悦楽と疼痛のバランス 4


 英介が人知れず国外逃亡した頃―――――――日本。

「友里」
「なぁにぃ?」
「友里ちゃんっ」
「だから、何よ」
「英介はどこに行ったんだ?」
「知らない」
 仕事おさめをして帰宅した友里の背後を、金魚のふんのごとく勲はついて回る。
 一人で淋しい思いをしているだろうと心配して滞在中のはずのホテルへ行くと、既にチェックアウトしていると言う。
 そんな話は聞いていない。
 連絡をとろうにも電話は繋がらない。
 昨日、友里は英介に会っている。
 何か知っているはずだと追い掛け回しているのだが、秘密を握っている妹は、
「着替えるから出てってよ」
 ドアをびしっと指す。
「駄目だ。英介がどこに行ったのか、お前は知ってるんだろう?」
 いつもなら引き下がるのに今日はしぶとい。
 いつも冷たい友里だが、今日は輪をかけて冷たい。
 嘘をついている証拠だ。
「言わない」
「友里」
「言わない。えっちゃんとの約束だから」
「友里ちゃん」
「言わないって言ってるでしょ!」
 言い募ると勲はさすがにたじろいだ。
 どうやっても兄は自分に勝てないことを、友里は経験で知っている。
 だから口調を変えて、できるだけ穏やかに止めをさしにかかる。
「着替えらんないじゃん? ね?」
「……その上目遣いは反則だとちっちゃい頃から言ってるのに、この子はもう、本当にかわいいーなぁっ!」
 江口家の長男は、末っ子の部屋から蹴り出された。


 そして、英介と入れ違いになるように、一人の日本人が帰国していた。
「富永さんなら留守ッスよ?」
 突然の来訪者に驚きもしないのは、連日の宴会でそんな気力も吸い取られているからだろう。
「知ってる。彼女の実家だろ? 別にアレの面拝みに帰国したわけじゃないんだよ。スバルちゃんは?」
「いますよー。呼んで来まーす」
 若手はまだアルコールが抜けていない足取りで引っ込んだ。
 暫らくして、同じような足取りの昴が顔を出した。
「うわぉ、小倉さんじゃーん。なんで日本にいるんだろう?」
 年末の虹明寮にやって来たのは、イングランドプレミアリーグで大活躍中の小倉隆宗その人だった。
 有名ブランドの黒いスーツをシンプルだがクールに着こなして、虹明寮の玄関に立つ。
 寝癖だらけの頭を掻きながら、昴は男前の先輩を見上げた。
「正月なので、ちょい帰国」
「ふぅん。おかえりなさぁい。で、なんでうちの寮なんかに?」
 小倉は首を傾げながら、有力情報を口にした。
「英介はイングランドに移籍するのか?」
「……はい?」
「え? まさか、知らない?」
 ばちばちと瞬きを繰り返す昴の前で、小倉も驚きを隠せない。
「イングランド? あいつ、イギリスにいるんですかっ?」 


