「お邪魔しまーす」
間延びした挨拶をしてから、下村は坂井の部屋のドアをくぐった。
そんなに新しくはないが、想像していたのよりはずっと綺麗な部屋だった。
必要最低限の家具に、部屋の隅に置かれた車雑誌。
台所を覗いても男の独り暮らしとは思えないほど整っている。
食器棚の中には、シェーカーやらの道具と酒瓶が何本か揃っているあたりが坂井の部屋と言う感じだ。
「女、いるのか?」
洗濯物を取り込みにベランダに出ていた坂井が突然の質問に、
「はぁ?」
と返す。
いるわけねぇだろう、と言うニュアンス。
「いや、なんかえらく綺麗にしてるから」
「そうかぁ? まぁ、寝るだけだしな」
「ふぅん。女、いないのか」
「いねぇよ」
取り込んだ洗濯物を抱えて、奥の寝室へ消える。
下村が部屋を見渡しながら煙草を銜える間にまた出てきたところを見ると、洗濯物をきちんと畳むところまではしていないのだろう。
「ま、暫らくは同居ってことになるんだから、適当にくつろげよ」
「お世話になります」
片手に煙草でペコリと頭を下げる。
「おう。お世話してやるよ。することがあれば、な」
自分も煙草に手を出して、銜える。
ジッポに手を伸ばしかけて、坂井は下村の煙草にまだ火が点いていないことに気が付く。
白い左手に挟むようにしてあるのは今時見ないマッチの箱。
手には頭の赤いマッチ棒。
「リハビリ?」
「リハビリ」
チラリと目だけ上げて笑う。
らしくなくぎこちない不器用な手つきで、マッチ箱の側面に棒を擦るつける。
力が入りすぎているのか挟み込まれていないのか、白い手からポロリとマッチ箱が落ちる。
下村は焦った様子はなく箱を拾い上げもう一度挟み込んで最チャレンジする。
また失敗。
坂井は黙ってその手元を見ている。
自分の煙草に火は点いていない。
「お前さ………、ひょっとして………」
「うん。待ってる」
火の点いていない煙草を銜えたまま、当然と言うように坂井は答える。
あまりに当然に答えるので、下村も苦笑して再び、マッチ箱とマッチ棒に挑む。
何度も落とし、何度もやり直す。
下村は焦ることなくのんびりと繰り返し、坂井も何も口出しすることなくその仕草を眺めている。
お互いに火の点いていない銜え煙草のまま。
シュッ………
「「やったっ!!」」
重なる声。
その間で揺らめく小さな炎。
互いの喜びの滲んだ声と表情に、心の内で驚きながらも暫しその炎を見つめていた。
やがて、下村がついっとその炎に煙草の先を寄せる。
坂井もそれに続こうとしたが、小さな炎はあっけなく消えていってしまった。
「………」
「………」
なんとも言えない顔で坂井が下村の煙たなびく煙草を眺める。
その表情が可笑しくて、下村は思わず笑い出しそうになる。
それを堪えて、
「ん」
と、火の点いた煙草の先を持ち上げてやる。
坂井が一瞬嬉しそうに目を細めて、すいっと顔を近づける。
間近にある坂井の顔を下村は見つめてみる。
薄い口唇だとか、伏せられている睫毛だとか、焼けた肌に影を落とす鼻梁だとかを。
坂井は気付いているだろうか。
川中の気の利いた申し出に下村が心から感謝していることに。
「天使」の呼称に、告白めいた感情が含められていることに。
煙草の先が触れ合って、ジジっと小さな音がする。
ややあって離れた坂井の煙草にも火が点いた。
二人揃って深く煙を吸い込んで、吐き出す。
いつもと同じ煙草なのに、美味かった。
眼があった。
先に下村が笑った。
つられて坂井が笑い出す。
何も言わずにただ笑い声が響き、二人分の紫煙が狭い部屋の中に充満した。
「これからだな」
坂井が言った。
「これからだ」
下村が答えた。
「………お世話になります」
「………おうよ」
それは、平和な夕暮れ時の事。
「今日、街で面白いものを見た」
カウンターでジャック・ダニエルを舐めていた宇野が、不意に坂井にそんな話しをふってきた。
また、何か騒動が起こるのだろうかと、やや緊張した面持ちで坂井は宇野を見る。
その坂井の視線を受け止めた宇野の眼が、愉快そうに笑う。
どうやら、そういった類の話しではないらしい。
心の中で安堵して、宇野の面白い話しとやらを待つ。
「そういえば、下村はどうした? まだ、中に入れてないのか?」
「えぇ」
