過去形で愛を告げる男のサヨナラが 痛い
落合美和のアパートのチャイムが鳴った。
深夜零時をとっくに回った時間だ。
来客する者に心当たりは二つしかない。
しかし、こんな時間帯には珍しい。
一応インターホンに出てみた。
「どちら様ですか?」
「感心だな。ちゃんとインターホンを使ってるんだ」
くつくつと笑う、疲れた感じの声。
達郎だった。
「達っちゃん。ちょっと待ってて」
ドアを開けると、闇に解けるような黒いスーツにコートを羽織った達郎が立っていた。
「惜しいな。魚眼で確認すれば完璧だった」
警察官らしいことを言いながらも、その姿はちっとも真っ当じゃない。
やつれ、やたらぎらぎらと光る白眼は充血している。
「達っちゃん……?」
家出して行方不明。
そんな話しを、順也から冗談混じりに聞いていた。
心配しながらも、大した事ではないと思っていた。
「わりぃな。ちょい、泊めてよ。躰、辛いんだ」
苦笑って、達郎は雪崩れ込むように美和の部屋に入っていく。
「達っちゃん、大丈夫?」
その体を支えるように美和は手を出す。
「順ちゃんに教えたほうがいい? お医者様呼ぼうか? それとも、達っちゃんの会社に電話しようか?」
「いいんだ」
答えると、達郎は美和に覆いかかるようにその小さな肩に鼻先を埋めた。
「誰にも、知らせないで。少しの間でいいんだ」
美和の体をぎゅっと抱き締めて、達郎は美和を座り込ませる。
狭いワンルームマンションのベッドの上に。
「達っちゃん、どこか痛い? 汗が凄いよ」
「大丈夫だ。ただ、少し……調子が悪いだけだ」
力なく細い美和の体に体重を掛けて、ぼそりぼそりと言葉を吐き出す。
尋常ではないが、達郎が連絡を取るなと言うのだから従うしかない。
何せ、美和の付き合う連中の仕事が仕事だ。
「寝るの?」
「いや、寝れないな。きっと。最近ずっとそうなんだ」
疲労が滲み出た声は重く、彼の快活な巻き舌は面影をなくしている。
迷い子のように心細さを訴えて、長い腕で美和を抱く。
「辛いんだ」
普段の達郎なら絶対に言いそうにない言葉に、美和は嫌が応でも不安を掻き立てる。
「体が、おかしいんだ。幻覚が見えるし、幻聴もある。気分は最悪。冗談じゃねぇよ」
僅かに残る強がりの欠片が、余計に痛々しい。
ゴソリと身じろいで達郎は、美和の膝に頭を落とす。
「苦しいし、怖いし、腹たつし」
手探りで美和の手を掴んで、痛いほど強く握る。彼らしくない。
「辛い」
惜しげなく弱音を吐き出して、縋る手に力を込める。
いつもは順也曰く鬱陶しいくらいに存在感を主張することもなくしている男が、その存在感とやらを今にも消してしまいそうなほど弱っている。
「……達っちゃん、病院行こうよ」
美和が声を掛けると、肩を大きく弾ませて首を振る。
「駄目だ。美和しかいないんだよ。ゆっくり休ませてくれるの。だから、そんなこと言わずに居させてくれよ」
呼吸も段々乱れてくる。異常だ。
「……達っちゃん……、どうしたの?」
美和の声に声で答えず、握った手により力を込める。
繊細な作りの手はそれだけで軋み、痛みを訴える。
「……美和……」
「何?」
「いる?」
「いるよ」
子供のやりとりのような会話に、獣のもののような呻き声が混ざる。
感情が粟立つような感覚。
暴走と言うのがぴったりくる。
四肢・感情・感覚の全てが、暴れたいと訴えている。
「あぁ、ちくしょう!」
体の異常を自分で察知してからは、自分に残された時間も大して多くはないとも思ったし、自由に動ける時間も少ないだろうとわかった。
自分で望んだ結果ではあるが、まさか刑事である自分が、覚醒剤の禁断症状に苦しむことになるとは思ってもいなかった。
しかもそれを投与したのは、親友であるはずの順也だ。
怒りさえわいてこない。
「達っちゃん、苦しいんだ……。どうしたらいい? どこが痛い?」
混沌とした意識にするりと入り込んできた美和の声と、額に触れた指先の温もりに達郎は救われる思いがする。
「抱かせて」
過剰なまでに力を込めて握っていた手を、ゆっくりと緩める。
