何件かの助っ人業をこなして帰宅すると、既に夕食の準備が整っていた。桐沢を交えたいつもよりも豪華で賑やかな食卓を囲み、客室の膳を片付ける。
忙しない日常の中にいる春海の態度は平素と変わりなく、一臣に対する表情も声も信頼こそあれど、あからさまな恋愛感情などは感じられない。
この生活に一つの変化を生もうと決めたのに、何をどうして変えていけばいいのかわからない。わからないまま、居間で煙草を吹かしていると桐沢がさてお立会いと口上を始めた。
「なんですか?」
「昔撮ったビデオテープを整理していたら、面白いものを見つけたんだ」
勝手知ったる定宿と、焼きなおしたらしいDVDのディスクをセットする。
「四恩が生まれて、病院からここに帰ってきた時に撮ったものだよ」
「俺?」
「懐かしいですね」
画像はやや劣化しているが、テレビ画面にはこの居間が映し出された。家具の配置もさほど変化のない十四年前の同じ部屋。
「……母さんだ」
ぽつりと四恩が呟いた。
まずアップに映し出されたのは朝子だった。棺の中にいた彼女よりもずっと若く、少女のような面影もある。
『今日は、うちの四男坊が帰ってきましたー。大月四恩くんでーす』
明るい声に陽気なテンション。本当に変わらないその様子に、切なさが込み上げる。朝子が抱えた水色のおくるみから顔をのぞかせているのは、眠っている赤ん坊。
「四恩だよ」
「えー?」
映像で見る母の姿が恋しいのか、それともあまりに小さな自分が恥ずかしいのか、さかんに首を捻ってみせる四恩の頬が赤い。
『お父さんやお兄ちゃんみたいな、かっこいい男の子になれるかな〜? あはは、お猿さんみたい。ちょっと鼻が低いかな?』
「……母さん……」
朗らかな母親の言葉に、四恩は大げさに肩を落として見せた。
次にカメラが映したのは、可愛い盛りの二葉と三咲だった。
「え、どっちが俺?」
お揃いで色違いの服を着ている二人が映ったところで、口を開いたのは二葉だった。
「え?」
「え、三咲、わかるのかよっ?」
ウソだろと呟いた三咲に、二葉が驚きの声を上げる。その驚きに、
「え……?」
全員が目を向けた。
「ホラ、こっちがフウ兄で、こっちがミイ兄だろ?」
「正解」
「お前は本当に美的感覚がないね」
三咲もさすがに呆れたと、二葉を小突いた。
「この頃は可愛かったよ」
美しき日々よ、と一臣が遠い目をするほどに二人は可愛かった。赤ん坊の四恩を見てお兄ちゃんになったから頑張ると朝子に胸を張り、僕の方がお兄ちゃんだと言い合いを始めるのだ。
「一日一回は、どっちがお兄ちゃんかで喧嘩してたなぁ」
元幸が目を細め、桐沢が髭を触りながら目尻に皺をたっぷり刻んだ。
「あ、これカズ兄?」
画面の中では、双子の言い合いを止める少年が姿を見せる。兄弟の中でも年の離れた長男は、日に焼けた手足に制服の半袖のあとがくっきり見える。
「うわぁ、もう可愛くねぇな、カズ兄は」
いかにもガキ大将と言った風貌の少年を指差して、当時の彼に一番年が近い四恩が言う。一臣はこの頃十二歳だが、確かに可愛いと言うには無理のある子供に見えた。
『従兄弟の春海ちゃんも来てまーす』
朝子が手招きすると、女の子のような春海が駆け寄って朝子にぎゅっと抱きついた。
「ハル、変わってねぇ〜」
「そうかなぁ?」
一臣とは違い、人見知りして朝子に助けを求めるような仕草が可愛い。
『また我が家が賑やかになりました』
『子供の世話に追われて、夫婦愛をないがしろにしないように』
そんなコメントが画面の手前から聞えてくる。桐沢の声も張りがあって、若々しく聞えた。
『うちは大丈夫です。ねぇ、元幸さん』
『えぇ? 恥ずかしいなぁ』
ちらりと映った元幸は、黒々とした頭を照れたようにかいている。
「……若っ」
子供たちの合唱に、父親は白髪の混じる頭を掻いた。
「そりゃあ、この四恩が中学生になるだけの年月が僕にも流れてるからねぇ」
