ルーツ・コンプレックス 7




 春が来た。
 草花が生命力を輝かせ、野山に色をつけ始める。美菜浜を訪れる人の数も、栄月館の予約も増える。
 義務教育課程の四恩と秀才の三咲はともかく、一臣の高校時代を真似るように赤点の答案を持ち帰る二葉の進級がギリギリまで危ぶまれたが、どうにか乗り切って二年生への切符を手に入れた。
 春海はもう何年も前から栄月館の厨房を任されていたよう、危なげのない立ち回りで、感心するばかり。親しげな空気も残しつつ、一臣などよりもよほど挙措が上品だから栄月館の格があがったような気になる。朝子も礼儀作法は心得ていたが、明るさと気さくさの方が際立ってあまり印象に残らないのだ。
 一臣が主軸となる若年会でも、春海の受けはやたらいい。
 大漁旗を作る染物屋の跡取り娘がいて、大漁旗だけでは商売にならないからとTシャツショップを開いてデザインから製作まで手がけている。そこで若年会のトレードマークになるTシャツを作ろうと言い出して、計画を進行させてしまった。濃紺の生地に美菜浜若年会と言う揃いのロゴが前面に配され、バックは個人で異なるという職人気質を見せた。
 一臣は“栄月館若旦那”と堂々と大書され、“美菜浜のフリーマン”と言う妙な肩書きをつけられた。幸太は“漁師(半人前)”で“夜遊び厳禁、コンパは午前スタートで”とふざけたキャッチフレーズを背負わされている。これが案外と人気で美菜浜の内外から面白がられているのだが、今は春海用のデザインが議論を呼んでいる。
 板前か女将か。そんなくだらない話題がはびこるのだから、美菜浜は平和だ。
「ねー、春海はどっちがいい?」
「板前って肩書きは立派すぎるけど、どっちかって言われたら断然板前」
「それじゃ面白くないじゃん」
「面白くなくていいよ」
「じゃ、キャッチフレーズに“性別・雄”みたいなのは?」
「みっちゃん、それ新手のいじめじゃないよね?」
「“女性を料理するのは苦手です”みたいなのは? かわいくない? 初心っぽくて」
「光子(みつこ)、お前、最低だな」
 そんな議論の場となる栄月館も、平和だ。
「春海―、おかわりないの?」
 苺色のムースケーキをペロリと平らげた染物屋看板娘の胃袋は欲深い。
「あるけど、あとは二葉と三咲と四恩とおじさんの分だからありません」
「ないならないって言いなさいよー」
「言っておかないとみっちゃん、この前二分の一ホール残してたケーキ食べちゃったじゃん」
「マジで! お前、太るぞ!」
「カズちゃーん、幸太がセクハラしまーす」
 最近、春海がおやつを作る。泊り客は大概昼には出払うにしても、人の出入りの激しい家だ。お茶請けにと春海が作ったおやつが逆に人を呼び始め、この頃はサロンのような有様になっている。
「うちは喫茶店じゃねぇんだぞ」
「コーヒー一杯飲ませるのに鯛一匹か……」
 強く咎められない事情もある。
 こうして家の中が賑やかなことは喜ばしいし、春海が昔からの仲間であるかのように扱われるのも嬉しいことだが、
「そう言えば春海はカズの武勇伝知ってるんだっけ?」
 あまり柄や性質がいいとは言えない連中なだけに、春海に余計なことを吹き込まないとも限らない。
「高校のボクシング部と空手部と柔道部掛け持ちしたこと?」
「そんな可愛い部活動貢献話じゃなくて」
「コータ」
「お巡りさんにご厄介になった話」
 ケーキの最後の一切れを口に運んでいた春海のフォークから、春色のムースが零れ落ちた。
「もういいよ、その話は」
「春海、知らないの? 教えてあげればいいのに」
「カッコいい話じゃないから、もういいんだって」
「本当にお前はえぇかっこしいだなぁ」
 語る間は黙っていろと煙草を口に突っ込まれ、ご丁寧に火まで灯される。もう勝手にしろとそっぽを向けば、友人たちは実に楽しげに昔語りをはじめた。

 警察のご厄介になったと言って、大げさな話でもないのだ。