それでも、離しはしない。
「え?」
「美和、俺の最期の頼み事だ。聞けよ」
「最後って、何で?」
美和の優しげな眉が、ぎゅっと寄る。
予感だろうか。
達郎がいないんだと告げた順也の、電話ごしの声の僅かに滲ませた苦渋や、目の前で苦しんでいる達郎の姿を見てとって、不安にならないような女ではない。
はっきりとしないまま胸を支配する不安だろうに、美和の表情はどこか怒っていてその眼で置いていく気かと責めようとする。
「達っちゃん、何で?」
「……順也を助けたいから」
はぐらかすような、本音を晒すような曖昧な境界を感じながら美和は、達郎の眼から眼を反らさない。
「順ちゃん、危ないの?」
「それはいいからさ、美和ちゃん」
長い腕に美和の体をすっぽりと収めて、自分と同じく横たわらせる。
額が触れた。
美和の体が硬直する。
拒否反応。
押さえ込まれる。
悲鳴はそれでも出なかった。
「俺の子供、産んでくれない?」
美和の前での達郎は、真剣な時にこそ茶化す癖がある。
その茶化し方は手馴れた物で、美和は達郎の申し出の意味を理解するのに数秒を要する。
「……何?」
「俺はお前を抱きたい」
いつも側にいて自分を大事にしてくれた人物が、過去に自分を傷つけた人物と同じ男と言う生き物であると言うような恐怖はない。
茶化すのをやめた達郎が、見たこともないくらいに真剣に自分を見据えている。
眦の下がった眼が、自分だけを映している。
ついっと鼻先が寄った。
達郎の顔がぼやけて見えて、またもとに戻る。
美和の手が伸べられる。
達郎の手がその手をとった。
美和の手は、達郎の手に包まれたまま、達郎の頬に伸びてきた。
自分の頬に自分の手で触れてはじめて、達郎は泣いていることに気が付いた。
美和が笑った。
困った子だと言うように。
記憶の中の母が笑った。
優しかった姉も笑う。
頑固なだけだった親父が、自身を持て余すようなガキだった順也が、快活だった美和が。
押さえがたい衝動が達郎の内部を突き上げてくる。
美和がその激情を受け止めてくれる。
美和の乳房に流れ落ちた水滴が、自分の汗なのか涙なのかも達郎にはわからない。
美和が泣いているのかどうなのか、ぼやけたままの視界では確かめようもなかった。
小さな悲鳴が耳を打った。
馬鹿だな。
自分で自分を笑って、ぶつけようのない気持ちを美和に託した。
「達っちゃんは、結局順ちゃんが一番なんだよね」
ぼんやりと天井を見つめながら、美和が言った。
「達っちゃんと順ちゃんに、何度も妬いた」
天井から反れた視線が、身支度を整える背中に向いた。
シャツを羽織る背中。
くたびれたシャツが、その背中のラインをぼかす。
手を伸ばすことが躊躇われる背中が、官給品の野暮なスーツに包まれる。
まるでシャットアウト。
「順也が来たら、この封筒を渡してやってくれ」
ベッドサイドに、無造作に茶封筒を投げ出し立ち上がる達郎は、昨日の異常さを微塵も感じさせない。
ただ、引き止めることを拒むような姿勢が、美和の胸をちりちりと刺す。
「順也も美和も、俺にとっちゃ比べ物になんねぇくらい大切だよ」
コートを引っ掛けて襟元を整えると、ちらりと肩越しに振り返った。
「美和、愛してたよ」
「……知らなかったな……」
「そっか。……じゃあ、俺行くから」
「どこへ?」
怒ったような問い。
この部屋を出て行く男達へ、美和がするはじめての問い掛けだった。
達郎は答えない。少しの間を置き、
「バイバイ」
振り返って、笑って、手を振った。
順也と寮に帰る時、二人して後ろ歩きしながら手を振っていた。
ニコニコと、普段の素行からは想像もできないような笑顔を向けて。いつまでも。
達郎は独りで歩き出した。
後姿が消えていく。
もう二度と振り返りそうもない姿が、玄関へ消えた。
どこへ?
答えてもらえなかった自分の問いかけが、何故か美和の頭にいつまでも繰り返された。
みなさまから、あたたかい感想などいただいてますvv
オリジナルに感想をいただけると、なんだか倍嬉しいのですvv