足の早い日本人がトゥルーザーの練習に参加していると言う噂を聞いた。
 同じ日本人だからと言う理由で、小倉に詳細を尋ねるチームメイトが多かった。
 トゥルーザーで仲のいい選手に連絡をとれば、どうやら間違いなく江口英介のようだった。
 スケジュールの都合で会いに行くことはできなかったが、とうとう移籍かと思っていたと小倉は言った。
「トゥルーザーって、プレミアじゃないよな」
「そうだけど、今年の戦力補強が上手くいって昇格最有力候補」
 移籍の話など聞いていないチームメイトは、首を捻るばかり。
 もしも移籍の話があるのなら、絶対に自分達の耳に入るはずだし英介も報告しただろう。
「練習参加、なんでしょ?」
「そう聞いたけどな。練習参加から移籍に繋がったケースは珍しくないけど」
 フォローするつもりなどないらしい小倉は事実を的確に口にしていく。
 チームメイトも知らなかった情報は、メディアには漏れていないらしい。
 年末のこの時期、海外で年越しをする芸能人の国外脱出を突撃していくレポーターが空港には張っている。
 そこに英介が顔を出せば、かっこうの餌になるはずなのだがそれも掻い潜ったらしい。
 思わず感嘆の声が上がる。
「ワールドワイドな痴話喧嘩だな」
「英介も激しいなぁ」
 まったくだと、幾つかの声が重なった。
「このままタカが何の弁解も謝罪もしなかったら、あいつこのまま移籍の話に持っていく気なんじゃないか?」
 昴が誰へとでもなく問い掛けるが、答える声はなかった。
「トゥルーザーのレギュラーフォワードが怪我で全治6ヶ月って診断されてたな。補強に使った金も最小限。神戸を納得させる移籍金は充分出せるなぁ。うん、こりゃあ移籍だ」
「小倉さんっ」
「俺はタカみたいに泣かせないもん」
 しれっと言い切った日本人海外リーグプレーヤーのパイオニアの本当の顔を、神戸RCの選手は垣間見てしまった。
 この人は確かに、まぎれもなく、否定しようがなく、富永真吾の友人だった。
「小倉さん、そんな趣味が……」
「趣味じゃないぞ。でも英介が懐いてくれると気分いいし、楽しいじゃないか」
 この年代の連中は、かつてオリンピックで次々に強豪を打ち倒し、金メダルを掴んだ尊敬すべき実力者そろいだが、そろって性格に若干の問題があるらしい。
「不実な男から遠く離れたら、あいつも心変わりしないかね」
「心変わりするくらいの男なら、イングランドまで行かないんじゃないですかねぇ」
 暫らく考えていた小倉は、やがてコーヒーを一口ゆっくりと飲んでから、そうだねと答えを出した。