そんなことを言っているうちに、何年経っても新婚気分でいる夫婦はちゅっと頬にキスをする。
「恥ずかしい夫婦だなぁ」
「おまえ等が生まれるまでは、もっと凄かったよ」
息子達が成長して、思春期を迎える年頃になっても挨拶のキスは続いていた。四兄弟が彼女とどこまで進んだとか、誰を口説いたとか、日本の家庭では話しづらいとされている性的な話でもオープンにしてしまいがちなのは良くも悪くも両親の影響だ。
『四恩くんにもチュー』
幸せそうに笑って、朝子はおくるみの中の四恩にキスをする。
それを見て十四歳の四恩が笑った顔を伏せた。あの笑顔を見ることも、あんな風に体温を感じさせるスキンシップをしてくれることもないのだと、仏壇をちらりと見て思ったのかもしれない。
それでも、どれだけ自分が愛されて生まれてきたのか、大切に育てられたのか、四恩は胸に刻み込んで生きていける。道に迷った時なんかには、きっとあの笑顔が脳裏にちらつき彼を導いたりするだろう。泣き笑いのような表情を浮かべる末っ子の様子を、一臣は何も言わずに目に留めた。
『二葉と三咲もチュー』
小さな双子はキョトリとしながらも、朝子が順番に額に落としたキスを真似て、お互いの頬にキスをし合った。この頃の双子は天使のようだと評判だったから、成長した彼らを知らなければ微笑ましく絵になるシーンなのだが、
「うぎゃあ!」
「勘弁してくれー!」
大きく育った双子は、同時に叫ぶと鳥肌が立った腕を同じように摩りながら、同じように遠ざかっていく。
「朝子はスキンシップ好きだったから」
元幸は穏やかな眼差しでテレビを見ている。愛しい者を見る目だ。母は父に大切にされ、誇らしいと思われている。いい夫婦だと、自分の両親のことながら改めて思う。
『ホラ、二葉、三咲。ハルちゃんにもチューしてあげて』
『駄目!』
双子を促した朝子の声を遮ったのが、声変わりする前の妙に甲高い自分の声だったことに一臣は驚いた。盗み見ていた父の横顔から画面に目を戻すと、幼い自分が朝子から春海を引き剥がしていた。
『なんでー?』
双子が声を揃えて不平を言うのを、睨みつけている。
『お兄ちゃん、ずるーい』
拗ねた声を出したのは朝子だった。その朝子をもキっと見上げて、十二歳の一臣はオドオドしている春海を抱き締めている。
『春海は駄目! 春海はオレとケッコンすんだよ!』
「………………………………」
「……うっわぁー」
「え、十二歳……だよね? 小六……?」
二十六年間、なんのために自分は弟達の前で威厳を保とうと必死になってきたのか。思わぬところで発掘されたホームビデオが、これまでの努力を粉々に粉砕していくのを感じる。ずばっと引いた血の気がまた一気に押し寄せて頭に上ったような、妙な汗が背中にどっと溢れた。
『カズちゃん、僕、男の子だからカズちゃんとはケッコンできないよ?』
か細い声が訴えれば、
『カズとハルが大きくなる頃には、法律も変わってるかもな』
桐沢が口を挟む。
『もしも変わらなくても、こっそりしたらバレねぇよ。きっと』
『でも……』
『だって春海、オレがいなかったらまたいじめられるぞ。オレとケッコンしたら、オレがずっと守ってやるよ。面白いこともいっぱい教えてやる。あ、オレのことがそんなに好きじゃなかったら仕方ねぇけど』
『ううん。好き』
少年はへへっと笑って春海の、口に、キスをした。女の子のような男の子は、盛大に照れながら、ぎゅっと握られた手を見つめて笑顔を浮かべた。
『ふられなくて良かったわねぇ、一臣』
朝子は呑気に笑って、二人が結婚することになったらお祝いしましょうねと言った。春海ちゃんがお嫁さんに来てくれたら嬉しいわと笑った。
まいった。
こっちでは弟達が肩を震わせている。一人一人力の限り引っ叩いてやりたいが、それよりも映像の中の自分の頭を容赦なくど突き回してやりたい衝動に拳が震えた。
十二歳でこの発言はどうだろう。許される範疇だろうか。それとも頭が悪かったせいだろうか。こんなことなら、バリバリ勉学に励めばよかった。してもしょうがない後悔が目まぐるしく駆けて行く。
