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恋愛の公式 中


 変化は翌朝。

 坂井を意識してか眠りの浅かった下村が、坂井に口付けたことが発端だった。
 起きる気配のない坂井の寝顔を見ているうちに、抑え難い衝動が下村の自負する忍耐も自制も押さえ込んでそうさせた。
 髪の毛に指を絡めた。
 染めることはしない黒髪は、昔から少し癖がある。
 変わらない。
 傷の入った寝顔は穏やかで、長い睫毛が目をひいた。
 寝息が近い。
 膝を抱えるようにして眠る体のラインが、薄いタオルケットの上からも窺えた。
 呼吸音が、下村を引き寄せる。
 ブレーキをかけるタイミングを失ったまま、下村は坂井に口付けていた。
 かさついた唇は、弾力があって下村を感動させた。
 もう少し、もう少しだけと自分に言い聞かせているうちに合わせた唇が震えた。
 ドキっとして、顔を引くと坂井が起きていた。
 起きぬけで巡りきっていない血が、どこかへ引いていった。
 間近にある坂井の双眸がぐらぐらと揺れていた。
 オシマイ。
 これで、おしまい。
 幼い頃から続いていた数十年間の友情も、ジ・エンド。
 坂井の表情はうまく読み取れないほど揺れている。
 まだ、混乱しているのだろうか。
 信じられないのだろう。
 キスされた? そんな自問自答の声が聞えてきそうだ。
 長年の片思いの終焉の呆気なさに腹がたつ。
 自制の期間が長すぎたせいか、こんな事態になって下村の胸には凶暴な怒りが込み上げてくる。
 自暴自棄になって、まだ驚いて下村を凝視している坂井の唇に自分のそれを押し付けた。
 抵抗が一拍遅れる。
 触れるだけのキスから一歩更に踏み込んで、乾いた口内に舌を差し入れた。
 坂井の息が引き攣って、手が下村を突っぱねる。
 貪った口内は煙草のヤニの味で、決して甘くはない。
『下村くん、キスするの上手いね』
 そう言われたことのあるキスで坂井を翻弄して、舌を吸い上げ解放してやる。
 合わした目が信じられないと言っている。
 苦々しい顔の自分が映っている。
「好きだ」
 零れてしまった言葉はもう取り消せない。
 愕然としていた坂井の唇が震えて、それからきゅっと結び合わされる。
 頬に衝撃があって、体が吹っ飛ぶ。
 坂井は起き上がると、下村の方を見向きもせずに部屋を出た。
 頬が痛みを訴える。
 下村が浮かべたのは自嘲の笑みだった。
 唇の端が切れている。
 計らずとも揃い傷。
「……いてぇ」
 今日の予定は、抑えきれなかった感情によって塗り替えられてしまった。
 朝少し早く起きて、二人でバイクを飛ばして、ただスピードを楽しんで、坂井が腹が減ったと訴えてから昼飯にして。
 何を見るでも買うでもなく、ぶらぶらと休日の時間を過ごしてく。
 もう二度と叶えられない坂井の気紛れな予定。
「……いてぇな」


 片手を上げた。
 走り出す。
 加速して、舌打ちしてバーの手前でユーターンする。
 坂井は飛べない。
 あの朝からずっと。
 授業には一切顔を出さない。
 家が隣でクラスも一緒。
 下村と、顔をあわせることになる確率は高い。
 坂井はあれから下村と目を合わさない。
 存在すら抹消しているように。
 今は、忌々しそうに空を仰いで歩調を合わせるためのイメージトレーニングをしている。
 怪我はもう治っているはずだが、坂井の高飛びは絶不調だった。
 体育教師が下村に近付いてきた。
「職員室で話題なんだがな」
「何ですか」
「喧嘩でもしたのか。デコボココンビが」
「さあ」
 最近よく聞かれるのだ。
 露骨に下村を避ける坂井と、それを当然として呼び止めもしない下村の仲を案じた教師に。
「まぁ、どんなに仲が良くても喧嘩くらいはするか。早く仲直りしろよ。見ろ、絶不調だ。授業も全然出席してないらしいな。このままじゃ」
「留年でしょう? そしたら辞めますよ。アイツ」
 そうして遠いところに行ってしまうのだ。
「いいのか?」
「何がです」
「親友なんだろう? 辞めたい奴は辞めればいいが、墜ちちまうぞ。あのままじゃ」
 捨てセリフを残して、教師は歩き出す。
 広い背中から視線を剥がし、フィールドの真ん中に投げた。
 とんとんと二回その場で飛んで、坂井がまた走り出した。
 加速、踏み切り、飛ぶ。
 ふわりと浮き上がった坂井の体が、バーを落としてカランカランと音をたてた。
 坂井の体はマットに落ちる。
「墜ちる、か」
 下村だって、失いたくない。
 マットから起き上がった坂井が、真っ直ぐに下村を見てきた。
 あの朝以来、初めて視線が合う。
 助けろよとでも言いたそうな視線に、下村もこっちこそ助けろよと呟く。
 どうにもならないこの状態を抜け出したいのは、坂井も一緒なのだろう。
 視線は外れてた。
 チャイムが校庭にのどかに響いた。