 高校を卒業した年の夏のこと。美菜浜を縄張りにしようと流れてきた走り屋グループと小競り合いをした。族と呼ぶほどの勢力はなかったが、夜中に騒音を響かせて国道を疾走し、繁盛期の夏場に浜辺を占拠して観光客に怪我を負わすなどと幾つかの事件が起きた。
 その事件の中に、栄月館の客が被害に遭う件が発生した。
 数日後の夜、幼馴染が集まってバイクのヘッドライトの鋭い光が交差する浜辺へ向かった。
「相手のリーダーとタイマン張って勝って面子潰す予定だったわけ。それが、勝負がつく寸前で大乱闘になってさー」
「タイマンって、カズちゃんが?」
「俺らの中で一番腕っ節が強かったから。いい勝負してたんだよな」
「勝ってたんだよ。だからあっちのギャラリーが乱入してきて、幸太達が応戦したんだろ」
「それでパトカー三台駆けつけてね、全員補導されたのよね」
 連れて行かれた病院で治療を受けていると、母親達が泣き顔でやって来た。
 朝子は見たこともないくらいに怒っていて、一臣の正面に立つと手を振り上げた。風を切ったその手は一臣が頬に貼り付けた大きなガーゼを見て怯み、くるりと方向を変えると容赦なく尻を打った。それに倣うように、他所の母親達も数年ぶりに我が子の尻を引っぱたくという仕置きに出た。
「あんた達がどんなに頑張ってかっこつけて地域を守ったとしても、それであんた達にもしものことがあったら台無しなのよー! って、朝子さんに怒鳴られてたの、有名よ」
 美菜浜の跡取り息子達が揃って母親に尻連打の仕置きを受ける図と言うのは滑稽で、事情聴取していた警察官に暫くの話のネタを与えた。
「喧嘩両成敗で終わったのはいいけど、その後もまた面白いんだ。その走り屋ってのが昔は結構大きなグループだったらしくて、上の団体とも繋がりがあったらしい。報復にでも来るかと思ったけど、今時珍しく肝の据わった若いのがいるって喜ばれて、それ以来美菜浜での暴走は禁止ってことになった。めでたしめでたし」
 事件から数日後、未だ生傷が癒えない友人達と町をぶらぶらしていると、ピカピカに磨き上げられたプレジデントが近付いてきて停車し、開いた窓から坊主頭の老人が顔を出した。
 驚いて立ち竦む少年たちをじっと見据え、やがて得心したように何度か頷き皺の中に細い目を隠してしまった。しっかりやるんだぞと言うような捨て台詞を残して、プレジデントは走り去った。たまたま通りかかった薬局の店主が、脅されなかったかと泡を食って駆け寄ってきたのを覚えている。海坊主のような老人は、警察がマークを外さない巨大暴力団のトップに君臨する男だったらしい。
「あの事件があったからカズは長老方に一目置かれるようになったんだよね。ハルの従兄は凄いのよ?」
 唖然として耳を傾けていた春海は、話の結末に安堵したように肩の力を抜いて、
「叔母さんも大変だったろうな」
 そんな感想を零した。
 美菜浜に来て、春海は一臣のスケジュールに呆れた。宿を最優先させてはいるが、あちらこちらのヘルプに入り、覚え切れない肩書きを請け負い、美菜浜を奔走する。少しは休んでゆっくりしてと、かつて母に言われたのと同じことを春海も言う。時に本当に心配そうに、時に眉をぎっと吊り上げて。地元愛は素晴らしいけど、自己愛も持って欲しいと。
 事実はもうちょっと利己的だ。あの頃は暴れたい年頃で、そういう時期だった。春海が美菜浜から遠ざかり、保護欲を埋めてくれるものがなくなった。ぽっかり空いた穴に一臣は地元を詰め込んでみたのだ。四肢を巡る衝動をぶつける相手が運よく見つかって、綺麗さっぱり発散できた。そんな身勝手な事件を起こした男が、今では地域のための勇気ある行動をとった地元思いの若者だなどと語られるのはどうにも居心地が悪い。
「お前ら、もう帰れ。これからお客さん迎えに行くから」
「あんた行けばいいじゃん。私はハルと話してるから」
「春海も一緒に行くんだよ。お前らといると馬鹿がうつる」