黙っている長兄の逆鱗が怖いのか、弟達は必死で笑いを噛み殺している。
「や、やべぇ、俺、兄貴の武勇伝をまた一つ聞いてしまった」
「墓場まで持っていかないと……こ、殺される」
「カズ兄、かーわーいーいー」
笑いに震えている声が忌々しい。このままでは弟を亡き者にしかねない。
あまりにも居た堪れない空気に耐え切れず一臣が立ち上がると、弟達がびくっと跳ねて素早く防御の構えを見せる。
「煙草、買ってくる」
振り絞るように行き先を発し、ぎこちなく手を振る弟達と楽しげな笑みを浮かべる父と常連客の前から消える。向けた背中に滲んだ汗に気付かれたかもしれない。
玄関でスニーカーの紐を結びながら、
「春海!」
赤くしていた頬を、自分が逃げるように去ることで一気に青ざめさせていた従弟を呼んだ。
「は、はい」
居間の入り口まで出てきた春海をよく見れば、不安と緊張に強張っている。
「来いよ」
近付いてきた手を引くと、驚き慌てながら自分のスニーカーを引っ掛け、連れられるままに家を出た。
ビデオの続きは、見なくても覚えている。
あの後、みんなで四恩を覗き込み、どんな男の子に育つのか想像し合って、春海があまりにも可愛い可愛いと四恩を見つめるのが面白くなくて、四恩の頬を突いたのだ。するとすやすや眠っていた赤ん坊はパチリと目を覚まして、ワンワンと泣き始めた。
母に怒られ、双子には泣かせたと詰られた。憮然とする一臣を春海が宥めて、二人で夏休みの宿題に出された絵日記をつけた。猿のような弟が家に帰ってきたと下手くそな絵と字を綴るその横で、春海も同じように赤ん坊の絵を描いた。そして大人になったら美菜浜で暮らすのだと、切なる願いが添えられていた。
そんな願いを抱く春海を可愛いと思う情を、成長するにつれて身内だからだと言い聞かせていた。
記憶の奥底に沈んではいたが、確かに、一臣は幼いプロポーズを覚えていた。
大人しく手を引かれ、海沿いに出る地下道まで来たところで春海は声を上げた。
「ね、カズちゃん、ちっちゃい頃の冗談なんだから、そんな、怒らないでよ」
ストライドが違うから、一臣が早足で歩くと春海は小走りになる。
「怒ってない」
「でも、でも、不機嫌、なってる」
「恥ずかしいんだよっ」
「あ、あの、ごめんね? ごめん」
地上へ出る階段を上がりきったところで、息を切らす春海を振り返る。肩で息をしているが、元々色白の肌は街頭のオレンジ色の光の下にあっても青ざめてみる。
「なんでお前が謝るんだよ」
ずっと秘めてきた想いが露見しそうになることに絶望を覚えているのかと想像すれば、何故だか苛立ちがこみ上げてきた。何で隠すのかと筋違いの苛立ちを春海が知れば、何で気付いてくれないのかと言いたいだろうけれど。
春海は俯いている。泣かせているみたいだと一臣が思うならば、通りすがりの関係ない人間も当然そう見える。
「痴話喧嘩かよ」
「可哀想〜、泣いちゃってるよ」
ふらふらと浜辺の方から青年二人が連れなって近付いてきた。冷やかすような軽薄な言葉をかけ、間合いを計るように一臣の頭から足元までを見定めようとする。
春海が驚いて顔を上げると、頬から柔らかな髪が滑り整った顔が露わになる。ぐっと、男達のテンションが上がるのを感じる。
「かぁわいいね〜」
飛び跳ねるように春海に近付いた男の手が春海の肩に触れる寸前、一臣の腕が伸びた。
「触るな」
掴んだ腕を捻り上げて低い声を出せば、喧嘩慣れした気配を感じたのだろう、男達がぎょっとしながら自分達の不用意な失敗を悔やむ。
「明日も美菜浜の波に乗りたきゃ、行儀よく過ごしてろ。しつこいナンパもうぜぇ。相手が迷惑そうな顔したら即ヤメロ。あとな、おまえ等には関係ねぇのかもしれねぇけど、ゴミほったらかして帰るな。仲間によく言っとけ」