 放課後の屋上のドアを開けた。
 吹き付けてくる風の向こうで、坂井が待っていた。
 いつものように眠ってはいない。
 しっかり起きて、やって来た下村を見返した。
 軋むドアを閉じて、坂井の気持ちをはかった。
「よう」
 月並みな挨拶に、
「あぁ」
 と、月並みな返事がかえってきた。
「どうしてくれるんだよ」
 次にはいきなりな言葉。
「お前のせいで飛べなくなった」
 飛べなくなった。
 それはまるで、羽ばたこうとするその行為を邪魔されたと言っているようで、下村は眩暈を覚える。
 どこへ羽ばたこうと言うのかは知らないが。
「そりゃ、悪いことをした」
「本当にっ、……そう、思ってるか?」
「思ってるよ。言わないままでいられれば良かったけど、でも結果は同じだ。俺はいつか自分の気持ちを抑えきれなくなって、お前を傷つけただろうから」
 そんな傷ついた顔をさせただろうから。
「なぁ、坂井」
「なんだよ」
「好きなんだ。ずっと、一緒にいたいんだ」
 まるで縋るようになった声を、坂井はじっと聞いている。
「ずっと、好きだったんだ」
 坂井の眼を見ていられなくて、反らした。
「キスしたのは、それで?」
「そう」
「ふうん」
「これで、飛べるようになるか?」
「ならない」
 一歩、坂井が近付いてきた。
「なぁ、下村」
 じっと見つめてくる眼はしっかりしていて、あの朝のような動揺の色はない。
「嫌いじゃないんだ」
 それでも、困ってるんだと言うような苦さを湛えた眼だ。
「嫌いじゃなくて、どうしたらいいのかわからない」
「なんだよ。ソレ。返事のつもりか?」
 どちらも困り果てた顔をしている。
 それがなんだか可笑しくて、どうしようもなくて笑い出してしまう。
 よかった。
 変わらない。
 恋愛と、深すぎる友情は似ているのかもしれない。
 ただ、
「なぁ、キスしていいか?」
「……好きなの? 俺のこと」
「好きだ」
「じゃ、いいぜ」
 口付けたり、抱き締めたりそんな接触が加わるだけで。
 勿論それは、自分達だけの恋愛論かもしれないけれど。
 躊躇うように、そっと唇を合わせた。
 おそるおそる抱き締めてみた。
 女の子の体とは全然違う。
 額を付き合わせると、白い歯を見せて坂井が笑った。
「なんか、変なの」
「すぐに慣れるさ」
「俺さ、族のオンナと飲んだ時、妬いてたのかも」
「え?」
「お前の彼女に」
 悪戯に笑う眼にきょとんとしている自分の顔を見て、下村は苦笑する。
 まったくと、大袈裟に溜息をつくと、腕の中で坂井はまた声を上げて笑った。
「これで、飛べるか?」
「飛べるさ。見てろよ」
「見てるよ。何時だってな」
 腕の中に捕えて、飛べると豪語する気紛れな親友で恋人に、下村はもう一度キスをした。



 天高く馬肥ゆる秋の晴天。
 フィールドの真ん中で、坂井が片手を上げた。
 跳躍のチャンスを与えられているのは、最早坂井だけだ。
 このバーを跳べば、自己記録更新になり、この競技の優勝者となる。
 わっと上がる歓声に、サービスとばかりに愛想のいい笑顔を振り撒いて、下村に向かって片目を閉じた。
 とんとんと二回。
 軽くジャンプ。
 走り出す。
 ゆっくりと。
 それから、加速。
 白い半袖の体操服が、僅かに風を孕んだ。
 体重を感じさせない動きで踏み切る。
 ふわりと体が宙を舞い、弧を描く。
 猫のようでもあるし、鳥のようでもある。
 羽の生えた猫は、ぽすりとマットに体を沈めた。
 歓声に起こされた坂井が、ガッツポーズを決めて最高の笑顔を振り撒いた。
 視線は、やはり最後には下村に向けられる。
 どうだ、見たかよ。
「見てるって」
 だから見とけと言って、下村もスタートラインに立った。
 坂井を真似てウィンクを寄越し、雷管の合図で走り出す。
 普段の走りよりはずっと力を入れて。
 疾走する体は驚くほど軽い。
 余裕の一位で走り終えた下村が応援席に戻ると、坂井が片手を上げて近付いてきた。
 下村も手を上げて、パンッと打ち合わせる。
「さっすがー」
「当たり前」
 軽い言い合いをしていると、体育教師がまたやって来た。
「お、コンビ復活か?」
 白い歯を見せて屈託なく笑う。
「復活ってなんですか」
「一時期、えらく険悪だったじゃないか」
「喧嘩するほど仲がいいんです」
 答えた坂井の笑みに押されたように、わかったわかったと言うと、
「今度は中間テストに励めよ。坂井。お前、下村を家庭教師にして頑張らないと本当にヤバイからな」
 痛烈な一言を置いて、準備用のテントへ向かって歩き出した。
 坂井は苦々しい表情を浮かべている。
 振り返ると、
「お前のせいだ」
 と言ってきた。
「なんでだよ」
「お前のせいで俺、授業さぼってたんだから、お前のせいだ」
「なんだそりゃ。いいぜ、責任とってやる」
 勝手な言い草は、勝手に解釈することにした。
「手取り足取り腰取りで勉強教えてやるよ。覚悟しろ」
 そうくるとは思わなかったのか、坂井の顔が赤面した。
 純情な恋愛じゃないことくらいは覚悟してもらいたかったが、そんな初々しい反応を見せられると悪くないかと思う。
「学校生活がずっと楽しくなったな」
「どーゆー意味だよ」
「恋愛してると、日常が楽しくなるってことだ」
「レンアイね」
 赤面したままの坂井が呟く。
 思わずキスをしたくなる衝動を抑えなければならなかった下村は、こっそりと苦笑を浮かべた。
 これからは、学校で羽目を外さないようにする自制が必要なようだと。

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なんっつーか、楽しくなっちゃいました(笑)初々しいかどうかはわかりませんが、幼馴染で学生下坂vこんな二人が学校にいたりしたら、絶対話題にして観察日記をつけていそうな私は腐れてます。結局ラブラブってことで(爆)

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