ルーツ・コンプレックス 5


 温暖な美菜浜とは言え、一月は冷え込む。朝ともなれば布団と離れ難いが、栄月館の朝は早い。
江戸時代には旅籠と呼ばれていた広大な屋敷で客室として使っているロの字型の棟は、比較的穏やかな目覚めの時を迎える。
 夏場を過ぎれば客足も落ち着くし、元々栄月館に寝泊りする客は年配者が多い。朝は早いが皆、穏やかだ。比べて大月家の暮らす居住棟では戦いのゴングが鳴る。
「四恩! お前、また俺のオカズとっただろ!」
「はぁ? とってねぇよ!」
「だって、俺の卵一個少ねぇもん!」
「二葉、朝からうるさい」
「なんで俺なんだよ、馬鹿兄貴! 俺、朝練あるから行くからな!」
「くっそ、むかつく! 三咲、小食なんだから一個頂戴」
「いーやーだ。嫌だって言っただろ!」
 食べ盛りの弟達が食事をネタに言い合うのは日常茶飯事。
 父はいつもように静観し、四恩は部活のために火種を残したまま家を出る。双子はよく見れば似ている顔を突き合わせて威嚇しあい、やがて時間に追われて慌しく通学していく。
 それが大月家の日常で、その間厨房では栄月館の板前が客のための朝食つくりに追われるのだが、今日はそれもなく比較的のんびりとした朝食風景ではあるのだ。一般家庭のそれに比べてはいけないだろうが。
 一足早く食事を終えた元幸が空にした食器を携え厨房の暖簾をくぐる。
「ごちそうさま。今日は少し遅くなるけど、食事は帰って食べるつもりだから」
 厨房から出てきた元幸の手には弁当包みが一つ。それを見送りに顔を出すのは、もう母ではない。
「じゃあ、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
 背中をバンバン叩いて見送った母の明るさはないが、春海の穏やかさがに送り出される父の表情は嬉しげだ。
「二葉も三咲も、そろそろ出ないと遅れるぞー」
 その穏やかさは弟達に対しても効果があるらしく、母親にどやしつけられながら家を出るよりもずっと素直に茶碗の中身をかきこみ、
「いってきまーす」
 双子らしく声を揃えて飛び出していく。
「あぁっ、もう弁当忘れてる!」
 それを追いかける春海が帰って来てようやく栄月館は鎮まり、一杯のコーヒーを味わう時間を得る。
 縁側に差し込む冬のか弱い太陽光を浴びて目を細める春海は、一臣の来訪を受けた翌月には東京暮らしの名残をスーツケース一つに詰め込んで美菜浜へとやって来た。
 あまりにとんとん拍子に進んでしまった話に、東京の三島店長に電話を掛けて申し訳ないと伝えれば、
「春海、嬉しそうでしょう?」
 と、楽しげな低い笑い声が聞こえてきて、それ以上無粋な謝罪は続けられなかった。いつでも遊びに来てくださいと告げ、大月家は懐かしい身内を迎えたのだ。
 新参者に対して優しいとは言いがたい気質を持つ美菜浜だが、大月家の身内でもある春海に対しての拒絶反応はなく、失われた美菜浜のマドンナによく似た春海をよく来たと迎えてくれた。
 九年と言う歳月は、子どもの頃には途方もなく長く感じ、年老いた時には長い人生のほんの一時のことなのだろう。二十代の自分達にはもどかしく、けれど取り戻せる可能性を存分に秘めた時間。それに幕を降ろした春海は懐かしい屋敷を見て周り、朝子が残していた料理ノートを手にとった。
 料理は母から子へ実地で教え伝えるものと言っていた朝子が料理ノートを書き始めたのは、ある年の結婚記念日に元幸と映画を見てからだった。突如と逝った女性が残した日記を読んで、崩壊しかけの家族が絆を取り戻すという洋画に朝子は痛く感激して筆をとり始めたのだ。
 日記ではなくレシピを綴ったノートを見た大月一家が救われたかと言えばそうでもなく。食事作りに苦しんだ一臣が縋るように開いたノートだったが、材料やアイディアが書かれているだけで分量も調理時間も省かれていて、一家の食事事情を救うには至らなかった。
 しかし、合間に我流で生けた花を褒められたことや赤ん坊連れの客からの要望を書き綴った雑記帳は、春海には役立つものだったらしい。
