それが僕らの始まり (後)



そんな意味を含んだ視線だった。

愛おしさと欲望を混ぜ合わせたような視線。
あからさまにそんな視線を向けられて、気付けないほど子供でもないし初心でもない。
素知らぬ振りを通せるほど大人でもないし枯れてもいない。
冗談じゃないことは、坂井が一番よく知っていた。
下村が、自分に向ける視線の意味に。
最初はおかしな野朗が来たものだと思っていた。
だんだん、目が離せなくなって、気が付いたらこの様だ。
自分の気持ちに整理もつけれていないのに、下村はいきなり坂井の懐に飛び込んできた。
目を反らさせないように。

嫌いじゃない。
嫌じゃない。
煩わしくもない。

考えられたのはそれだけだ。
仕事場が一緒になって、プライベートも一緒でそんな風に思えると言うことは、まんざらでもないらしい。
それが恋愛感情に繋がるかどうかは、まだわからない。

独りになった店内で考えられたのはそれだけだった。
ボータイを外して、ベスト姿から普段着へ着替え、戸締りに掛かろうとした時にコンビニの袋を提げた下村が帰ってきた。
この時間では空いている店の方が少ない。
飄々とした下村に安堵しながら、坂井は戸締りを終えるとスカイラインを転がして帰途についた。

無事に部屋まで帰り着いて、美味いとも不味いともとれないコンビニ弁当をかき込んだ。
日付はとっくに変わってはいるが、いつものように一日が終わろうとしていた。
なんだか、妙に周りにペースを乱される一日だったなと、風呂から上がって坂井は溜め息をつく。
自分の髪の毛をガシガシと拭きながら、何故だか憂鬱になってしまう。
それもこれも、野朗の自分なんかに惚れちまった下村敬のせいだ。

「あー。さっぱりしたぁ」
このいつも以上の疲労を下村の責任にしたところで、その責任者が風呂から出てきた。
当然と言う顔をして坂井の前にどっかりと腰を降ろす。
それから、これまた当然の顔で坂井の手中の缶ビールを奪い最後の一滴まで飲み干す。
「………」
坂井の中で復讐の火が静かに燃え始めた。
下村の頭を、思いっきり力を込めて拭いてやる。
限りなく擦りゲンに近いその乱暴さに下村が、悲鳴をあげた。
「痛っ!! さかいっ、いてぇって!!」
身を捩って坂井の手中から逃れようとする。
「動くな! 甘ったれやがって。俺が根性叩き直してやる!!」
「いてぇっ。マジでいてぇって。坂井!!」
逃げたところでテーブルに肩をぶつけて更に呻くことになる。
「性質の悪い冗談を宇野さんたちの前で吠えるからだ」
「冗談じゃねぇのになぁ」
不意に下村の声の調子が真面目なものになって、逃げるのをやめる。
湯上りのまだ火照る腕が伸びてきて、力任せに引っ張られ、視界が一回転する。
驚く間もなく、視界に天井………その下に下村が現われる。
これは、ひょっとして、押し倒されたというのだろうか。
「坂井」
真剣な呼びかけ。
できれば聞きたくなかった。
この状況は半分自業自得。
今日は厄日だ。
「………んだよ」
「好きだよ」
さらり。
あっさり。
さっぱり。
まったく、この男の思考だとか羞恥心はどうなってるんだろうか。
フランス帰りの言動は理解不可能。
「………気付いてた癖に焦らすからいけないんだぜ? 甘やかしてくれるのも尚悪い」
至近距離で囁きながら、下村は坂井の上に跨る。
「好きだ。抱かせろ」
「ちょ………、待て。それは早すぎるだろう!!」
「やだ。はっきり言って、我慢の限界。抱かせろ」
なんて単純で早い展開。
呆れて物も言えずにいる坂井の口唇に、下村が口付けてきた。
しっとりと熱い、煙草の苦味のあるキスは軽く、坂井はきつく閉じた双眸を薄っすらと開いた。
「逃げないのか?」
開いた目を見据えて下村が問う。
「………逃げて、いいのかよ」
「死ぬほど嫌なら」
まだ濡れた坂井の髪の毛を掻き上げる下村の顔に過ぎる、傷ついたような影。

あぁ、そうだよ。
嫌いじゃない。
嫌じゃない。
煩わしくない。
じゃぁ、なんだ。
嫌いじゃないなら、好きなんだろう。
もう、こうなれば男らしく認めてしまえ、坂井直司!!

