あいのうた 後



 何度かの絶頂の後、意識を失うように寝入った英介は、高山が体を清めてもう一つのベッドに運んでやっても起きなかった。
 疲労の影があるのに、英介の寝顔は微笑んでいるようにも見える。
 バスローブを纏わせた体を丸くして、すぅすぅと安らかな寝息をたてている。
 少し離れて見ると、その体はサッカー選手にしてはやはり小さくて細い。
 額にかかる前髪を払うと、とても同年代には見えないあどけない寝顔が現われる。
 選手にもスタッフにも、ファンにも友人たちにも愛される存在だ。
 そんな存在を独占してしまうことへの罪悪感が、胸の奥で燻っている。
 不意に、バスローブの合わせ目からはみ出した英介の左膝に目がいく。
 今はあるのかないのか判別できない傷がそこにはある。
 セックスの途中には、白く浮かび上がるようだったのに。
 十四歳の時に遭った交通事故で負った傷痕だ。
 サッカー界のエリートとして見られがちな英介だが、幼い頃に大きすぎる壁を乗り越えている。
 その怪我は英介からサッカーを奪いかけるほどの怪我だったらしいと、英介の担当医だった人物とたまたま巡り合ったチームドクターの矢良薫が言っていた。
 矢良はプロになってから怪我をして、選手生命を絶たれている。
 けれど自分は頭もいいし、大学も出ていた。
 だから怪我でサッカーを失っても、まだ救いはあった。
 けれど、サッカーが全てだった十四歳の英介に、他に何があっただろう。
 いじめっ子を打ち負かしたのはサッカーだった。
 自分を自由に生かすのはサッカーなのだと実感していた時期だっただろう。
 休日に、友人と草サッカーをした帰りだったと言う。
 解けた靴紐を結ぼうと歩道でしゃがみ込んでいた。
 そこにスピードオーバーしたバイクが突っ込んできた。
 一晩の意識不明の後、目を覚まし順調に回復したが、足の怪我は全治六ヶ月を要した。
 傷が癒えたとしても、サッカーをできるまでになるかどうかはリハビリ次第だとも宣告された。
 リハビリでは立つのが怖かったらしく、予定の倍の時間をかけたと言う。
 それでも英介はまたピッチに戻ってきて、高山の前に立つ。
 想像もできないほどの苦しみを、英介は思春期に乗り越えた。
 それは確実に英介の血肉となって、生きている。
 ピッチの上の英介を、高山の友人のアマチュア映画監督は殉教者みたいに見えると言った。
 あいつの目もなかなかなもんだなと、矢良の話を聞きながら思ったのだ。
 普段はそんな過去を感じさせない英介の膝に残る、確かな傷痕。
 指先で辿ると、僅かだが皮膚の感触が違う。
 この強さを羨望する。
 そして、愛する。
 隣に立つのに相応しい選手に、男になりたいと思う。
 羽を休めるタイミングは一緒だから、そういう時には思い切り甘やかして大切にしてやりたい。
「英介」
 頭を撫でて起こさないように抱き締めた。
「英介」
 理由はわからないけど、胸の奥から浮かんでは消える不安や小さな恐怖心。
 決して暗澹たるものではなく、人を愛するのに必要な痛みだ。
 その痛みを上回る幸福感がある。
 幸せすぎて、柄ではないが泣きそうだった。