 美菜浜に住所を移したその日から栄月館の厨房に立った春海は、そこで朝子の痕跡を探し求めるようにノートを捲り、家族のための食事を作り始めた。
 久々のまともな食事と言うことを差し引いても、春海の作る料理は美味かった。春海は居酒屋メニューだから純和食を求める栄月館の客には受け入れられないかもしれないと心配していたが、控えめに散りばめられた若者らしいアイディアや味付けはこれまでに迎えた常連客には好評だった。
 飲食業の経験だけでは補えない民宿業だが、春海はそつなくこなしてくれた。
 小さな頃はおどおどした大人しさばかりが際立ったが、二十四歳の彼は東京で世辞や駆け引きを身につけていた。連れて行った市場でも愛想よく振る舞い、漁師や競人達の親しみを突き抜けて乱暴な言葉にも笑って応じていた。胆が据わったところを見せるが、仕草は折り目正しい。物腰が柔らかいかく表情も声も優しいから、泊り客も安心して寛いでいる様子が見られた。
 急逝した女将の仏前で手を合わせてくれた常連客たちは皆、春海の方を振り返って目を細め、一臣にいい助っ人が現れたわねと声をかけてくれる。そして定宿が変わらず続くことを喜んでくれた。
 続く、と言う実感が一臣を充実させている。これからどんどん忙しくなるが、乗り越えられそうだ。

「カズちゃんは、朝は黙ってるよね」
 季節が秋から冬へと変わる間に起きた様々な出来事を、朝の喧騒から逃避する目的で脳裏に巡らせていたが、春海の問いかけにようやく現実へと戻れた。
「朝っぱらからあのテンションに付き合ってられん」
「元気だよね」
「野生なんだよ」
 この慌しい中、春海がこだわってミルで挽いた豆から淹れたコーヒーは香り高い。カップから立ち上がる湯気を吸い込むと、春海が不意にクスクスと笑い始めた。
「なに?」
「昨日、二葉と三咲が大喧嘩してたから、お弁当に細工したんだよね」
「細工?」
「仲直りしなさいってメッセージ入りの。さくら田麩でウサギの形抜いて、思いっきり可愛くデコレーションしたお弁当」
「……お前、やるなぁ」
 悪戯っぽく輝いた目は、しかし次の瞬間にはちょっと考え込むように沈む。
「でも必要なかったかな。今朝の様子見てたら、いつも通りだったし」
「いい薬だ。時々やってやれ」
「昼休み、びっくりするだろうな」
「いい気味だ」
 弟達は春海との生活を本当に喜んでいる。特に一臣を怒らせた時に春海の背後に回り込めばどうにか場が収まることを学んでいるから、餌付けされていることを差し引いても春海を慕う。
 春海がもつ空気は、朝子と似ている。弾けるような快活さはないが、陽だまりのような穏やかさは傍にいて安らぐ。
 子どもの頃は目立った栗色の髪の毛も、今は特別に目をひくものではない。ただ光を透かす鼈甲色をした透明感のある双眸が、春海に流れる見知らぬ父親の存在を主張している。
 その透明な目をカレンダーに向ける。
「今日は観光船のヘルプだけ?」
「あぁ、午前に一巡してくる。午後は空くから、買い物でも行くか?」
「ううん。まだ冷蔵庫は充実してるから、平気」
「それなら、ちょっと遊びに行くか?」
 唐突に思いついたことを口にすれば、春海はきょとんと首を傾げた。
「もうちょっとしたら忙しくなるから、今のうちに遊んどこう。昼飯は家で食う。それから出るから、そのつもりで」
 我ながら子どものような強引さだと自覚はある。春海が来て嬉しいのは、父よりも弟達よりも常連客よりも、間違いなく自分の方だ。




 昼には春海の作ったパスタを食べ、貫禄の出てきた栄月館のロゴ入りのワゴンを出発させる。
 目的地の途中にある朝子の墓に寄ると、華やかなオレンジ色のガーベラが供えられていた。
「叔父さん、毎日来てるんだ」
 そうであろうと踏んで何も持たずに来た手を合わせる。
 目を閉じても伝える言葉は沸いてこない。数秒、無心で海が見える墓地に抜ける風を感じていると、目の前でしゃがみこんだ春海の手が目元を拭うような仕草を見せた。立ち上がり振り向いた時には明るい顔をしていて、悲しみや喪失感を受け入れようと頑張っている姿を見せる。
