バイバイ
パトカーに乗り込んでも、順也の手首に手錠が掛けられることはなかった。
達郎は応急手当をしようとする若い刑事に、大丈夫だからと手を出させなかった。
傷口に布をあてがってベルトで固定するだけ。
鎮痛剤だと言って差し出された錠剤を嚥下して、一つ長い深い息を吐き出した。
息を吐き出して、それをまた吸い込むまで眼を反すことが出来ずに、その呼吸音に意識を集中してしまう。
眼を離せばそこで息絶えてしまいそうな不安が、ぐずぐずと胸の奥に燻っている。
どうやっても拭えない不安だった。
「……なぁ、順也」
「なんだ」
「俺は死ぬよ。そんな気がする。だから、お前は生きなきゃなんねぇんだよ。例え、塀の向こうであろうとも、生きるんだ。惚れた女のためと、死んでった親友のために」
瞼は伏せたまま。
パトカーは赤色灯だけを灯して桜田門方面に疾走している。
「なんで、そんなこと言うんだ」
震えたのは順也の声の方だった。
「美和も泣いてたんだ。お前は、アイシテタって過去形の告白しかしてくれないって」
感情の全てが、眼の奥を刺激した。
美和の泣き声が蘇る。
眼球に、曇った膜が張られる。
「死ねば、終わりだからな。美和の中で生き続けようなんて酷なことは考えれない。」
「俺には背負わせるくせにか?」
「お前は背負ってくれる。俺のことを忘れようにも忘れられない。そう言う、友達だろ?」
頬に熱い一筋の流れ。
一瞬後には冷たく空気の温度を移した。
「もう、やめてくれ」
眼を開けないままの達郎に、はっきりと死の影を見てしまう。
「死ぬなよ。達郎。いいじゃねぇか。ここまでやったんなら。証拠も揃ってるんだろう? 親父さんに任せりゃいいじゃねぇか」
「俺の仕事だ」
瞑目したままなのに、その声だけは毅然としている。
譲れないと言う声だった。
「お前が、俺にシャブうって、俺をヤクザもんの手から守ろうとしたのと同じことだ。俺は俺のやり方で、お前を守ろうとしてるんだ。だから、お前は黙ってみてろ」
「お前は黙ってなかったのにか?」
「黙らせられなかったお前が悪い」
呼吸が引き攣った。
咳き込む。
窓の方に体を捩った。
「日高刑事?」
運転している刑事がバックミラーを見る。
助手席の刑事は振り返ってハンカチを差し出した。
「大丈夫だ。桜田門までは保つから」
受け取ったハンカチを口に当てて、更に何度か咳き込んだ。
やがて、数日前に二人が決別した、正反対の道に背を向けて別れた桜田門の摩天楼の前に車は差し掛かった。
灯りのまだらな庁舎のエントランスホールに、煌々とした灯りが灯っている。
全てのお膳立てを整えた警視庁の裁断場へ、一連の事件の首謀者達を逮捕することのできる権利を唯一持った刑事が、姿を見せた。
夜は明けようとしていた。
ホールの入り口に佇む薄汚いコート姿の男が、達郎の姿を認めて眉間に皺を刻んでから祈るように天を仰いだ。
似合わない仕草だ。
銜えたままの煙草がグニャリと曲がり、床に吐き出された。
「ろくでもねぇ」
遠慮なく吐き出された悪態に、達郎は何も応えない、笑わない。
ぶっきらぼうに差し出された手錠と紙切れ一枚を、当然のように受け取った。
足をエントランスホールに踏み入れた。
カツンと、靴音が波紋のように広がった。
白いフロアに黒い影が落ちている。
「ただいま、かえりました」
誰にも支えられることなく立っている達郎が、第一声を口にした。
どこかに躊躇いがあるような、悲しそうな歯切れの悪い帰還の挨拶。
「怪我、か?」
捜査四課長の早瀬は、居心地が悪そうにそこに佇んでいる。
「ちょっと、撃たれちまいました」
「無茶をする」
「えぇ、でも、刑事、ですから」
腹を押さえていた手をジャケットの下に滑らせた。
「ここに、あなたの逮捕状があります」
朱色に汚れる紙切れを握って、達郎は静かに言う。
早瀬の表情に落ち着きがなくなる。
「自首はさせません。俺はあなたを逮捕します。早瀬課長、刑事のあなたを、桜の代紋を背負ったままの俺が、逮捕します」
言い聞かせるように宣言し、一歩踏み出した。
「早瀬伸介、覚せい剤取締法違反で逮捕する」
低く掠れた日高達郎の声が、吹き抜けのホールに響いた。
澱みなく犯行の終焉を告げる声は、刑事の貫禄を存分に漂わせる。
靴音。
それに混じる金属音。
じゃらりと重質な音をたてて、達郎の手から手錠がぶら提げられた。
「ヤクザになりゃ良かったんですよ。マル暴とやくざなんてのは紙一重で、金と権力どっちを取るかなんだ。権力をこんな風に捨てるんだったら、はなっから刑事になんかなるんじゃねぇよ」
がしゃんと金属音が響いた。
眦の下がった眼が、鋭く早瀬を睨み上げる。
「これが、俺の誇りの証明です」
もう一度、金属音。
早瀬の両腕に、重い銀の戒めがしっかりとかけられた。
天窓から差し込んでくる朝陽さえも寄り付くことのできない影。
その上に立つ達郎の姿もまた漆黒で、そこだけがまるで世界がら切り離されたようだ。
すらりと立つ背中はしなやかで、煙草を銜えていない唇は真一文字に結ばれている。