「あー、駄目。マジ死にそう」
 翌日も綺麗な晴天で、神戸レインボーチャーサーとその家族はそれぞれ個別に旅行を楽しんでいる。
 特に家族を持っている選手は、普段はできない家族サービスに思う存分精を出す。
 独身選手も海に出てサーフィンをしたりゴルフをしたりと、それぞれに完全オフを楽しんでいた。
 そんな中、ホテルのテラスで鬱陶しい唸り声を上げているのは片岡昴だった。
 独身の昴には同伴者はいない。
 同じテーブルには、富永真吾。
 富永には婚約者がいるが、彼女はモーグルのノルウェー代表選手。
 今はシーズン真っ盛りと言うことで同伴はできなかった。
「駄目だねぇ。あれくらいで二日酔いなんて」
「……あれで二日酔いしねぇのはどうかと思うけどな」
 昨日富永に潰された昴は、今日は重度の二日酔いで予定していたゴルフをキャンセル。
 ホテルで重い頭と胃を抱えている。
「二日酔いでも元気なのがいるけどな」
 そう言って富永は顎でプールサイドを指す。
 そこにはさっきまで同じテーブルで頭が痛いと唸り声を上げていたはずの矢良が、ブロンドの美女をはべらせてお喋りに興じていた。
「女切らしたことがねぇってマジなんだ……」
 さり気無く腰を抱く手が拒まれることはない。
「天性のたらしだな」
「あんまり言うな。あの人地獄耳だから聞えるぞ」
 視線を外して逆方向を向くと、いつもの取り合わせが仲良くやって来たところだった。
「おう、おはようさん」
「ん? あぁ、おはよう」
 昴も同じ方向に視線を向ける。
「おはようございます」
 ただそれだけの挨拶で、なんとなく高山のテンションが高いことがわかった。
 その手が半歩後ろの英介の手を引いている。
 その英介は、なんとも言えない表情で視線を彷徨わせている。
 わかりやすい奴らだなと、昴も富永も思わず目を合わせた。
「本願達成おめでとう。ウォッカの一気のみは堪えなかったか?」
「……おかげさまで」
 どうせみんなに昨晩のことは知られているだろうから、高山はあっさり返事をするが、英介は俯いたまま運ばれてきた朝食に手をつける。
「やっぱりアレだよね」
 余計なことをこれから言うぞ、という前置きをしたのは昴。
 高山の睨みの牽制が利くわけもなく……
「永遠のサッカー少年も、人の手がつくと色っぽく見えるもんだね」
 英介を観察するように覗き込む。
 英介は頑なに食事を続けている。
 こういうところまで負けん気を発揮しなくてもと思うのだけれど。
「って言うかよぉ」
 富永も余計なことを付け加えますという前置き。
 高山の視線による牽制を牽制とわかっていながら、のらりくらりと交わしてみせる。
「派出なキスマーク」
 ぎくっとした高山。
 ぎょっとした英介。
 二人の目が合う。
「首んとこだけじゃねぇもんな。ここにもある」
 そう言って富永が英介の手をとる。
 腕の内側にくっきりと赤い痕があった。
 半袖だから袖を捲くるまでもない。
 慌てて富永の手を振り解き、そこを隠そうとするが、
「ココも。あ、もう一個」
 指差したのはボタンの外れたシャツから覗く肌。
「……っ!」
 恨めしそうな視線を高山に向けてから、シャツのボタンを留めていく。
「でも首んとこは仕方ないけどな。考えてやれよ、タカ」
「そうだ、考えろ、馬鹿!」
 首を隠したり腕を隠したりと忙しい英介も、ようやく彼らしく罵声を飛ばしてきた。
 ごめんと言う高山も微苦笑を浮かべている。
「せっかくのハワイなのにね〜。泳ぎにも行けないね〜。かわいそうにね〜」
 それは高山も同じだ。
 朝になってみれば背中に無数の蚯蚓腫れと、腕には何故だかくっきりと歯型が残っていた。
「いいもん、別に。みんな知ってるんなら気にしないから! 泳ぐのは体しんどいから無理だけど、キスマークは気にしない!」
 英介は自分に言い聞かすような踏ん切りをつけて、隠していた腕をテーブルに投げ出した。
 英介らしい発言に富永も昴も笑っている。
 恥ずかしがって隠したり気にしたりしている間は色気があるが、吹っ切って堂々としてしまえば色気も一緒に吹っ切られる。
「まぁ、V旅行なんてプライベートだし、手も堂々と繋げるし、お前らはハネムーンだし? いいんじゃないですか?」
 ニヤニヤと笑いながら勝手にしなさいとは言うが、何をしてもからかいの的になるのはわかっている。
 なら開き直った方がいいのかもしれない。
「あーあ。俺は空しいよ。せっかくの旅行なのに一日を真吾によって潰されちゃってさ。俺も薫さんを見習ってみようかな」
「ナンパ? お前英語できねぇだろうが」
「一緒にナンパしようよ」
「ばぁか。愛しのハニーが雪国で頑張ってるのにそんな不埒な真似ができるかよ。俺は土産を買いに行くから、薫さんに遊んでもらえ」
「ヤダ! ぜってぇオモチャにされる。俺も買い物行く」
 幾つになっても変わらない幼馴染同士の喧嘩を繰り広げながら、二人は賑やかに席を立った。
 それを見送る英介の項に、自分がつけたキスマークが目に入った。
 みんなに慕われる英介の体に、自分がつけた痕があるという事実が高山を満足させた。
「みんな遊びに行っちゃったねー」
 二人を見送っていた英介の視線が高山に戻る。
「体、やっぱりしんどい?」
「ちょっと。痛いとかじゃないんだけど、だるい」
「わりぃ」
「なんで謝ってるの?」
「や、どっか行きたいところとかあったかなって」
「いいよ。ハワイで部屋でゴロゴロとか、悪くないじゃん」
 笑みを描く口唇は以前よりも心なしか色っぽく見えるのは気のせいだろうか。
 仕草も言動も変わってないのに。
「薫さんに見つかってからかわれないうちに部屋行こ」
「あれは帰ってこねぇだろ。一晩くらい」
「そんなことねぇって。今日、イチさんが来るもん。絶対に帰ってくるよ」
 相変わらずゴージャスな美女と楽しそうに会話を弾ませているプールサイドのマッドドクターの習癖をすっかり読んでいた二人は、さっさと席を立った。