「ひどい男―。朝子さんが聞いたら泣くよ」
「笑ってるよ」
 あんた達は本当に仲良しね、なんて言いながら。

 友人たちを持ち場に帰らせると、春海と共にワゴンに乗り込んだ。
 今日は、春海が前に勤めていたロコの店長、三島蒼女史がチェックインする。
 夏は忙しいでしょうからとシーズンを外して遊びに来てくれると言う報せを、春海は嬉しそうに受けていた。
 同性愛者が集うロコの店長である蒼もまた、恋愛対象には女性を選ぶ。男女の友情は成立すると言い張る幸太と光子の間にある、第三者が見れば火を見るよりも明らかな恋愛感情も春海と彼女の間にはなく、人として尊敬し信頼している関係と言うのは清々しくもある。
「幸太も光子も、さっさと一緒になっちまえばいいんだ」
「今更照れ臭いんだよ」
 漁師の一人息子と染物屋の一人娘の仲は既に両家にも周囲にも公認で、認めていないのは当人達のみだ。じれったく意地っ張りなやり取りが彼ららしくもあり、今はまだ幼馴染と言う関係を壊したくないのだろうとみんなが見守っている。二人がもう暫くの不変を望むように、一臣も早くくっつけばいいと急かしながらも二人がいざくっつくとなると寂しい思いをするだろうと想像もしている。
「なぁ、三島さんって何歳?」
「カズちゃんよりも一つ上かな」
「ふーん」
「気になる? 蒼さん、美人だから」
 くりんとした瞳が運転中の視界の端に入り込む。幸太や光子による芳しくない影響が出てきたようだ。
「俺は対象外なんだろ」
「でも美人だ」
「でーもー。俺は、どっちかって言うと凛としたかっこいい人よりも、ふんわりした守りたくなるような子の方が好みなの」
「朝子おばさんみたいな?」
 マザコンなんて、もう言われ慣れたが、
「カズちゃんは本当、マザコンでファザコンでブラコンだ」
 最近ではそんな不本意な傾向まで列挙されるようになった。弟を可愛がった覚えはないし、物静かな父親は普段影が薄く、友人との話しにも話題に上げたことなどほとんどないはずだが。自分の縄張りの最たるものだとは思うので、あまり快くはない言われようも甘んじている。
「従兄弟の場合はなんて言うんだろうな?」
 可笑しそうに震える肩を小突けば、ちょっと目を丸くしてから耳を赤くする。
 その紅潮具合に、こういう恥じらいを持った人がいいのだと胸が疼いた。
 疼きを自覚すると同時、自分が挙げた好みのタイプにこの従弟も該当することに気付いてしまった。
 三島蒼の恋愛対象に自分は入り込むことはできない。だが、春海の恋愛対象にはなりえる。方程式が解けるように、重大な法則を発見した。
 身内と言うフィルターが分厚かったせいか、まったく自覚できていなかった。
 脳内では脳細胞がバチバチと音を立てて情報を交信させている。それが体温を上げるのか、春海の頭を撫でた手が熱を持つ。
 誤魔化すように指先で頭を軽く弾き、
「もうなんでもこいだ。この際、ファミコンってことで」
 そんなくだらない茶化しを入れる。
「ファミリーコップレックス?」
「そう」
「カズちゃんの場合、地元も友達もファミリーだもんね」
 一臣の動揺には気付かなかったらしい春海は、話をいいようにとってくれる。
 一臣に向けられる春海の笑顔に含まれる好意は、身内へ対するそれだ。だがそこに他意が存在するとすれば、自分にそれを見抜くだけの勘が備わっているか。疑わしいところだ。
「あ、電車来た」
 トロトロと二両編成の電車がワゴンを追い越していく。
 空は快晴。美菜浜に寄せては返す波は穏やか。
 あの電車に乗っている美人が降り立った時、春海と一緒にようこそと胸を張って迎えることのできるシチュエーションだ。
「お前、最高の笑顔でお迎えしろよ」
「え?」
「お前が楽しそうにしてないと、とんでもねぇ所に可愛い従業員をとられたって恨まれるだろ」
 いつも通りの気安いやり取りに安堵しながら、もう幸太と光子の仲を急かすことはできないなと反省する。
