ケイと敬が行方不明になったのは、年明けのまだ寒い季節のこと。
事件発覚のその日、坂井は機嫌が非常によろしくなかった。
昨夜、下村と喧嘩をしたのだ。
喧嘩なんかしょっちゅうのことだが、昨日は珍しく下村の方が部屋を出て行った。
いつもなら下村に呆れた坂井が、部屋を飛び出しどこぞの家に飛び込んで「家出か?」とからかわれるのだが。
昨夜は下村が無言のままで部屋を出た。
発端は坂井の面倒をみている連中のこと。
あんまり構うなと言う下村の嫉妬に、坂井が食ってかかったことが始まりだった。
言い合いはやがて意地の張り合いになり、下村は常套手段で坂井を押し倒した。
そこで坂井の怒りはリミッターを振り切って、ぷつりと何かを切った。
がつんと手ごたえを感じた時には、下村は左の頬を押さえて体を離していた。
「勝手にしろよ」
低くそう言い放つと、上着も持たずに部屋を出て行った。
釈然としないままの気持ちを抱えて一晩。
ろくに寝ていない。
そんな坂井のアパートのインターフォンを、誰かがしつこく鳴らしている。
下村かと思ったが、あいつならインターフォンは鳴らさないだろう。
新聞か何かの勧誘ならガンつけて追っ払ってしまえばいいと、坂井は起き上がってドアの向こうに怒鳴った。
「っせぇな! 近所迷惑になるじゃねぇ……か……」
と、勢い勇んで開けたドアの向こうにいたのは、坂井の剣幕に硬直した少女だった。
「……え、アレ? 安見だったのか。ワリィ」
大きく見開かれたままの少女の瞳の前で、坂井はばつが悪そうに言い訳した。
「びっくりしたぁ。ごめんなさい。朝早くから」
「いや、悪かったな。で、どうした?」
苦笑いを浮かべると、ほっとした表情を安見が見せる。
それに安堵して、坂井は話を促してやる。
安見が坂井のアパートを訪ねることなどない。
しかも、こんな早朝。
何か頼み事か厄介事があるのだろう。
「ん、あのね、坂井さん。ケイ……見なかった?」
不安そうな上目遣いで見上げられ、坂井は眉間に皺を刻んだ。
「ケイ? 見ないけど、ひょっとしていなくなったのか?」
坂井と下村とも短い間ではあったが一緒に暮らした、今では秋山家の立派な番犬になっているゴールデンレトリバーを思い出す。
坂井に何故かやたらと懐いて、坂井もその犬を随分可愛がってやったのだ。
下村と同名の、綺麗な毛と賢い頭を持つ犬だ。
「そうなの。昨日の夕方に、ご飯をあげようとしたら、千切れた首輪が残ってて……」
今にも泣き出しそうに歪む瞳に、坂井は動揺してしまう。
少女と言う生き物の表情の変化は、どこか過剰に見えて気をまわしてしまう。
「帰って来てないのか?」
「そう。パパとママにも言ったんだけど、二人ともホテルとお店があるし。パパが坂井さんに頼んどけって」
ちょうどいいのがいたと思ったのだろう。
秋山も。
坂井が、安見の頼みを無下にできないのを承知しているのだ。
「わかった。手伝ってやるから、ちょっと待ってろ。着替えてくる……って、寒いな。上がってろよ」
冬の早朝。
寒さが肌をさす。
安見を招き入れて、セーターを頭から被る。
覚悟して外に出なければ、凍えてしまいそうだ。
革ジャンを取ろうとして、その隣に下村のコートがあるのに気が付いた。
あいつは、どうしたのだろうか。
上着も置いて。
昨夜は随分冷え込んだ。
ドクのところかどこかに上がりこんだのだろうか。
「坂井さん、下村さんは来てないの?」
坂井の心情を読んだかのようなタイミングで、安見が声をかけてきた。
思わず、ドキリとしてしまう。
「あ……下村は、昨日は帰った」
歯切れの悪い坂井の返事に、何か勘付いたのだろうか。
「ふうん」
意味深な相槌を打って流した。
侮りがたし。
何か言いたそうにする視線を誤魔化して、坂井はバイクのキーを手にとった。
バイクの方が機動性は高い。
「散歩のコースなんかは見てきたんだけど……」
「わかった。安見は家の周りを探してろよ。俺は、ちょっと遠出してみる。一時間後くらいに家に電話してやるから」
そう告げて、坂井はバイクを発進させた。
バックミラーに不安そうな面持ちの安見を残して。
街中を探したような気がする。
バイクの燃料が心もとなくなった頃、何度目かの電話を安見にいれた。
見つからないのと言った安見の電話越しの声が、今にも泣き出しそうなことに気が付いて、ドキリとする。
『車に轢かれたりしたら……どうしよう……』
朝には見えなかった弱音が吐き出される。
「大丈夫だろ。アイツ、賢いから車に寄ってったりしねぇって。はしゃいであちこち遊びまわってるうちに、帰り道忘れちまったんだろう」
