俺はもう行き先を決めている
それは 大切な人達とは遠く離れなければならないトコロで
あまりにも遠いトコロで
それでも 俺は その彼岸を目指してしまったのだ
ケチな貿易商をしている組員がいる。
さほど役にも立たない男だが、港にある倉庫は役にたっていた。
幸田組の処刑室として使われる倉庫だ。
灯りが見えた。
倉庫の周りには、何台かの黒い車が夜に身を潜めている。
中から出てきた男が、笑って順也に向かってきた。
見覚えがある。
昔、チンピラを一人片付けて四年塀の向こうにいた。
出てきてから金バッチを貰った男だった。
元ボクサーで、殺されたチンピラも素手で殺られた。
「組長がお待ちかねだ」
言いながら、右のストレートが繰り出される。
リングを下りたのは、破門されたからだと聞いた。
リングの外で、素人相手に拳を振るいすぎたためだ。
右ストレートは、順也が微妙にずらした歩調のせいで空を切った。
鼻先でユーターンして行った拳から、血の匂いが僅かに漂った。
それ以上、男は手を出してくる様子もない。
ただ、他人の血で汚れた拳を誇示するように見せ付けただけだ。
順也のなかの獣性を呼び起こそうとしている。
順也は応えない。
焦れたように男が舌を打つ。
「来な」
忌々しげに男が言って、顎で倉庫の入り口を指す。
男が先に中に入った。
順也の足が一瞬止まった。
一度、空を仰いだ。
覚悟はできているはずだったが、何故か躊躇した。
花見がしたいねと言った、美和の言葉が不意に蘇る。
その願いだけは、叶えてやれそうにない。
そんな気がする。
白い息を吐き出して、順也は足を踏み出した。
異様な熱気をまず感じた。
リンチ現場に漂うケモノの匂いだ。
達郎の姿を探した。
同時に、幸田の姿が目に入る。
幸田の足元に達郎の姿があった。
黒いコートに覆われたままの体は、まるで捕獲された獣を思わせた。
幸田が振り返った。
「来たのか」
意外だと装う。
「来ましたよ」
激情は、湧いては来なかった。
腹が据わった証拠だ。
修羅場になれば、いつもそうだった。
「……殺したんですか?」
「死んじゃあねぇよ」
達郎の声だった。
掠れてはいたが、はっきりと喋っていた。
獣が蠢いて、人間らしい顔を見せた。
額からの流血やらで、あまり人間らしいとも言い難いがそれでも達郎の顔だった。
切れた瞼が腫れ上がり半眼状態にしか開かない片目が、順也を見た。
笑ったような気がした。
いや、笑っている。
「化け物だよ。お前の大事なお友達は」
頬の削げた風貌を、いつも得体が知れないと思っていた。
商売人だと自分を指して言うが、それだけではない気味の悪さを秘めている。
幸田は、そんな男だった。
頭が切れる。
「内臓はボロボロだろうな。やってる方が先に息切らしちまう。さすがは、本庁の刑事さんだ」
幸田の革靴の先が、達郎の腹部を抉るように蹴った。
勢いはなかったが、達郎は噛み殺したような呻き声を上げた。
視線が送られる。
睨みつけるような眼には、まだ生気がみなぎっている。
まだ、やれる。
順也にそう訴える目だ。
「そりゃ、刑事じゃねぇよ。幸田さん」
胸の内は冷静で、静まり返っている。
「背負うものが違うだけの、極道だ」
達郎が警察官になることは予想できた。
達郎も、順也がヤクザになってしまうことは予測できたはずだった。
それでも互いの道は譲らなかった。
譲り合うことが友情ではない。
危ういけれど、そこには確かに友情が成立すると順也は思っている。
達郎の片目が笑う。
そう、思っているのはお互いだ。
「お前らは、外道だ」
「滝上」
幸田の笑い方はいつも薄汚い。
「ここで、仲良く殺してやってもいい」
やり口も汚い。尻尾を出さず、自分の手も汚さない。
「だけどな」
人にいかに屈辱を味あわせるか、壊して行くかを熟知している男でもある。
「お前がこの刑事さんを殺したら」
この汚い男の下で、自分も随分汚れた。
汚れようと思って汚れた。
自分にはそういった世界でしか生きる道はないと思っていた。
人を殺した子供を、母親は酷く罵って絶縁すると言って姿を消した。