 事態を前進させる変化があるとしても、変わることは実はとても恐ろしい。今が心地よければよいほど。何も気付かず知らないままで保てる平穏があるのなら、それに縋ることは怠慢と呼び辛い。
 改札を抜けた蒼が姿を見せた。
 相変わらずはっとするような美人だが、一臣の目にはそれを嬉しそうに迎えに出た春海の背中の方が眩しくうつった。
 春海を迎えに行くか否かを相談した時の幸太の言葉が耳に蘇る。
『考えてみろよ、カズ。本当にお前の腹には何もないのかよ。可愛がってた従兄弟に裏切られた、くらいのことは思ってるんじゃないのか」
 我が幼馴染の言葉にしては、奥が深いではないか。
 車内で舌打ち一つ残し、一臣も春海の恩人を出迎える。顔を上げた時には動揺は消えていた。懐っこい笑みに、凛とした美人は美しい形の双眸を細めた。




 春海が抜けた後、ロコには身長二メートルのイタリア人男性が新しい料理人として入ったらしい。腕もいいし、人柄もいいけれど難があるとすれば体が大きすぎることだと蒼は面白可笑しく語った。
 車窓から浜辺を眺め、いい所ですねとポツリと呟いたのが印象的だった。彼女の実家は日本海側にあり、そう言えばもう随分と帰っていないと指折り数えた歳月は十年を越えていた。
「いつでも、来てください。歓迎します。これも、何かの縁でしょうから」
 帰りたくても帰れない場所がある寂しさを、一臣は春海から教えられている。だから平凡な慰めには念を押すような響きを持った。
 バックミラーの中で、蒼は新宿のダイニングバーの店長ではなく、日本海沿岸の町に背景を持つ一人の人間としての顔を見せて少し不器用に笑った。
 部屋へ通すと、苔むした中庭を見て旅館のようだと家族経営の栄月館にとっては過ぎた賛辞をいただけた。
「綺麗ですね。手入れされている古い家って、気持ちいい」
 木製の窓枠を撫でた蒼は嬉しくなるようなことを言ってくれる。
 白を基調としたあの小箱のような店では人形めいて見えた白い肌が、太陽の光の下にいるせいかずっと健康的に見えた。
「失礼します。蒼さん、お茶はいりました」
 一声かけて入ってきた春海が襖を開け閉めする姿を、
「女将さんみたいだ」
 そんな風に評して蒼は座布団に腰を下ろす。
「ごゆっくり。春海も、あとはいいから」
「はい」
 募る話もあるだろうと席を外した。
 元店長には及第点をもらえたらしい。
 春の日差し差し込む和室に、見目いい二人が向かい合ってお茶をすると言う目の保養に英気を得て、腕まくりをする。
 空き部屋の掃除に気合を入れる。動いている間は、巡りのよくない思考は霧散する。迎えの車中で気付いてしまった腹の中に隠していた何かから目を逸らすのに、古い家屋の手入れはうってつけだった。
雑巾とバケツを持って、誰も入っていない二階に上がる。窓を開け放てば花の匂いが混じった温かい風が吹き込んできた。
 春だ。
 この季節を迎える度、薄情で自分勝手に見えた伯母が持っていた微かな望郷の念を感じたりする。自分の息子に海の字を与えた時、彼女はこの美菜浜を思っていたに違いない。
 暫く吹き込んでいる風と注ぐ柔らかな日差しを浴びていると、階下からの声が耳に入った。
 蒼も中庭に面したガラス戸を開け、縁側で寛いでいるのだろう。
 真下の部屋から届く声につい耳を澄ませてしまう。
「やっぱりここの若旦那だね。うちにスーツ着て来た時よりもよっぽどしゃきっとして見える」
 面白がっているような蒼の声はよく通る。それほど大きな声でもないのに、空気を裂くように進む。
「でもスーツもかっこよかった」
 対して春海の声は鈴が転がるような音だ。そう言えば春海は声変わりと言うものを経験したのだろうか。届く声は幼い頃から変わっていないように思える。
「覚悟できたの?」
 他愛のない思考をめぐらせるうちに、ほのぼのした会話が不意に突っ込んだものになる。