慰めの言葉をどうにか探して、茶化すように言うと鼻をすすりあげるような音。
『そうよね。坂井さん、ごめんなさい』
「俺はいいから。お前、もう休めよ。明日、学校だろう?」
店は、今日は休みだ。
安見は申し訳なさそうに、礼を繰り返して電話を切った。
回線が切断されると、ほうっと溜息が漏れた。
随分小さな頃から見てきた少女が沈んでいるのを見るのは、辛い。
それに、自分に懐いていた犬のことも不安ではある。
安見には大丈夫だと言ったが、実際確信があるわけでもない。
最悪の場合、安見の言った通り、事故にあっている可能性だって否定はできないのだ。
ズキっと、胸の奥が痛んだ。
「……あ……」
探していたのは、ケイだけじゃなかった。
無意識に、探していた。
見つからなかったけれど。
……すげぇ、やな感じ……
それは不安とは少し違って、坂井の胸内をさらに締め付ける。
陽もすっかり落ちた道路の端。
車の通りも少ない。
何故か、独りだと言うことを思い知らされる。
何時だって、心は独りだ。
なのに、なんだ、この淋しさ。
「……くそっ」
わけのわからない感情に毒づいて、坂井は煙草を銜えた。
ジッポの石を擦る音の向こうに、エンジン音が聞えてきた。
車のものとは違う。
バイクだ。
走ってきたバイクは、坂井に近付くに連れてスピードを緩めてきた。
坂井の方をじっと見ている。
確かめようとしているように。
そして、とうとうバイクは停車した。
「坂井さん?」
ヘルメットのシールドを上げた青年が声をかけてきた。
「カズか?」
坂井が面倒を見ている青年の一人だった。
二十歳そこそこの青年で、年齢の割には落ち着いていて連中のリーダー的な役目をする一人でもある。
「何してるんですか? 今日、ずっと飛ばしてたでしょう? みんな、何かあったんじゃないかって心配してますけど」
そう言えば街中を飛ばしている時に、何台か見知ったバイクと擦れ違いはした。
真っ直ぐ坂井を見る眼には、何か手伝えることがあるなら手伝いますと大書してある。
真っ直ぐすぎる青年でもあるのだ。
「別に大した事じゃねぇよ。知り合いのとこの犬が逃げちまって、それを探してるだけだ」
そんなこと、と言うわけではないが、連中に頼むことでもないと思っていたのだ。
が、
「手伝いますよ。一人で探すよりは、見つかる確立あがると思います」
間髪置かずに、カズは言い切る。
それはそうだが……
「あんまり騒ぎにしない方がいいんなら、人数絞って探しますし」
気を回すカズの言葉はありがたいのだが、不意に脳裏に下村の怒った顔が浮かんだ。
なんで?
浮かんだ顔に、むっとしてしまう。
『あんまり、俺を妬かせるなよ。坂井』
その眼が笑っていない分、むかついた。
言い方が、まるで自分がこいつらをたぶらかしているようで。
「迷惑なら、大人しくしてますけど?」
黙り込んで眉を顰める坂井を気遣ったカズが、そっと声をかける。
「あ、いや。頼む」
カズがほっとした顔を見せる。
「で、どんな犬なんです?」
「ゴールデンレトリバーってヤツ。毛が少し長くて、金色の」
「首輪とかの色は?」
「首輪、千切れてるんだ。名前は……ケイって言う」
ちょっと口篭もって伝えた瞬間、シールドを上げただけのカズの表情が複雑な色を見せる。
「ケイ、ですね。じゃ、見かけたら捕まえて連絡します」
その表情の真意を理解する前に、カズはシールドを下ろしてバイクのエンジンをふかして走り去った。
「……なんなんだよ……」
力ない言葉が、知らず零れた。
深夜の海岸を一頻り探してから、坂井は帰途についた。
アパート前の駐輪場から、部屋を見上げる。
電気の点いていない自分の部屋。
店があれば、会えたのだろうかとふと考える。
振り回されている自分に気がつくと、たまらない気分にさせられる。
人気のない部屋の電気を点けると、殺風景と言うほどではないが、どこか物足りない部屋が照らされる。
置いていかれたコートが、ソファーの背にかかっているまま。
流石に疲労の溜まった体を、ソファーに沈める。
自分以外の人間の匂いが、ふわりと鼻をかすめた。
自分に何気なさを装うように、坂井は投げ出した指先に触れたコートの裾を掴んで引き寄せた。
「……どこほっつき歩いてんだよ」
持ち主の代わりに、黒い仕立てのいいコートにぼやく。
一日空けていた部屋は冷たい空気に満たされて、坂井の体を震わせた。
2001/01/16
下村家出話しです。ついでに、「DOGS」の犬のケイちゃんも家出です。シモム、今回は登場シーンほとんどなし(笑)次は出てきます!