それ以来、あってはいない。
順也も探すようなことはしなかった。
秋葉が、父親の代わりだった。
教えてもらったのは、人を傷つける方法だった。
「お前は、助けてやるよ」
この世界で行きぬく方法だった。い
かに誇りを失わないようにして生きるかだった。
「そりゃあ、ご丁寧に」
達郎が薄っすらと笑っている。
「殺りなよ。順也」
吐き出すような声に滲んだ笑いを、順也は聞き逃さない。
「お前と俺の生きる世界の違いだと思って覚悟を決めるさ。こんな雑魚に殺られるよりは、お前の方がなんぼか救われる」
途中、ゴホゴホと嫌な咳をした。
内臓がやられているのなら、危険だ。
順也は達郎から眼を引き剥がし、幸田を見据えた。
「幸田さん。こいつはあんたらと警察の一部での取引の証拠を掴んでる。このまま殺せば、その証拠がどこから流れるか分かったもんじゃない。それでも、いいのかい?」
「流れたとしても、相手が警察だ。もみ消されるさ」
「そう思っときな。今、警視庁捜査二課が動いてるぜ。四課のホープ失踪の真意を確かめ様として、とんでもないヤマにぶち当たったってな」
達郎がイヤな顔をした。
美和に預けた書類の行方を直感したのだろう。
顔色がぞっとするほど悪い。
覚醒剤の副作用が如実に表れているのだ。
加えて、リンチの痛手もある。
「なるほど。そりゃ、大変だ。証拠を是が非でもいただかなきゃな」
せせら笑った幸田の足が引かれた。
肉を打つ音がして、達郎の体が仰向かされる。
それから激しく咳き込んだ。
見下ろす幸田の襟元を、順也の手が鷲掴みにしていた。
幸田の吸う葉巻の匂いが、僅かに順也の鼻腔を掠める。
ガチャリと、不快な金属音が耳元で幾つか鳴った。
撃鉄を起こす音だ。
「手ぇ、離せ。滝上」
こめかみに、冷たい感触が当たる。
銃口。
幸田が目の前で笑っている。
薄ら笑いはやはり気味が悪い。
「落ち着けよ。順也」
足元から掠れた声が投げ掛けられた。
足元に眼を投げれば、薄っすらと、腫れ上がった眼を開いた達郎が笑っていた。
この笑みも、気持ちが悪い。
薄ら笑いに底はなく、順也の背筋をひんやりと凍らせる。
同類ではないが、似てはいる。
同じ、裏の世界に生きる者の眼だ。
「手、離して差し上げろ」
自分で吐き出した血で汚れた口元が卑屈に笑う。
壮絶な表情でもあった。
その表情に臆されるように、順也は手をゆっくりと離していった。
「何をさせたいんだよ。お前は」
達郎が微かに笑った。
その笑みは、学生時代を彷彿とさせるガキ大将の笑みだった。
本当に始末が悪い。
「お前に俺を」
血の味しかしないであろう、唾液をいったん飲み込んで言葉を繋いだ。
「殺させてみたいんだ」
「ヤクでラリってる奴は黙ってろ」
吐き出された言葉が何故か順也の本能を刺激して、竦ませる。
それ故に投げつけた言葉は一笑された。
誰のせいだと言外に責め立てられる。
「そう、思ってろ。その方がきっと楽だ」
何度かゆっくりと呼吸をして、達郎が一瞬息を止めた。
予想はしていたが、重傷の体に鞭を打って腹筋を使って起き上がった。
拘束具が一切ないままの拷問で打ちのめされたにも関わらず、精神的なダメージを受けた様子はない。
起き上がった瞬間にふらりと頭が左右に揺れたが、上を仰向いた眼はしっかりと焦点を合わせていた。
順也に向けられていた銃口の内幾つかが、達郎に向いた。
その銃口を気にもしないように、達郎は乱れ擦り切れ薄汚れた上着やらネクタイやらを整える。
「化け物が」
幸田が吐き捨てた。
達郎が反応する。
荒い息を吐きながら、幸田を見つめ、にやりと笑った。
「光栄だね」
幸田の顔に苛ついた表情が浮かんだ。
達郎の眼つきが一瞬変化する。
「証拠が欲しけりゃ、探せよ。幸田。俺は殺されても吐かねぇよ」
「探すさ。日高刑事にはここで死んでもらう」
幸田の手が一度ジャケットの中に滑り、一丁の拳銃を取り出した。
「弾は一発。余計なマネしたら、ずたずたにして秋葉の二の舞させるぞ。秋葉も、そんなことは望んじゃない」
順也の胸に、黒光りする拳銃が押し付けられる。