 部屋に戻ると英介はベッドに体を投げ出して、大きな息をついた。
 言葉の通り、ゴロゴロしている。
「タカ〜」
 散らかった部屋を簡単に片付けていた高山を、英介が呼ぶ。
 振り向けばポンポンと同じベッドの上を叩く。
 ベッドに腰掛けると、腕を引かれて横にならされる。
 鼻先を柔らかな髪の毛が擽って、英介が鎖骨のあたりに額を押し付けてくる。
 薄いシャツ越しに伝わる体温が心地いい。
「気持ちいい」
 ゴロゴロと喉を鳴らしそうな表情で、自分の胸に頬を摺り寄せてくる。
 高山のシャツをぎゅっと握っている仕草は、自分のだと主張されているようで嬉しい。
「タカ」
 返事のかわりに髪の毛を梳いた。
「俺のって、思ってもいいんだよな?」
 真剣な声の響き。
 泣き虫で甘えたで我侭を自称するくせに、そんなことは普段全くない英介。
 もっと我侭でいい、甘えていい、泣いていいと思うのに。
「お前のだよ」
「俺が一番好き?」
「世界で一番、江口英介が好き」
「マジで?」
「そこで疑うなよ。信じるところだろ」
 柔らかい頬を抓った。
 英介は擽ったそうに笑いながら、少し体を引いて顔を見せた。
「俺達、サッカー選手だからさ」
「うん?」
「この先、別々のチームでサッカーすることになるかもしれない」
「うん」
「海外とか、そういうことになるかもしれない」
「うん」
「けど」
「うん」
「俺はずっとタカだけ。タカだけが好きで、タカのいる場所が俺の帰る場所になる。そう、思ってもいい? タカも同じでいてくれる?」
 見つめてくる瞳は真っ直ぐだが、いつもと違うのはそこにほんの少しの不安が見て取れることだった。
 これが男女の恋人ならば結婚で結ばれ家庭を築いていくことで気持ちを形にできる。
 けれど男同士の二人には、そんなわかりやすい表現はできない。
 もどかしさを感じていたのはどちらも同じだ。
 ただ付き合っているだけじゃない。
 それ以上の関係が欲しい。
 男と女で言う、結婚のような。
「ちょっと待ってて」
 高山は英介の頭をくしゃくしゃと撫でると起き上がり、自分の荷物の中から何かを手にすると戻ってきて英介を起きるように促した。
「俺も、同じこと考えてる。俺も、ずっと英介だけだ。男同士で結婚とか日本じゃできねぇし、なんかおかしいんだけど、そうできるものならしたい」
 精悍な顔つきの高山の頬も赤くなる。
「今はまだ自己管理とか自信ないから無理だけど、もうちょっと落ち着いて大人になったら、寮出て二人で暮らしたい。離れて暮らすことになったとしても、安心したいしさせたいし。だから、……っと、その……、言葉おかしいんだけど、これ……」
 最後の方は口篭もりながら差し出した手の中には、サイズの違う二つのシルバーリング。
「安もんだからな。ほんとに安いやつ。しかも、夏木と夏木の彼女ともお揃いだからな」
 高山らしくなく早口になっているのは、高山は本当に照れているから。
「夏木の友達のデザイナーが作ってるって聞いて、頼んでみた」
 幅の広いシルバーリングには流れるような線でイラストが描かれている。
 小さいサイズには太陽が、大きいサイズには向日葵が。
「嵌める人のイメージによってイラスト変えてるんだって。オーダーメイドでやってるって言うから、俺と英介の頼んだらこんなの描いて送ってきた」
 大きいサイズを英介の手の中に落とす。
「籍、とかもな、考えたんだけど……。養子とかあることはあるんだけど、まだそういう器でもねぇし。物とかそういうので縛ろうとは考えてないんだけど、離れたとしても見たら安心できるかなって。俺が」
 英介は呆然としたように高山の怒涛とも言える語りを聞いている。
 大きく見開かれている瞳はあどけなく、言うことを理解してくれているのか不安になる。
「英介」
 不安を押し殺して、特別な想いを込めて大切な名前を呼んだ。
 英介の表情は変わらないが、瞳の輝き方だけが微妙に変化した。
「体は離れることはあるかもしれないけど、俺のこと、一生好きでいてください」
 ころりと手の中で一度転がした指輪を、少し迷って英介の左手をとり薬指に嵌めた。
 英介は暫らく自分の指に嵌まった指輪を見つめていたかと思うと、無言のまま乱暴な手付きで高山の手をとり、同じように左手薬指に指輪を嵌めた。
 太陽に向かって大輪の花を咲かせる向日葵が彫られたそれを。
 そしてそのまま抱きつかれた。
「タカ、めちゃくちゃ考えてくれてたの、嬉しい。びっくりした」
 耳元で、泣きそうにくぐもった声。
「そりゃあ考えるだろ。江口英介に惚れたんだから、どうやって俺のもんだって主張しようかとか、お前のこと好きな人が大勢いる中で一番キープするのにはどうしたらいいかとか」
 抱きとめながら愚痴とも思えることを言うと、本人はやはりわかっていないのか明るく笑っている。
「で、返事は?」
「返事?」
「お前な……。俺はプロポーズのつもりだったんだけど?」
「そんなん決まってるじゃん。タカしかいないよ」