 弟達もそうだ。夜中、仏壇の前で声を殺して泣いている弟達の姿を見かけたことがある。それでも朝になればケロリとした顔をして、喧嘩をして、学校へ行く。父にしても同じで、こうして通勤前に墓前に寄り、突然途絶えた夫婦の会話の続きをしているのだろう。けれど家の中では葬儀の時に見せた茫洋とした眼差しを見せることはない。
 仏壇に手を合わせ、墓前に花を供え、事故現場で瞑目し、亡き母を思う。そのいずれも、一臣には未だできないことだった。
 煙草を銜えて顔を寄せた銀色の飾り気ないジッポーは、あまり吸いすぎないようにと少し眉を寄せて怖い顔を作って見せた母がくれたものだった。おかげでヘビースモーカーにはならずに済んでいるが、ここ暫くは本数が増えていると自覚がある。
「行こうか」
 あまり深く考え込みたくなくて、春海を促す。

 再び車を発進させ、海岸線を快走する。五分ほど走ったところで、春海がシートから背を離した。
 美菜浜の終端にある白い建物は、美菜浜マリンランドと言う派手派手しい名称のついた水族館だ。
「あれ? 新しくなった?」
「三年前に再建したんだ」
 昔は生臭い匂いが充満していたのだが、今では観光客に安心して勧められる観光スポットとなった。
平日ということもあって駐車場に車は少ないが、遠足でやって来たらしい小学校名の書かれたバスが数台停まっていた。
 ここにも数人の幼馴染が勤めていて、一人は海洋調査の研究員として裏方に回り、もう一人はチケット売り場にいる。それが、この美しい水族館の唯一の難だ。
「あら、新しい彼女?」
 チケット売り場の強化プラスチックの向こう側、小さなブースの中で実に楽しげに女友達が笑った。
「春海だよ」
「見ればわかるって。ねぇ、佐伯のおじいちゃんが持ってった見合い話蹴ったんだって?」
「いつの話だよ。古いんだよ、情報が」
「そのお見合いの相手、私の高校の後輩なんだよね」
「あぁ、そうですか」
「一回ツマミ食いしたんでしょ? 本人は期待してたみたいよ? 貰われる気満々だったみたい」
「俺にはもったいないお嬢さんで」
「あんたはメイクしてる顔とすっぴんのギャップがあると駄目なのよね」
「いいから、さっさとチケット寄越せ」
「この前は幸太が来たわね。頭の悪そうな女の子連れて」
「お喋り女め」
 仕切りのプラスチックをガンガン叩いて促せば、うるさいわねと眉間に迫力の皺を寄せて、チケットを二枚寄越してきた。美菜浜には、こういう同級生がゴロゴロしている。
「ごゆっくり〜」
 にんまり笑って手を振る彼女に春海が律儀に頭を下げようとするから、無理矢理前を向かせた。きっとこれでまた噂が広がるのだ。一臣はまた例の従弟を可愛がりはじめた。あいつ全然変わらないと。
「見合い話、あったんだ?」
 見上げてくる春海の表情は、黙っていたことを責めるような色がある。
「あったよ。相手が誰でも、まだその気じゃないから断るつもりだったけど」
 それほど重要なことでもなかったのだとあっさり告げれば、勿体無いなぁと歳の近い従弟はからかい、目の前に現れた巨大な水槽に控えめな歓声を上げて駆け出した。
 美菜浜の豊かさを誇るように、エイやらサメやらが巨大な水槽を悠々と泳いでいく。周りで体操着姿の小学生が絡まりあうようにじゃれながら水槽の周りをぐるぐると駆け回っているのは、魚達にはどう映るのだろうか。
「あの平目は身が締まって美味しいだろうな、とか考えてるわけ?」
 熱心に注ぐ視線の意図を尋ねれば、
「そんな情緒のないことは考えません」
 笑いながら否定された。
 一際照明を落としたフロアに出た。クラゲを集めたスペースは、周りの灯りを絞って水槽をライトアップすることで、その幻想的な姿で癒しの効果を出そうと言うものらしい。
 このスペースにはソファーも置いてある。ゆっくりと眺めてくださいと言う憎い演出だが、防犯カメラがこのソファーに向けられていることを一臣は既に知っていた。そしてそのモニターは、チケット売り場にも映し出されているのだ。
 一臣はソファーに腰を降ろし、クラゲではなく春海の後ろ姿を眺めた。