「逃げない」
「どうして?」
「……嫌いじゃないから」
満足そうに曲線を描く口唇が、近付いて触れる。
また、触れるだけのキス。
やけに優しいなと思っていたら、ひんやりとした感触が脇腹を這った。
その冷たさに躰が竦む。
ブロンズの左手に気を取られていたら、温かな舌が首筋を這った。
………そういや、さっきこいつはなんと言った?
『抱かせろ』?
「ちょっと待て! 下村!!」
ムードもなにもあったものではない怒鳴りに、その気になっていたらしい下村は眉根を寄せて、
「なんだよ」
とぼやく。
「なんで、俺が抱かれなきゃなんねぇんだよ」
往生際悪く顔を近づけようとする下村の額を、両手で押し退けようとしながら坂井が異議を申し立てる。
すると、下村が驚いたようにまじまじと坂井を見下ろす。
「おかしいだろう? 俺もお前も男なんだから、俺が抱かれなきゃならない理由がない」
まるで、坂井の言っていることが理解できないとでも言うような顔を、下村は惜し気もなく晒してくれる。
その間抜け面は楽しいが、できればもっと違う状況で拝みたかった物だと思う。
「それは、お前が俺のことを抱きたいってことか?」
「他にどうとれる」
「お前が俺のことをそれだけ好きだって」
「なんつー、思考回路してんだよ。お前は」
組み敷かれたまま、坂井は脱力する。
「まぁまぁ」
「まぁまぁ、じゃねぇよっ!! やりたいなら女にやらせてもらえ!!」
「なんで、相思相愛になった早々、他の奴を抱かなきゃなんねぇんだよ」
「こんな時に、まともなこと言い出しやがって」
「坂井………」
「うるせぇ!! 絶対に嫌だ!!」
坂井は喚いて本気で下村の下から逃れようとするが、腹の上にどっかりと座られていればどうしようもない。
悠然としていた下村が、不意に目を見開いて上半身を折って、坂井の鎖骨の上に頭を落とした。
「ぐっ………。鳩尾入ったぞ………」
「ざまぁみろ」
心の底からそう言い放つ。
「なんだよ。何がそんなに不満なんだ。まさか、プラトニックな恋愛をしたいわけじゃないだろう?」
「だから、抱かれるのが嫌なんだよ!!」
「でもこの状況を見れば、お前が抱かれるのが自然というか、一番理想だろう」
そりゃ、お前の理想の話だろう。
尚、足掻く坂井に、もう何を言っても無駄だと判断したのか、下村は実力行使に及ぶことにした。
勿論、坂井に暴力を振るって黙らせて事に及ぶわけではない。
そんなことをしたら、明日は沖田蒲生記念病院前の海にプカプカ浮いていることになるかもしれない。
実力とは、つまりのところ、ベッドテクニック。
さっきの続きとばかりに、下村は坂井の首筋に口唇を押し付け、張りのある肌に歯を立ててやる。