 可愛いなぁとしみじみ思う笑顔を間近で見せて、自らちゅっと口唇を寄せてきた。
 たぶん、そう遠くない未来に自分たちには別離が訪れるだろう。
 世界が江口英介というストライカーを見出す日は必ず来る。
 その時に宣告される、長い別れ。
 それを思うと胸は軋むようだけれど、送り出してやれる自信はある。
 縛り付けたいと思う瞬間は多々ある。
 サッカーよりも高山浩二という人間を優先させるようにすることも、やろうと思えばできるだろう。
 今の職業を捨て、英介を誰の目にもつかないところに閉じ込めておく。
 だけど、そうはしたくない。

 お前らの付き合いは犬飼い合ってるみたいだなと笑われたことがある。
 縛り付けた犬は、ほんの少しの隙をついて自由を探し、それを手にした途端に駆け出して戻ってきやしない。
 けれど普段から鎖に繋がずに育てた犬は、なんの束縛もしなくても自然と飼い主の傍にいて、一声かけるだけで戻ってくる。
 そこにあるのは、信頼という名の鎖だ。
 欲望と理性のぎりぎりのバランスが形成するのが信頼なのかな、なんてことをぼんやり思った。
 そういうのをちゃんと保てるのが、誰かを愛するってことなのかなとか。
 そりゃ食らい尽くすような強烈な愛もあるけれど、そういう殺伐としたイメージのじゃなくて。
 与えたり与えられたりして、馬鹿みたいにじゃれあって甘えあって支えあって、それに加えて自分たちは戦って、愛し合っていくのがいい。

 二人して抱き合って、ゴロリとベッドに転がった。
 常夏の島の日中の強い光が部屋には差し込んできている。
 空調の効いた部屋は涼しくて、触れ合う肌がサラサラしていて気持ちがいい。
 光を受けた英介のチョコレート色の髪の毛は、透き通った赤に見える。
「エースケ」
「なに?」
「サッカーと俺、どっちが好き?」
「同率首位だね」
「だろうな」
 溜息交じりに頷いた高山を英介が笑う。
 笑い事じゃねぇよと思うけど、サッカーと同率ならそれって最高じゃないか?
 そんな風に思い直すと微苦笑が浮かんだ。
 手を握ると指の付根に僅かな違和感。
 普段アクセサリーをつけない英介が、これからずっとつけてくれる高山の所有印。
 笑ってしまうほどちっぽけでちゃちなな証だけれど、大切なのはリングじゃなくて心のリンク。 
 今日は一日部屋でゴロゴロして、夕食時になったらきっとみんなにからかわれて、それをひん曲がった祝福だと解釈して、大きな声で誓ってもいい。

 君を生涯、愛すると。


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プロポーズ編。本当に勝手にしてろ編。英介はいずれ海外に行く予定なので、それを予感して切ないタカさん。つくしてます。

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