 やはりここにも子ども達が溢れていて、暗がりで転ばないように教師が一人ソファーに座っていた。思わず目が合い、会釈をしあう。初老の女性教師は小学生に混じっている春海の姿を見つけて、
「デートですか?」
 耳に心地良い口調で尋ねてきた。
「いや、従弟なんです。久しぶりに連れてきてやったら、夢中になって」
 まぁそう、と彼女は品良く微笑んだ。そして水槽を叩いた小学生にやんわりと注意を入れる。
 その声を聞きながら、やっぱり他人の目から見ると女の子に見えるんだなと我が従弟の背中を見た。
外見もだが、仕草や性質が大人しいから余計にそう見えるのかもしれない。心が優しい人は自然と所作も丁寧で美しく見えるものだと、たくさんの客と出会ってきた一臣は思っている。
 子どもの頃には世界の全てとも言える母親に疎まれたり気まぐれな愛情を注がれながら、それでも誰を恨むでもなく成長した年下の従兄弟。か弱いようで、実は自分なんかよりもずっと春海の方が強いと一臣が思っていることなど、当の本人は思いもしないだろう。
「ごめん、カズちゃん。俺、夢中になっちゃって」
 一臣は老教師に月栄の宣伝をし、教師が子供たちのエピソードを幾つか語るだけの時間をかけて水槽を眺めた春海が実に申し訳なさそうに振り返った。
 俺、という一人称に教師が驚いているのを感じながら、
「いいよ。俺も癒された」
 笑って席を立つ。数日後には春海そっちのけで淑女をナンパしていたと言う誤報が流れるだろうけど。
「では、またご縁がありましたら」
「……え、えぇ」
 驚きから立ち直れないでいる彼女に、春海がペコリと頭を下げるのがおかしい。耳を覆う程度の長さで揺れる髪の毛が、ふわりと揺れた。
 ヒトデやウニやナマコに触れることのできるコーナーでは、小学生がここぞとばかりにキャイキャイやっている。
「ちっちゃい頃、春海は触れなかったんだよな。こういうの」
「カズちゃんに無理矢理持たされて泣いたことあったな」
「今じゃ見事な手際で、ばっさばっさ捌いてるのに」
 小学生に占拠されたそこを通り過ぎて、また幾つかの水槽を回って辿り着いた出口前には、お決まりの土産物のコーナー。ここに置いてあるポストカードには、栄月館常連の桐沢氏の作品も混じっている。
「いつか三咲の絵もここに並ぶのかな」
 しみじみ春海が呟いたのを笑い飛ばすことができないのが、三咲の侮れない実力だ。
 無愛想で無表情な三男のスケッチブックは口よりも雄弁だ。まだ言葉もろくに喋らないうちから、常連客の桐沢を真似るようにぷくぷくした指でクレヨンを握りしめ、一生懸命に何かを描こうとしていた。良き師匠は一番小さな弟子を目にかけて、高校卒業後の進路についてあれこれとアドバイスを与えてくれているようだ。運が良ければ、食べていけるかもしれんなと本気とも冗談とも判別しかねることを、両親と長兄に囁いたことがある。
 ふふんと鼻で笑う三咲の顔が脳裏に浮かんだのと打ち消すように、手近にあったぬいぐるみを手に取った。
「イルカ、いる?」
「え?」
「イルカのぬいぐるみ。親父がやった時、すげぇ喜んでただろ」
「……カズちゃん、俺、もう二十歳過ぎたよ?」
 馬鹿にしてくれるなと睨んでくる。このくらいのからかい甲斐がある方が楽しい。幼い頃は自分が春海を守るのに夢中で、春海の心情を探ることなどしていなかった気がする。 きっと寂しいはずだ、俺といれば心強いはずだと決め付けて手を引いてきた。
 ささやかな言葉の応酬は、二人の距離がより近い証拠なのかもしれないと思えば心地よかった。
 二人の足は水族館を出て、併設する植物園へと向く。渡り廊下を通り抜ける風はまだ冷たいが、見下ろす美菜浜の波間にはサーファーの姿がちらほらと見て取れた。
「夏になったらダイビングしてみるか? 水槽の中じゃなくて、本物の海底が見れるぜ?」
 機嫌を損ねすぎないようにと思って話題を変えたのに、これも駄目だったらしい。じとりとした視線を投げつけられて、思い出す。
「あっ、お前、まだ泳げない?」
「……っ」