順也がじっと幸田を見据える。
幸田の眼に映る順也の表情は無い。
見つめる幸田の表情も読み切れない。
「殺れよ。順也。死にたくはないだろう?」
「助けて、くれるんですか? 一度は組を裏切った俺を」
「お前は大切な駒なんだよ。うちの、開世連合のな」
順也の手が、拳銃を取った。
幸田が欲しいのは、親友を殺して心を壊して殺人マシーンになった自分だと、順也は思った。
幸田の手が離れ、順也の中に拳銃がしっかりと渡された。
握りこまれた拳銃は冷たく、しかし順也の手の平に馴染む。
順也のしてきた全ての傷害と殺人が本能からなるのだとすれば、今この鉄屑を握りこんだことによって呼び起こされつつある衝動はおそらくその本能。
体の奥から湧き上がり、喉を燃やすようだった。
美和がレイプされた時に、真っ先に浮かんできたのが殺意。
そして、復讐だった。
自分の中にある、人殺しの血がそうさせたのかもしれないと、墜ちたところでそう思った。
血のせいにして、順也はどこまででも墜ちることができる。
「タツ」
ぶら提げた拳銃にちらりと眼をやった達郎が、満足気に眼を細めた。
もう一度ネクタイを締めなおし、肌蹴たコートも肩にきっちり掛ける。
「ホラ、来いよ」
まるで喧嘩でも始めるように、若しくは女をベッドに誘うようにどこか陶然とした火を宿して達郎が人差し指を折る。
引っ込めるその指が、自然な動きでジャケットの胸ポケットにある手帳を確認したのを見逃さなかった。
「背負ってけよ。一生。俺を殺したってことの罪悪を、お前は死ぬまで背負って生きろ」
達観。
その名の由来だろうかと思わせるほど、達郎の視界は広く深い。
「あぁ」
とだけ応えて、順也は腕を僅かに持ち上げた。
座り込んだままの達郎の額に、ピタリと銃口があてがう。
じっと、達郎が順也を見上げる。
腹の底をくすぐるような視線が、不意に途切れた。
瞑目。
「死にな」
聴覚に届いた天の音。
不快に染み込むのはサイレン音。
幸田が赤色灯の灯りを、この倉庫内に見つけようとするようにぐるりと視線を巡らせた。
だんだんと、けたたましいサイレン音が近付いてくる。
呼ばれたように、達郎が瞠目した。
順也が振り向く。
達郎がコートを翻して飛んだ。
撃つのは簡単だ。
順也が引き金を引いた。
達郎の手にはどこに隠してあったのか、はたまた奪ったのか、ナイフが光っていた。
そのナイフが薄い閃光を引いて横に薙ぎ払われた。
ぱっと血飛沫が飛んだ。
幸田が脇腹から出血して倒れる。
その周囲の男が銃を構えた。
「動くな!」
鋭い一喝が、その動きを凍りつかせた。
体だけでなく、心も竦ませるような鬼気迫る一喝は刑事の声だった。
自ら切りつけた男の頚動脈に刃を添わせ、毅然と立っている。
いつものように、しゃんと伸ばした背。
周りに物も言わせない視線をぐるりと投げる。
一方の手にしっかりと握られているのは、黒地に金が鮮やかな警察手帳だった。
「警察だ。全員、両手を頭の後ろで組め。阿呆なマネしたら、殺すぞ」
額からの出血でダラダラと血を流しながら立たされている男の首の皮を、しゅっとナイフで裂いて見せ、達郎がゆっくりと歩をすすめた。
達郎の腕一本で支えられていた男が、へなへなとその場に崩れた。
「殺れるもんかよ。サツが」
どこからか嘲笑いが聞えた。
サイレンは確実に近付いている。
「サツだけど、俺にも人殺しの血が流れている」
カツンと硬質な靴音を響かせて達郎はゆっくりと、倒れこんでいる幸田に近付いていく。
「秋葉は仁義のあついヤクザだった。組の名をこれ以上汚させたくなくて、俺に相談を持ち掛けてきたんだ。自分一人が裏切者の烙印を押されればそれでいいから、お前を止めてくれってな。刑事の俺に頭を下げたよ。お前と、順也を頼むって。自分は死ぬかもしれない。だから、俺に託すと言って殺されに帰ってんだ。幸田祐二、お前に会うために」
うずくまり、うめいている幸田の襟首をひっ掴まえて、達郎が無理矢理にその体を立ち上がらせる。
ぞっとするほど冷酷な顔だった。
人殺しの血と自ら言った、その言葉を裏付けるような。