「実家が旅館なんだろう? 客の相手するのは慣れてるんじゃないのか?」
「客には慣れていても、左手の不在にはまだ慣れないようでして」
なるほどと、宇野が頷き、またジャック・ダニエルを舐める。
坂井は麻でグラスを磨いている。
「街で見たのは、30くるかこないかの見知った男二人でな」
やっと、本題に入る。
坂井は店内を見回しながら、宇野の言葉に耳を傾けている。
「近所にあるスーパーに入っていった」
そこで、ピタリと坂井の手の動きが止まった。
宇野は構わずに続ける。
内心でその反応を楽しみながら。
「楽しそうに談笑しながら歩いていたのを、美竜会の若い連中が奇妙な顔で見送ってたぜ」
坂井の手が数秒後、再び動き出した。
「そう言えば、坂井。お前、下村と同棲してるらしいな」
またピタリと手が止まる。
それから、言い訳を探すような間があって、微かな舌打ちが聞えた。
正直なところを話してしまえばいいのに、言い訳なんぞを考えようとしていた自分に腹がたったのだろう。
「同居、です。社長が下村が義手に慣れるまで面倒を見てやれと言うもので」
口唇を動かさずに説明する。
動揺している証拠なのだろう。手も動いていない。
「まぁ、お前は面倒見がいいからな。下村もお前には随分懐いてるじゃないか」
「懐いてるって………」
「お前も大分気を許してるな。まったく、川中も厄介な奴らを組ませたもんだ」
宇野はそう言って、またジャック・ダニエルを舐めた。
坂井も何か言いた気な雰囲気を見せたが、結局何も言わずにグラスを磨き始めた。
「やぁ、キドニー」
そこへ、沢村が姿を見せた。
「こんばんは。沢村先生。ソルティ・ドック」
気持ちを切り替えた坂井が、鮮やかな手並みでスノー・スタイルのグラスを作る。
その、手元を見ながら沢村が低く笑った。
「どうしたんです? 先生。御機嫌ですな」
「いや、違うよ。キドニー。ちょっと面白い話しを聞いてね」
ちらりと、沢村が坂井に悪戯な視線を寄越す。
嫌な予感とやらが、坂井の肩眉を跳ね上げさせる。
「さっき、控え室で下村と話していたんだがね」
明らかに坂井の表情が変わった。
どこか、若さを感じさせる青い色の表情。
それが面白くて堪らない。
沢村と宇野は、坂井の眼を盗んで互いに忍び笑った。
「随分器用だそうだね。バーテン以外の職業でもやっていけると言っていた」
「ほう、例えば?」
もう、聞きたくない。と、坂井は二人に背を向け酒棚に視線を泳がせる。
「美容師だとさ」
「なんだ。坂井は下村の散髪までしてやったのか?」
会話に加わらせようと宇野が意地悪く話しを振る。
カウンターの中では無視を決め込むわけにもいかない。
いや、例え平素であっても、宇野のからかいから逃げることはできない坂井なのだが。
「………髪を………」
ぼそりと、まさに吐き出すように坂井が話しだす。
背中を見せることはやめて、思いっきり俯いたまま前を向く。
いつもは、灯台のように店内を巡る視線も足元に落とされている。
「………あいつの頭、濡れたままだったんで………拭いちまったんですよ」
親切心なんか不用意に出す物じゃないと、坂井は思い知った。
ぐるりと回りに回ってこんなところでボロがでている。
それは、一昨日のこと。
気兼ねのない同居も数日目。
下村は菜摘の言った通り器用で、坂井が想像していたよりもずっとスムーズに何事もこなして見せた。
不便を感じたことがあれば、焦ることなく何度も慣れるまで同じ行為を繰り返す。
左手の不在に絶望するでもなく、あまりに淡々としている。
坂井も下村に何を口出しするでもなく過ごしていた。
あんまりにも手の掛からない下村に対し、らしくない物足りなさを覚えた自分が酔狂だったのだ。
風呂上りの下村が頭からタオルを引っ掛けて出てくる。
冷蔵庫からビールを取り出すその肩に、ポタポタと雫が落ちているのを坂井が見つけたのだ。
お世話になりますと言っておきながら、ちっともお世話になっていない下村の世話を焼いてみたかったのかもしれない。
宇野の言うように、坂井はなんだかんだと言って面倒見が非常に良い。
界隈の悪ガキどもを上手くまとめたりもするし、安見のような健全な少女にも懐かれている。
第一、川中の弟分がつとまるのだ。
面倒見はいいに決まっている。
だから、坂井が下村にすこーしばかり手を焼かされたいと思っても、おかしな事ではない。