 用意されたホテルの部屋からは、トゥルーザーのホームタウンの夜景が見えた。
 オフで体を休めていたため練習参加してもついていけるか心配だったが、体はすぐに目を覚ました。
 疲労はあるが、それも心地いいほどだ。
 時計をちらりと見た。
 夕食を一緒にと約束している時間まであと十分。
 溜息を一つついたところで、彼はやって来た。
 英介をトゥルーザーのクラブハウスの前で出迎えた青年だった。
「お待たせ」
「仕事はいいの?」
「エースケと食事することが仕事なんだよ」
 流暢に日本語を操るが、ブロンドへアに薄茶色い瞳の青年の国籍はイギリス。
 10歳までを日本で過ごした彼には、半分日本の血が流れている。
 地域のフットボールクラブで幼少時代を英介と共に過ごしたリョウタ・メイヤーズは、英介にニコリと微笑んでみせた。
 一緒にサッカーに打ち込んだが、リョウタは選手としてではなくクラブを支えるスタッフとして大成した。
 英介の一つ年上だが、イギリス国内の関係者の中では有名なスカウトマンになろうとしている。
 選手の底力を見抜く眼力がある。
 誰の目でもひきつける選手ではなく、近い将来に大衆の目を惹き付けることになる、金の卵の発掘が上手いスカウトマンだ。
 萌芽直前にできるだけ資金をかけないで獲得する。
 その観察力はビッグクラブのスカウトマン達も舌を巻くほどだ。
 リョウタが見つけた金の卵の中には、ビッグクラブに移籍してスーパースターと呼ばれる選手に成長した者もいる。
 この若さで戦力補強に口が挟めるのは、彼の父親がトゥルーザーの会長だからだ。
 七光りとの陰口は、彼が射止めた選手の活躍が吹き飛ばした。
 離れて随分経つが、英介との友情は続いている。
 今回の練習参加の話も、英介が相談を持ちかければ快く承諾してくれた。
「このまま移籍話進めちゃおうかなぁ」
「そんな気ないくせによく言うよ」
「今の英介はいらないな。あと一年、二年。もうちょい当り強くなって、ココをすっきりさせたら呼ぶよ。その時トゥルーザーはプレミアだ」
 ココ、と英介の胸を指で押す。
 思わず憮然として見上げれば、隙のない綺麗な笑顔。
「記事、読んだの?」
「英介から練習参加したいって連絡があった時、怪我人も出たし、ちょっと本気で獲得しようかと思ったからね。下調べは勿論したよ。まさかゴシップが出てくるとは思わなかったけど」
「……怒った?」
「なんで?」
 見下ろしてくる薄茶色の瞳は優しいが、英介はまともに見返せなかった。
「ココを……、トゥルーザーを、俺は逃げ場にしたから」
 飛行機に乗っている間も、ずっと思っていたことを改めて口にしてみると、自分が物凄く最低なプレーヤーに思えた。
 サッカーを逃げ場にすることはあっても、チームを逃げ場にすることはしないでいたかった。
 チームは職場だからだ。
 そこで働いているのは選手だけじゃないから。
「お前は練習参加してるだけじゃん?」
 ぽんと頭に手を置いて、リョウタは俯いていた英介の顔を覗き込む。
「そんなに深刻に考えなくていいのに」
 困った顔で笑って差し伸べられたリョウタの手は、英介の頬をするりと撫でた。
「こんなボロボロのストライカー、うちじゃ獲らないよ?」
 歯を食いしばったのが、柔らかな頬から感じられた。
 そしてリョウタはふっと笑う。
「追いかけてくれるかどうか、いちかばちかの賭けに出て地球の裏側まで来るなんて、本気で惚れてるって証拠だ」
 久しぶりに会った友人は、知らぬところで随分人生経験を積んだらしい。
 大人びた顔をして、英介の頬をむにゅむにゅと揉んでいる。
「英介がサッカーしても振り切れないなんて、コウジ・タカヤマもチェックしとこうかな」
 リョウタの言う通りだ。
 俺を放っておくなら、こっちだって放っておく。
 態度と行動でそう示してやろうと思っていた。
 モヤモヤした気分を振り切りたいから、サッカーをしようと思っていた。
 それなのに、ふとした瞬間に彼を思い出す。
 彼のプレーや表情や声を。
「気が済むまでいればいいけど、ニューイヤーは笑顔で迎えようよ」
 ね、と笑って両頬に茶目っ気たっぷりのキスを落す。
「そう言えば、日本の雑誌や新聞から問い合わせが幾つかきたよ。英介が練習参加してるのは本当かって」
「マジで? もう嗅ぎ付けられちゃったか」
「馬鹿な恋人を懲らしめるのに、わざわざイングランドまで来るのが英介らしいよね。日本で誰か引っ掛ければ仕返しできるのに」
 ふと大阪の超大型GKの顔が浮かんだが、それだとシャレにならない事態になりそうな気がしたのだ。
 抜け目がなさそうで、実は優しすぎる友人を巻き込むのも申し訳ない。
 それに、
「俺が浮気したって信じてもらえない」
「へぇ?」
「タカの浮気だって信じられないから」
 だから、移籍を匂わせる方がよほど効果的なのだと英介は言う。
「俺がまだ移籍できる力がないってわかってるから、この手を選んだんだけどさ」
 拗ねたような英介の言動に、リョウタははぁと感嘆の声を発する。
「すっごい惚気だ」
 呆れるやら羨ましいやら。
「信じてるけど心細いんだろ? 顔にそう書いてある」
「うるさいなぁ」
「でも図星だろ? 信じてるけど不安だから、タカヤマに連絡がとれないんだ」
 違う? と窓に映った英介を見つめてリョウタ。
「確かに行動に出ることはとても大切だ。言葉だけじゃ始まらないからね。でも、行動だけじゃ相互理解するのは難しい。英介に今必要なのは、タカヤマとの会話だと思うね」
 しれっと英介を諭してリョウタは片目を閉じた。
 憮然とした表情が、徐々に崩れていく。
 自分の間違いに気付いたけれど、それを認めたくないという表情は子供のようだ。
 説明よりは実行した方が早い。
 リョウタは電話借りるよと一言断って、フロントへ連絡をとる。
 英介はベッドにひっくり返っている。
「英介に、日本からゲストが来てる」
「俺に?」
「どうやら今回の喧嘩は英介の勝ちらしい」