双眸は冴え冴えとした気迫を見せる。
その双眸が不意に閉じられた。
喉が仰向き、唇が解かれ溜め息が吐き出される。
力を抜くような、痛々しい溜め息。
そして、しなやかな背が折れた。
「達郎!」
「タツっ」
叫び声と共に、わらわらと刑事たちが顔を出してきた。
早瀬を確保し、達郎の周りを取り囲む。
誰より早くに駆けつけた順也が達郎の体を抱き起こす。
「おい、達郎っ!」
「救急車呼んでるな? 担架、持ってこい!」
「いらねぇ」
日高を達郎が制した。
ぐったりと顎を仰向かせた。吐血している。
「肺、破れた。それに、病院は勘弁だ」
苦痛の表情はそこにない。
「俺の血液から、薬物反応が出る」
「それは、俺がこいつに投与したからです。こいつじゃないっ」
順也が日高の手に縋るようにして言う。
「違う、順也。俺が、自分でうった」
「……お前が?」
「途中、動けなくなって、自分で手に入れて注射した。だから、あんまり痛くないんだよ。傷」
困ったように笑って見せた。
滲む嫌悪感。
どうしようもないその行為に、どれだけ達郎が自己嫌悪を感じたのだろう。
また、大量の血液が溢れた。
順也の手を濡らす血は、温かい。
「この馬鹿野郎が! つまんねぇ意地なんざ張りやがって!」
「俺は、刑事だよ。血ぃ、汚しちまったけど、刑事だよ。親父」
投げ出すように達郎の手が弧を描いて、日高の胸をぽすっと叩く。
「先立つ不幸ってのは、許してくれるよな」
「許せるか、馬鹿息子が」
日高の手が達郎の手を握った。
「馬鹿のついでに一つ頼みだ。いいか、親父。滝上順也の判決は無期懲役だ。短くても、殺してもなんねぇ。無期懲役だ。悪徳弁護士一人、もう雇ってある。頼むぜ」
達郎の眼が反れない。
返事を待っている。
頷いた。
ほうっと安堵の息が吐き出されて、その視線は順也の方へ向けられた。
「なぁ、順也。開世連合は全国区で、至る所で縄張り張ってんだろう? なら、俺が守ってやる。死んでも、俺はお前を守ってやれるぜ。順也」
達郎の唇の上に落ちた涙が、達郎の吐き出した血を混ぜて滑り落ちた。
ボタボタと、順也は涙を零す。
微かに、達郎が呆れたような笑みを見せた。
「泣くなよなぁ、順也ぁ。てめぇ、ヤクザだろうが。まだ、やってもらいたいことはあるんだよ」
「……なんだよ」
「言っただろう。俺は、お前に殺されたい」
我儘な破滅願望に、順也が顔を伏せて歯を食いしばった。
歯の隙間から、堪えきれなかった嗚咽が漏れた。
諦めのための一連の動作を見続ける達郎の眼は満足そうで、ただ一瞬だけ、父親にすまなさそうな表情を向けた。
「ヤクザ者殺っただけじゃ、生きてるうちに出所しちまうからな。刑事なら少しは長いだろう。塀の向こうなら刺客も、娑婆よりはマシだって気がする」
ひゅうひゅうと、いやな音をたてて呼吸をする。
「それが、俺の人生の最期だ。そうしたら、俺は生ききったって思って逝ける」
「俺はお前を殺したって言う押し付けがましい罪悪感を、一生背負って生きていけばいいのか?」
「あぁ」
達郎が笑った。
どうだ見たかと言わんばかりのそれに、順也も笑って見せた。
「お前の中で、ずっと生きててやる。しゃんと背中伸ばして、生きてりゃな」
「あぁ」
喉の奥で笑いが止まる。
「タツ」
日高が呼んだ。
もう、眼だけで応える。
「俺の、自慢のドラ息子だ。それから、立派な刑事だよ」
握った手が僅かに応えた。
俺もあんたの息子で良かったと、伝えられる。
老刑事が息を詰まらせた。
諸処の感情を内側に押さえておくことができずに、深い皺の刻まれた目尻へ涙を伝わせた。
その日高の肩の向こうから手が伸びてきて、達郎の口に煙草を突っ込んだ。
門脇だった。
「吸いたそうな顔してるよ」
達郎が眼で笑う。
火を差し出したのは、順也だった。
順也の手に、押収されたはずのリボルバーが握らされる。
鎮痛な面持ちの四課の老年の刑事だった。
無言のまま、一歩下がる。
朝の汚れていない空気に、どんよりとした紫煙が立ち昇った。
「生きたよ。ここまで。自分の足でな」
吸い込む。
チリリと、煙草の先が赤く灯って短くなった。
煙草を銜えた唇の隙間から、紫煙が零れていく。
見上げてくるその双眸に光が消えかけている。
ちかちかと、何かが点滅し始めている。
笑う。
口唇が確かに笑みを刻んだ。
煙を吸い込んだ。
それから、そのまま眼を閉じる。
口唇の端から紫煙が立ち昇り、消えていく。
微笑。
銃声。
微笑。
順也の腕が、魂を繋ぎとめておきたいとでも言うようにきつく達郎の体を抱いた。
小さく短い吐息が微かに漏れた。
首筋を濡らす血を温かいと思った。
その温度だけが、達郎が生きていたと言う名残になった。
桜田門での犯行の余韻に、堪えきれない咽び泣きが暫し響いた。
銜えられたままの煙草の先で、小さく灯った火が淋しげにチリリと泣いた。
暗い……ですね。BDに比べると(笑)
部活内では、人気を集めた達っちゃんですが、こういう結果です。
やっぱり、いろいろと矛盾点が目につくので痛いのですが(苦笑)
あとはエピローグ的な後日談です。