一臣が本当に怒気を発する時、口調は低く穏やかになるし、簡単に痛みを与えるようなことはしない。空気で圧して、恐怖を与える。男達は一臣の醸す空気に敗北を悟ったのか、じりじりと後ずさって距離をとると、そのまま背中を向けて足早に去っていった。
遠ざかる足音に、春海が肩の力を抜くのがわかった。
「……びっくりした。カズちゃん、怒ると怖い」
ナンパよりも一臣の怒った姿の方が怖かったと、春海はようやく一臣と目を合わせた。
「お前に怒ったり、不機嫌になったりしてるんじゃないから。ちょっと、緊張してる」
覚えた苛立ちは、運悪く出くわした青年たちに全部ぶつけてしまった。やや落ち着きを取り戻し、もう一度春海の手を取り浜辺へ降りる。今度は歩調を緩め、春海が隣に並ぶように。
「緊張って、なんで?」
「うん、まぁ、ちょっと座れ」
砂の上に腰を下ろし、一臣は僅かに欠けてはいるが円形に近い月を見上げて言葉を探すが、勢いで言ってしまえば良かったとすぐに後悔する。
たっぷり考えあぐねて言えたのが、
「お前、俺のこと好きか?」
どうしようもなくずるい言葉だった。
春海は期待した動揺も見せることなく、あまりにもさらりと答えた。
「好きだよ」
親愛なる従兄弟として。
幼い頃から隠し続けた恋心は、鉄壁のガードで守られているらしい。
一臣が示す身内としての情を勘違いしないように。迂闊に本心を晒して、この関係が崩れてしまわぬように。春海は一生懸命、傷だらけになりながら一臣との従兄弟としての関係を守り続けてきてくれた。
「どうしたの? 女の子にふられたりした?」
そんな軽口の裏で、また一筋の傷を負っているのか。
「俺は、お前に甘えすぎてる」
「そんなことないよ?」
「お前が、俺に懐いてニコニコしてるの見て安心してた。守ってやってるんだって勘違いして、俺が一番、お前を苦しめてたんじゃないか?」
月明かりの下で春海は不安そうに首を傾げた。
その不安も頑ななガードも、何もかも奪い去って楽にして、包み込んでしまえるのは自分の言葉だけだ。
「春海」
我ながら硬い声だと思った。春海も打たれたように一臣を見上げている。
「俺と、こっそり結婚してくれないか?」
ほんの少し昔のこと、この浜辺で釣り好きの男が民宿の若女将にプロポーズするのに選んだ言葉はこれ以上なくシンプルで面白みがなく、しかしどんな洒落た言葉よりもわかりやすく、緊張を含みやすくもあり、それ故に真摯さが伝わる言葉だったらしい。若女将は数秒の緊張感ある沈黙の後、泣いて笑って、男の胸に飛び込んだとか。
ありきたりな求婚と了承の場面は繰り返し御伽噺のように繰り返されて、いつか自分も父が母へ発した重大な提案をする日が来るのだろうと、車を運転できるようになったり、酒を飲めるようになったりする権利と同等のものであるかのように一臣は認識していたが、満を持して真似た言葉には、どうしても余計な一言が加わった。
厳かに告げた言葉を受けて、春海は見開いた鼈甲色の瞳を答えを求めるように左右に巡らせた。この性質の悪い冗談をどう受け流せばいいのか策を練っているのだろうか。
「従兄弟とか、身内とか、そう言う括りじゃ足りなくなった」
この重さに潰れてしまえと継ぎ足した言葉も笑って流そうというのか、春海の頬が無理な笑みを作ろうと引き攣った。その頬に触れるとびくりと怯えた体が距離をとろうとする。それを許さず顔を寄せ、至近距離で見据えた春海は確かに震えた。
「俺のものになったら、お前の気持ちは楽になるはずだ。そしたら、今よりももっと幸せになれる」
どれだけ自意識過剰なセリフなんだと思わないこともないけれど、かっこよく整った口説き文句を選ぶ余裕などない。
「好きだ」
あれこれ発した言葉の中、春海はこの短い告白に息を飲んだ。
「わかった?」
自分が何を伝えたいのか。わかってくれたのか。
ありありと見せられた動揺に安心して確かめれば、春海は歪んだ顔を両手で隠しながらも頷いた。