 まさか、と思った。

 それを望んでいながら、まさかと思った。
 急に鼓動が早くなって、落ち着けなくなった。
 リョウタはそれを笑って指摘したが、英介には言い返す余裕もない。
 そろそろかなと、リョウタがドアへ向かうのすら見れなかった。
 Welcomeとリョウタの明るい声が告げる。
 答える声は低すぎて英介のいるところまでは聞えてこない。

 真偽は問題じゃない。
 高山が浮気できるような男だとは思っていないから。
 英介が気に食わないのは、それに対して説明の一つもないこと。
 不安な報道をされてから、連絡の一つも寄越されずに放っておかれた自分の気持ちを味あわせてやろうと思った。
 英介らしいとリョウタは言ったが、英介自身は少し後悔していた。
 もっと冷静になるべきじゃなかったかとか、信じてるのなら待てばよかったとか。
 彼が近付いてくる。
 後悔する気持ちが、強くなる。

「練習参加はもういいよ。年明けの自主トレにまたおいで。それから、帰りの飛行機は手配しておくよ」
 至れり尽せり。
 気の効くトゥルーザーの腕利きスカウトマンは、おやすみを言って部屋を出た。
 ドアが閉まる音を合図に、部屋の中に自分と彼だけになる。
 英介はゆっくりと顔を上げた。
 少し離れた入口付近に、高山浩二は立っていた。
 視線は絡まらない。
 英介も高山も、視線を逸らしあう。
 怒られることは多少覚悟していたのだが、二人の間を支配したのは沈黙だった。
 嬉しいような気まずいような沈黙が続く中、最初に動いたのは高山だった。
 ぎこちない動作で英介の座っているベッドに腰を降ろす。
 すぐ隣ではなく、体一つ分を空けて。
 何か言いたそうな空気がお互いにピークに達した瞬間、
「「ごめん」」
 同じ言葉が口をついた。
 思わず顔を見合すが、英介は不安そうで高山も困惑顔だ。
 行動は大胆なのに、言葉を交わすのは躊躇してしまう。
 埋まらない距離感を詰めるのは、英介も尊敬する潔さを持つ高山だった。
「英介」
 呼ばれ、あぁこの声で呼ばれたかったんだと思う。
 電源を切ったままの携帯電話を見つめていたのは、この声を待っていたからだ。
「逢沢瑠璃子とは何もないんだけど、連絡できなくてごめん」
 一気に言い切った高山の言葉は、英介が聞きたかったものだった。
 思っていたとおりの内容に、少し肩の力が抜ける。
「……うん」
 意外と素直に返事ができた。
「あの写真も、連絡できなかったのも、ちょっと面倒臭い事情があってのことなんだけど……」
 一度言葉を切って、高山はコートのポケットを探って一枚の紙切れを取り出した。
 そしてふぅと息を吐き出して、腹を括るように英介をしっかりと見つめた。
「隠そうと思っていたわけじゃないんだけど、こういうことなんだ」
 差し出された紙片は、雑誌のコピーだった。
 大きな見出しが躍っている。

 『Jリーガー高山浩二は逢沢瑠璃子の隠し子だった!!』

 「……………………………………え、……えぇ? ………………えぇええっ?」


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怒涛の展開、のはずなのに臨場感が出ないのは悲しき文章力の低さのせいか。
『トゥルーザー』は適当に語呂がよい感じを。あと2話くらいで終わります。

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