「何の覚悟ですか?」
「あの従兄弟の嫁さんと、ここの厨房に立つ覚悟」
「……」
「あぁ言う人だから、いつか嫁もらえって言われて結婚するでしょ。宿の食事はあんたが作るにしても、家族の分まではそうはいかない。あの人の嫁さんと、仲良くできるの? 子ども作って団欒してるの、見守れるの?」
 誤魔化したはずの動揺が蘇る。
 このまま、ここで盗み聞きをしていれば恐れていた変化が襲ってくる。わかっているが体が動かない。
「そう言って、蒼さんがさんざん脅してくれたのに、大丈夫って言い張って店辞めたんですよ。俺は」
「そういう一途な子が泣いてきたのをさんざん見てるからね。つい口うるさくなんのよ。みんな人魚姫みたいに色々犠牲にして陸に上がって尽くして、最期は他の人と幸せになる王子様の姿を見て泡と消える」
「それでロコに戻ってきて、魔女に延々と愚痴を零すんでしょう?」
「よくおわかりで」
 クスクスと軽やかな笑い声に誘われたように鶯が鳴いた。
「蒼さん、カズちゃんはこの世で一番、家族とこの地元が好きなんです。俺を、その家族の一員として迎えてくれた。俺のこと、家族として好きでいてくれる。だから、もうそれで十分なんです。だって俺のこと、一番大事なものの一つとしてみてくれるんだから」
 虚勢も諦めも感じられない、ふわふわと柔らかい声音は蒼にのみ聞かせているもののはずだが、一臣には自分に届けるべくして発せられた言葉のように聞こえた。
「同性で、しかも妻子持ちの担任と付き合ってたって言うのも詰らないで、会わないでいた時間を後悔してくれた。あんなに情が深くて優しい人、いないですよ。カズちゃんには幸せになって欲しい。そのためなら、俺なんだってするよ。綺麗事じゃなくて。だから蒼さんが言う覚悟もしたし、俺の気持ちもずっとずっと隠してみせる。それが俺の愛し方」
 春海の言葉は蜜の味をした毒薬のようだ。脳の奥が痺れる。
「大人しそうな顔して。情が強(こわ)って言うのは、あんたみたいなのを言うんだね」
「そう。カズちゃんがお嫁さんもらっても、あなたよりも俺の方がカズちゃんのこと好きなんですよ。だからあなたは結婚できたんですよって、捻くれた優越感に浸ってるんだ」
「怖い怖い。あんたが中学の時に付き合ってた教師もさ、騙されたようなもんよね。純情そうなあんたが、裏では自分を初恋の人の代わりにしてるなんて気付けなかったろうな」
 捉えようによっては物騒な話だろう。重いと感じるよりも、驚くよりも、胸からせり上がってくる思いに目の奥がツンと痛んだ。
 春海が自分に向ける情は強(こわ)く、けれど真摯で健気だ。
 春海が自分を慕っているのは感じていた。幼い頃から自分は春海を守る唯一の存在だったし、十年近いブランクを埋めてお互いを必要だと思える。だが互いが抱く好意は、身内への情愛だと思っていた。家族ならば当然のものだと。
 だが春海の中にある思いは、儚く繊細なガラス細工のような形をしていた。皹を入れないように、春海は胸の奥底にそれを隠してずっと生きてきたのか。
 階下の話題は転じ、春海が美菜浜の観光地を紹介している。
 戸惑いよりも何よりも、誰よりも春海のことを深く理解していると思っていたくせに、肝心なことを理解してやれていない自分の浅はかさに嫌気がさした。
 高校二年の夏の夜の衝撃を受けた時もそうだった。
 春海のことで知らないことなど何一つないと思っていた。春海の心は海のようだ。キラキラと輝く海面を見ているだけでは計り知れない。一度、深く潜ってみなければわからないのだ。深く、息を止めて水に濡れ、深く深く。




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2009/7/25更新

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