春海の静かな落涙には弱ってしまうはずなのに何故かこの時の涙は一臣を喜ばせ、丸っこい頭を撫でる手の平がこれでもかと言うほど甘ったるく感じられればいいと思った。
少し自分の方へと力を入れて引き寄せれば、傾いた体が一臣の腕の中に全て収まった。
「……っ、でも」
「ん?」
「でも、カズちゃんは、大月家の長男だ。町の人からも、すごく頼りにされてる。そういう人なんだよ?」
だから自分は相応しくないのだと、何もかも晒した心が報われた喜びを覚える前に訴えられる。そうだったと一臣が納得して突き放したら、この小さな体は砕け散ってしまうのではないかと思うほど震えるくせに。
「あのビデオ撮った後のこと、覚えてるか?」
「……、忘れるわけ、ない」
「二人で一緒の布団に入って、お前、俺に言ったんだ。本当に大きくなったらボクと結婚してくれるのって」
新しい兄弟を迎えた興奮に落ち着かない気持ちのまま、布団の中で他愛のないお喋りを続けた。暗がりの中でも春海の白い肌が浮かび上がって見えた景色は、今目の前にあるものと似ている。
「大人になったら甲斐性ってのができるらしい。それがいっぱいできたら迎えに行くよって、俺は甲斐性の意味も知らないのに答えたんだよ。な? だから、ちょっと遅くなったけど、迎えに行っただろ?」
勝手だ。こんな勝手な男、春海しか本気で相手にしてくれない。
待っていると健気に答えて指きりを求めてきた指は、一臣の背中を抱いた。
「カズちゃんが、結婚しようって言ってくれたの。俺も、ずっと、ずっと、覚えてた」
「うん」
「早く法律変わってカズちゃんと結婚できるようにならないかなとか、外国で同性同士が結婚できるって話聞いたら嬉しくなったりしてた。でも無理だって……、諦めないと従兄弟としても傍にいられなくなるって、思って……。諦めようって、決めたのに」
脳裏にちらついた中学教師は、今から思えば包容力がありそうと言う点で自分に共通してはいなかったか。これも勝手な想像だが、しゃくりあげながら訴えられる内容を聞いているとそんな都合の良い過去の改ざんもできそうだった。
一臣の存在のせいで美菜浜から遠ざかった春海は、一臣のために再び美菜浜に戻ってきたのだ。その絶望も希望も覚悟も、一臣のためにあった。
「カズちゃんが迎えにきてくれたの、嬉しかった。嬉しくてたまんなかった。全然、諦められてないってわかって、でもカズちゃんの傍にいたくて、絶対に隠し通そうって決めたのに」
「ツメが甘かったな」
笑ってやると、嗚咽が乱れた。苦しい息の下で春海も笑ったのだと知る。
これでようやく、ちゃんと、春海の心の深いところまで庇護の手を伸ばして触ることができた。
何を差し置いてもこの存在を守ろう。傍において、安らぎをもらおう。
肩から顔を上げさせると、ポロポロと音をたてそうな勢いで涙が零れ落ちた。
囲ったもので温まった腕が気持ちいい。ここに埋まるものをずっと求めていた気がする。
明日には腫れてしまいそうな目蓋に口唇を寄せると、春海の体は僅かに緊張しながらそれを受けた。
涙を弾きながら持ち上がった睫毛の下から、鼈甲色の瞳が上目遣いに見上げてくる。
この容姿を人魚のようだと形容したのは誰だっただろうか。海辺で一夏を過ごしても焼けることのない肌と、童話絵本に描かれるお姫様のような目鼻立ちを賛美した言葉ではあったが、一臣はその褒め言葉が気に入らなかった。
「俺は王子様じゃなくてしがない宿屋の主人だけど、泡にはさせないぜ。人魚姫」
そんな思い出から捻り出した口説き文句は何故か春海の笑いを誘った。失礼な奴だと近づけた口唇は、嗚咽も笑いも飲み込んだ。
甲斐性の意味も知らなかった頃に比べるとキスは上達していたけれど、各々積んだ経験が苦い隠し味になっている。でも、もうこれが最後だ。ファーストキスと人生最期のキスの相手は同じだと宣言できる。
「大好き。カズちゃん」
何度も啄ばむように口唇を合わせる合間、春海は心の中でだけ唱え続けた想いを伝えてくれた。
2009/8/13更新