「下村」
コイコイと、坂井はソファーに座ったまま下村を手招いた。
下村は素直に招かれる。
「座れよ」
と、坂井がソファーの空きスペースではなく床を指す辺りから、坂井が何をしたいのか下村は察していたのだろう。
ニヤリと笑うとビールのプルトップを押し上げながら、
「うんせ」
と、じじ臭い声と共に腰を降ろした。
坂井の膝の間に体を収めて、ソファーに寄り掛かる。
自分の意図が読まれたような体勢に一瞬、気恥ずかしいさと後悔が過ぎる。
躊躇を感じたのか、下村が頭を後ろに傾けて見上げてくる。
「なんだ、拭いてくれるんじゃないのかよ」
当然のように言った。
下村が初めて年下に見えた瞬間だった。
「………仕方ねぇなぁ」
悪態をつく声に笑いが含まれたが、それを隠すでもなく坂井は下村が被ったタオルを手にして、
濡れそぼった下村の髪が吸った水滴を丁寧に拭い始めたのだ。
「坂井ってさー、足癖は悪いけど手は割と優しげな動きするのな」
「そうかぁ?」
「うん。やっぱ、職業柄ってやつかな? 気持ちイー」
「喉鳴でも鳴らしてみろよ」
そんな他愛もないやりとりをした。
下村はえらくそれが気に入ったらしく、昨日も濡れた髪から水滴を滴らせながら坂井の前に座り込んだのだった。
まさか………まさか、下村がそんな話しを沢村にするとは思ってもいなかった。
「嬉しそうな顔して自慢………、いや。惚気かな。あれは。うん、惚気てくれたよ」
クローズの札の下がった店内から最後の客が去って、ボーイ達が片づけを始める。
坂井も、脱力しきった体に鞭を打って、カウンターを片付け始める。
「おつかれさん」
今日はいつもより(ワザと)長居をしている沢村と宇野の視線を避けるため、首が痛くなるくらいに俯いて作業に没頭していた坂井は、
今は聞きたくない声に身を固めた。
「どうだ。下村。左手の調子は」
「問題はありませんよ。ドクの手術と義手が精巧なおかげです」
宇野に愛想よく挨拶をして、下村は坂井に視線を向けた。
丁寧にグラスを扱う指先に視線を注ぐ。
「………なんだよ」
その視線に気付いて坂井が顔も上げずにぶっきらぼうに問う。
何故か下村と顔を合わせられない自分に、腹が立つ。
「グラスになりたい」
「沸いてんじゃねぇよ」
「あ、ひでぇ。さり気無い告白だったのに」
「沸いてるじゃねぇか」
宇野と沢村が呆れるような軽口の叩きあいの最中、坂井は体中の血が沸くのを感じていた。
沸いてるのは自分の方じゃないか。
こんな野朗の気色悪い、その上性質も悪い冗談に動揺するなんて。
「俺、もう少し時間、掛かるから、お前は頭を冷やしがてら買い物済ませて来い」
邪険に扱うようにしっしと手を振ると、坂井の本心を見抜いたような微笑を浮かべた下村が、へいへいと面倒臭がる素振りを見せて姿を消した。
宇野と沢村の視線が痛い。痛いというか恥ずかしい。
原因の下村がいなくなったら尚恥ずかしくなった。
面白いくらいに項垂れた坂井を肴に宇野は、ジャック・ダニエルを飲み干して、
「ご馳走さん。ま、自分に正直になることだな。坂井」
捨て台詞を残して去っていった。
それは宇野にだけは言われたくない一言だと、坂井は胸内で思う。
だいたい、なんの忠告だ。
ご馳走さんって、他意はないのか!?
「キドニーの言葉じゃないな。まぁ、その通りではあるがね」
「冗談………ですよ」
言った自分の声が僅かに掠れていることにまた腹が立つ。
「冗談に決まってるじゃないですか。俺も、下村もどっからどう見ても、男ですよ。あの野朗、意地が悪いからからかってるんですよ」
宇野のグラスを引きながら、坂井は空笑う。
沢村の澄んだ眼差しが痛い。
「冗談か。そうとってしまえば楽だものな」
言いながら、沢村はアスコットタイに目を落とす。
「まぁ、冗談なのかそうでないのかは下村に聞くといいさ。さて、私も帰ろうかな。ご馳走様」
僅かな笑みを口の端に乗せて、沢村はスツールから降りて姿を消した。
誰もいなくなったブラディ・ドールのカウンターの中で、坂井は独り、グラスを洗い始めた。
躰の中を走る、妙に熱い血と変に冷たい血とを持て余しながら。
野次馬多すぎ。でも、キドニーと沢村先生の会話は好きだ。そして、坂井…ママ化している。嫌がれ、坂井…。