「人の話、聞けっ」
罵る坂井の声が乱れる。
上半身には何も羽織っていないから、直に肌が触れ合っている。
だから、坂井の躰が強張ったのが下村にはダイレクトに伝わる。
歯を立てた箇所を、今度は丹念に舐めてやる。
「下村っ。やめろ!!」
必死に抵抗しようと、下村の肩を突っぱねるようにして押そうとしている。
その腕に掛かる力が僅かに緩んだ。
左腕の肘を突くことで躰を支え、右の生身の手で坂井の脇腹に触れる。
それから、舌を鎖骨に移動させる。
ちらりと、坂井の表情を覗うと、口唇を噛み締めて下村の手淫に耐えようとしている。
野朗の欲情している顔なのに、妙にそそる。
噛み締めた口唇を舐め、右手で胸の突起に触れてみる。
多少の差はあるが、男も女と共通する部分はある。
それに、聞いた話しだが、女に比べて、男は快楽や苦痛に弱いらしい。
例えば、男が出産の痛みを感じたら、気絶してしまうほどだとか。
「………あっ」
坂井の口唇から坂井の声とは思えないほど艶のある声が漏れた。
ぞくりと、下村の男の本能に火がつく。
探るようだった手付きが、突然乱暴になる。
遠慮のない愛撫に、坂井は抵抗をやめていた腕をもう一度持ち上げ、下村を押し退けようともがき出す。
その、抵抗が先程のものより激しく、手に負えなくなって、下村は一度愛撫の手を止めた。
躰を起こし、坂井の表情を見ると、先程の艶っぽい表情は消え去り、目にはどこか醒めた、そして怯えた色が浮かんでいた。
似合わない表情だと下村は思う。
静かな部屋の中で、二人の荒い呼吸だけが聞える。
「………わりぃ」
そこまで、嫌がられてはこれ以上は無理強いできない。
第一、坂井にこんな顔をさせたくはない。
「そんなに、嫌がられるとは思ってなかった」
傷ついた声音。
まるで、叱られた犬のようだ。
「………嫌いになるなよ。坂井」
性欲だとかは置いておいて、下村はぎゅうっと坂井を抱き締める。
肩に顔を埋め、優しく抱き締める。
緊張したままの坂井から力がふっと抜けていく。
暫らくの沈黙。
「おい」
「ごめん」
「女じゃないんだから、今更嫌がるかよ」
「思いっきり嫌がってたじゃねぇか」
「痛いんだよっ」
がばりと下村が顔を上げ、坂井が怒鳴る。
「へ? どこか打ったか?」
「違う!!」
突然、元気になって吠え始める。
「じゃ、痛いってなんだよ。まだ挿れて………痛っ」
元気どころか凶悪さまで戻ってきたらしい。
「………痛かったんだよ」
不意に呟かれた一言。
坂井の口唇は動いていない。
こんな時に腹話術かよと呆れた下村が数秒後、その呟きの真意に至って坂井をマジマジと見下ろした。
応じて反らさない坂井の眼は怒ったようなきつい眼差しを下村に向けている。