「そりゃあ、わりぃこと言ったな。なんなら小学校のプールで教えてやろうか? そういや、四恩も犬掻きしかできねぇんだよな」
「四恩が泳げないのは不思議だなぁ。運動神経抜群なのに。って言うか、カズちゃんはカナヅチを馬鹿にしすぎ!」
 ガラスの城のような植物園のドアを開けると、湿った熱気が頬をねっとりと撫で上げた。
 熱帯植物が鬱蒼と茂り、中には小川が流れている。草木の青臭い匂いと甘ったるい花の匂いの中に、蝶が舞う。ヒラヒラフワフワと舞うそれは、春海の髪の毛に止まってはまた舞い上がる。
「カズちゃん、ダイビングもするんだね」
「できるよ。インストラクターもやってる。ライフセーバーもやってるし、人手が足りなければ漁船にも乗るし、ダイバーのための船も出す。サーフィンも教えるし、ホテルでヤーさんが暴れ出したらトラブル解決に入る。なんでもやるぞ、俺は」
「すごいなぁ。昔から、カズちゃん運動もできたし体力もあったもんね」
「まぁね」
 春海のこの尊敬の眼差しが、一臣の自惚れを増長させてきたのだ。なんでもできるヒーローなのだと勘違いしてきた。一度、春海によって木っ端微塵にされたのに、やはりこの視線に踊らされてしまいそうだ。
「みんな、変わったんだね」
 浮かれかけた気持ちは、あまりにしみじみと呟かれた言葉に沈んだ。
「……はる」
「みんながどんな風に大きくなってきたのか見れなかったのは残念だけど、俺、またここに来れて良かったよ」
 もっと早く迎えに行けばと、一臣が悔いるのを留めるように春海は言った。
「カズちゃんが迎えに来てくれて、嬉しかったよ」
 朝焼け色の蝶が春海の髪で羽を休める。
「三島さんの店も、楽しかったんだろう?」
「うん。蒼さんやあの店と会って随分楽にはなったよ。同じように悩んでる人とたくさん会って話が出来たし、友達もできたから」
 それでも美菜浜に来て良かったと春海は言ってくれる。
「俺の根っこは、ここなんだよね。きっと」
 きっと、と言う言い切りの言葉は一臣の耳にはそうだよね? と同意を求めるものに聞こえた。
 東京で大人になった自分が得たものはかけがえのない大事なものではあるけれど、説明がつくのだと訥々と己の胸の内を語る春海が少し大人びて見えた。
 三島店長のどんなところが好きなのか、ロコと言う店の何が好きなのか説明できる。だけど美菜浜は、楽しい思い出もあるし苦い思い出も作ってしまった。だけど好きなのだと、揺さぶられるように思う。帰りたい。あの海辺に行けば誰かが優しく包んでくれるのではないかと、何の根拠も無く期待してしまう。
 春海が一臣に教えた感覚は、一臣にはわからないものだった。故郷を離れて暮らす友人たちの口からも似たような言葉を聞いた。
 通勤途中にある小さな空き店舗。そこに店が入っては潰れ、また新しいテナントが入っては一年と維持されることなく潰れていく。それを見ていると、自分の故郷は変わってしまってはいまいかと不安が突き上げてくるのだ。自分の根はここにないと悟る時の安定感の無さ、寂しさ、恐怖はお前にはわからんだろう、と帰省の喜びと酒に酔う友人に絡まれることはしょっちゅうだ。
 生まれてこの方美菜浜以外の土地で暮らしたことがない一臣にはわからない感覚を伝える春海に一つ頷いてやれば、春海は幸福そうに口唇を綻ばせた。
「……辛かったり、困ることないか?」
「幸せすぎて、怖いくらい」
 こんな些細な日常で春海は幸せだと言う。欲のなさに切なくなる。
「何かあったら、遠慮なんてするなよ。遠慮されると、親父は辛いんだから」
「うん」
「恋愛だって、すればいいんだからな」
 やぶ蛇かと思いながら伝えると、春海は従兄のお節介に苦笑した。その拍子に蝶がヒラリと零れ落ちるように落下する。
 それはやがて、小さく薄っぺらな羽にふんわりと風を孕んでガラスの城の高い天井目指して舞い上がった。



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2009/7/11更新

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