す。
そんなやり取りも、込み合う店内では長く続かず、新しく入ってきた客の下へと下村は移動する。
坂井も、カクテルの注文が殺到し、しばらくは無言のままシェーカーを振り続けた。
閉店間際の店から、最後の客が去ると、ちょうど川中が他の店を回って帰ってきたところだった。
「キドニーの言う通り、いいコンビじゃないか」
カウンターの沢村お隣に並んで腰を降ろす。
先刻のコンタクトを見ていたのだろう。
沢村がカウンターで無表情でワイルドターキーを注ぐ坂井を上目で見上げた。
「あんなのと組んでたら体が幾つあっても足りませんよ」
素っ気無く言ってみせる。
下村は、駐車場を見回っているのだろう。
姿はない。
「でも、よく一緒につるんでるじゃないか」
珍しく表情をころころ変える坂井が面白いのか、川中もからかうような調子で話題を変えさせない。
「下村とつるんでる時のお前の顔はいい顔してるよ。年相応と言うのかな。見ていて安心するんだ」
そんな言い方をされれば、坂井が何も言えなくなることを川中は知っているのだ。
言い返す言葉を見つけられないまま、坂井はグラスを磨いている。
「よう、天使。災難だったな」
俯き加減で手を動かしていた坂井の手がピタリと止まった。
下村は、そんな過剰反応を一切気にしていないらしい。
いや、楽しんでいるのだろう。
沢村の隣に腰掛ける。
「……下村……」
グラスを置いて、坂井が身を乗り出してくる。
「あのなぁ……」
「もう、すっかり噂らしいぜ?」
「そういうことを言ってんじゃねぇよ」
「噂はちょっと歪曲して伝えられてるよなぁ」
坂井の言葉は無視して、下村は話しを続ける。
手袋をしていない右手で、鋭角を刻む顎を支えている様は絵になった。
「ドクは一つ言い忘れてる」
坂井には、この洒落男の言いたいことがなんとなくわかったのだろう。
それ以上喋るなと目が言っている。
「黙れよ、下村」
「所有格を一つな。なぁ、俺の天使」
「俺の」を強調して下村が坂井を覗き込む。
川中も沢村もさすがに呆然としている中、悠然と笑っていた下村の顎に瞳にも止まらぬ早さで鉄拳が飛んできた。
が、それさえ予想していたのか、バーテンのしなやかな指を折り曲げてつくられた彼の生身の右手に止められていた。
「その鳥肌がたつような言い方止めねぇと、右手にも義手つけさすぞ」
「事実は事実だろう? いろんな面で」
受け止めた拳に素早すぎる口付けがされる。
「………しもむらぁ!!」
頬に朱を刷いた坂井が怒気を露わにカウンターを飛び出す。
本気らしい坂井から下村は呑気に笑いながら逃げ出した。
その数秒後、駐車場に立っていた高岸が血相を変えて入ってきた。
「社長! い、今、坂井さんが凄い形相で、笑いながら逃げていく下村さんを追いかけて行ったんですけど……!」
兄貴分に当たる連中のご乱心に泡をくったのだろう。
「気にするな。高岸。お前の兄貴達もまだまだ若いってことさ」
喉の奥を震わせ笑う社長の言葉に曖昧に高岸は頷いたのだった。
「坂井は下村の天使なんだとよ」
その後、坂井=下村の天使説は瞬く間にN市に広まり、揶揄に逐一赤面してみせる坂井と顔色を変えないフランス帰りがいたるところでからかわれたとか。
2000/12/04
天使説をしつこくいじってみたかったので、いじってみました(笑)
あの発言を社長が楽しまないはずがない。そして、(酒に酔った)ドクが言い触らさないわけがない(笑) うんで、しもむーは割と平気な顔してそうだし……。で、こんな幼い照れ屋な坂井になってしまいました。やまもおちも意味もない……。