坂井には2年間の塀の向こうでの暮らしがあった。
放り込まれた当時21,2。若い。
若いし、下村のフィルターの掛かった目を通せば、坂井は可愛い。
そんなこんなを考えていると、坂井の「痛かった」の「た」の一文字が持つ意味が見えてくる。

「そんなにか?」
「滅茶苦茶だ」
睨み上げてくる坂井の眼に殺気が過ぎった。
苦い経験からの拒絶だったのか。あれは。
「じゃ、抱かせてくれないのか?」
お預けを食らった子犬は項垂れ、実に情のない声を出す。
面倒見のいい坂井の庇護欲を擽る。
「………………………………………………痛く、しないなら」
坂井直司、おそらく今世紀最大の失敗。
庇護したい奴にこれから抱かれなければならないのだ。
これほど、哀れな自業自得もない。
「任せろ。じれったいほど優しくしてやるから」
それはそれで問題だし、下村の言葉にもイマイチ信憑性がない。
なにより、口元に浮かんでいる笑みがいただけない。
「痛くしたら、金輪際俺に近付くことを禁ず」
「………頑張る」
「マジで俺、宇野さんに弁護してもらうからな」
そうなれば、宇野のことだ。
面白がって、何年ぶち込まれるかわかったものじゃない。
「わかったって。ちゃんと、大切に扱わさせていただきます」
また吠えようとする坂井の口唇を塞ぐ。
決して乱暴ではなく、丹念だった。歯列をなぞり、舌を絡め取る。
上手いし優しい。
「………ん」
強張っていた坂井の躰が脱力するのが、素肌を通して伝わる。
「気持ちいい?」
意地悪く尋ねると、ぶんぶんと首を横にふる。
「優しくするから、素直になれよ」
囁くと耳朶に触れる吐息に身を震わせる。
「我儘………」
頬に薄っすらと朱を刷いて、坂井が下村を睨み上げる。
そのきつい目元も潤んでいては威力半減。
下村は喉の奥で笑って、右手を坂井の下肢に伸ばした。
「っ………」
一瞬、坂井の眼に不安が過ぎって下村を見る。
「優しくする。好きだしさ」
妙な説得に坂井が眉を顰め、でも仕方なさそうに苦笑する。
ゆっくりと、坂井の腕が伸ばされて、下村の首に絡んだ。
「仕方ねぇなぁ」
承諾の溜め息。坂井の腕に引き寄せられて口唇が重なる。

その夜、部屋を満たしたのは、甘い吐息と悪態と言い訳と。
ムードもなにもあったものではないけれど、当事者達はそれなりに幸せを味わったのだった。



「下村、今日からお前中に入れ」
開店前のブラディ・ドール。
いつものシェイクしたドライ・マティニィを飲み干した川中が下村を呼んでそう言った。
「わかりました」
下村もそう答えただけだった。
坂井は何も言わずに川中のグラスを下げた。
「随分慣れたみたいだな」
カウンターに置いた下村の義手に眼をやって川中が言った。
「そうですね。あんまり細かいことはまだできませんし、車の運転もまだおっかないですけどね。普通に暮らす分には」
「セックスもできるしな」
子供のような顔をして川中が言う。
下村が思わず坂井に視線を投げ、坂井はさっと背を向け、酒棚に眼をやる。
「証拠はないはずですけどね」
と、下村。
あまり動揺していない当たりが下村らしい。
「うちのバーテンの耳の下。顎のラインギリギリのところに俺のものって書いてある」
弾かれたように坂井の手が自分の首筋に触れた。
坂井の背後で忍び笑い。頬が羞恥で火照るのがわかる。
「素直だな。坂井は」
そんな言葉を残して、川中が席を立つ。
見送りに行こうとした下村にコソコソを耳打ちし、一人で店を出た。
下村が踵を返し、カウンターの坂井の前まで戻り、
「耳、真っ赤だぞ」
声を掛けた。
「うるさい」
背を向けたまま坂井。
「ほんと、素直だな。お前」
「社長と何話てたんだよ」
「聞きたいか?」
「別に」
下村がそんな言い回しをする時にはろくなことがない。
背を向けたままの坂井の襟に下村の右手が伸びた。
ぐいっと引っ張られ、坂井は上体を反らす。
「おまっ、あぶねぇだろう!!」
噛み付く坂井の耳元に口唇を寄せて下村は低い笑いから吹き込んでやる。
「うちの不束なバーテンをもらってくれるか? って言われたから、くださいって答えただけだ」
絶句。
なんつー、思考をしているのだろう。
呆れて物も言えない坂井の項にさり気無く口唇を寄せ、下村は坂井を解放した。
「さーて、仕事仕事♪」
さしてテンションも高くない声で言いながら、下村がゆっくりと店内のチェックに入る。
まるで、ずっとそうしてきた習慣のように。
その姿を視界の端にとめて坂井は盛大な溜め息をついたのだった。
ほんの少しの後悔を吐き出すために。

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砂吐いてくだされば本望。坂井は幼さすぎで、下村が坂井のこと愛しすぎ。
「碑銘」を読み直したら、坂井の素直なこと素直なこと。ポルシェに乗って感動し、マグロを釣り上げ喜び、鉄砲玉であることをあっさり告白し。たまんねぇ。坂井直司。

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