「組織の頭に立っていい男じゃねぇよ。お前は」
骨がどうかなるような音がして、幸田が後方へ吹っ飛んだ。
後頭部から床に落ち、数度の痙攣の後にやっと顔をビクビクと持ち上げた。
片方の鼻から噴出した血で顔の半分が汚れる。
「日高ぁ!」
怒声。
奇声。
銃声。
サイレンの音が止む。
ボクサー崩れのヘタクソなはずの発砲が、最高の悪運の持ち主の腹に吸い込まれて抜けた。
順也が背後から圧し掛かり、男の銃を奪い倒れた男の後頭部に押し付ける。
指先は引き金にかかっていた。
「順也。やめろ。そんな奴殺しても、なんの得にもならねぇよ」
冷静な声はこの場にそぐわない。
けれど達郎はその足でしっかりと立って、順也の暴走寸前の獣性を静かに抑えてみせた。
腹部を押さえた手の指の合間から血が滲みでて、網膜を刺激する。
「タツっ」
駆け寄り、それでも自力で立っている体を支えた。
一瞬の逡巡の後にゆっくりと体重を預けてきた。
「際どいな」
荒い息とともに苦笑いをのせた。
「タツ、しっかりしろよっ」
「してる。大丈夫だ。弾、抜けてるし。誰かが打ってくれたお薬が効いてらぁ」
ガタンガタンと騒がしい音と共に、刑事が倉庫に突入してきた。
飛び込んできた斬り込み隊長の姿を見た達郎が、はっはと途切れ途切れの笑い声を漏らした。
「門脇さん率いる二課の皆様が来てくれるとは、思ってなったな」
小柄だが、体格のいい門脇が達郎の姿を見て大いに顔を顰めて見せた。
迫力のある面構えのまま、門脇が達郎を見上げる。
警視庁に電話があった。
女の声で、日高達郎の居場所だと言うこの倉庫の場所と、都内某駅の公衆電話の裏にあるモノを隠してあるとだけ告げて一方的に電話は切れた。
この倉庫向かう途中で報告を聞けば、公衆電話の裏にはコインロッカーの鍵が貼り付けられており、ロッカーの中からは書類が出てきた。
その中身が警察内部の汚職時事件の証拠を綴ったものだと言う。
大した男だ。
「撃たれたのか?」
「ちょっとね」
「親父さんが四課長を本庁に呼び出してる。お前さんと滝上を連れて行けって話だったんだが、病院に行った方がいいな」
「そしたら、そのまま俺は病院暮らしですよ。大丈夫、行けます。行かせて下さい」
顎の先から汗が滴り落ちた。
その汗の流れを見、達郎の眼をしばし凝視してから門脇は、ブルルと皺が音をたてそうな溜息を吐き出した。
「刑事だな。お前は。親父そっくりだ」
「キライ、ですか?」
また苦笑い。
この笑い方をするから、達郎は誰からも許容されてきたのだ。
「ガキみたいに笑いやがる。お前の親父は嫌いだが、お前さんは憎めねぇよ。おい、誰か。日高刑事の応急手当だ。そのまま桜田門に連れて行け」
門脇はそれきり背を向けると、茫然自失としている幸田に歩み寄っていく。
「日高刑事、傷を」
面構えの優しい若い刑事が達郎の体を順也とは反対から支えて、パトカーへ促す。
ニ、三歩進んだところで、達郎がむずがる子供のような仕草で足を止めた。
「門脇さん」
俯いたまま呼ぶ。
「あぁん?」
面倒臭そうな返事が返った。
「親父と、組んでりゃよかったんですよ。お互いに、意地なんか張らずに。止めてやれなくて、救ってやれなくて悪かったって罪悪を、あんたが背負うことはなかったんだ。生きてる人間に罪悪感なんか抱いちゃ、そりゃ犬猿にもなるわ」
「小僧が知った口を叩くな。いいから、とっとと行っちまえ。俺も日高も、お前らみたいに若くない。若けりゃ、どうにかなっただろうがな」
しっしと手をやる仕草が順也の視界の端に映った。
達郎が喉の奥だけで笑ったようだった。
ずりずりと足を引き摺って歩き出す。
達郎は、確実に死に向かって突っ走ろうとしている。
もう、この男を止めることは親友である自分にでも不可能なのか。
達郎が破滅願望を抱いているとは思えない。
それでも、達郎は自分の死を予感して走りぬけようとしている。
自分はもう何一つとして無くさずにはいられないのだと、不意にはっきりと確信して、順也は蒼白の友の横顔を見た。
自分の行く末を見つめる眼だけが、奇妙に輝いていた。