その日のブラディ・ドール。
閉店間際まで、店は平穏に営業された。
下村と藤木の客のさばきも、坂井のシェーカーもいつもと何ら変わりがない。
変わったことといえば、遅くなって秋山夫妻が現われたことだろうか。
秋山だけの来店は珍しくないが、夫婦揃ってとなると珍しい。
おそらくは、菜摘に話を聞いて面白そうだと乗り出してきたのだろう。
若しくは、愛妻を危険な目にあわせるのではないかと心配で来たのか。
客足が途絶えた所を見計らったように、叶が川中と藤木と共に現われた。
酒が目的の来店ではないが、坂井は何も言わずにジン・トニックとドライ・マティニィを作り上げてカウンターに置いた。
「とりあえず、女の子はみんなで飲みに行かせましたよ。経費で落すって言ったら滅茶苦茶はりきってましたが」
昼間のレナで、叶に言われたことだった。
女の子は何かの理由をつけて、集団で帰せと。
そうすればガードする必要もないから、余計な労力を使わなくて済む。
一応、数名のボーイも混ぜて週末の飲み会にでも行けよと帰した。
「で、叶さんのいい案ってなんですか?」
そこで、川中と藤木が何だ知らないのか? と目で尋ねてくる。
「教えてくれないんですよ。下村は知ってるみたいですけど」
レナでのアイコンタクトのことを言っているのだ。
下村はカウンターに片肘を置いた状態で煙草を吸っている。
「ま、知ってたらそんなに大人しくはしてないだろうな」
「言えば逃げられるの、わかってるからな」
「確信犯だな。叶」
会話から察するに、坂井と高岸以外の人間には、これから何をするか既にわかっているらしい。
「なんなんですか?」
流石に眉を顰めた坂井に川中は、しれっとして言ってのけた。
「坂井、脱げよ」
「………………………………は?」
「店のために一肌脱げって言ってるんだ」
「…………具体的に言われますと?」
「囮作戦の囮になれってことだ」
「いやです!! 絶対に! いやですよ!!」
数秒後、坂井の絶叫が店に響いた。
「なんでだよ」
嫌がる理由がわからないとでも言う風に、下村が尋ねる。
この男にデリカシーってもんはないに決まっていると、坂井はぎろりと下村を睨みつける。
「囮って、囮ってことはつまり、俺に…………」
その先を自分で口にしてしまうことができなくて、坂井の語尾は掻き消えた。
「女装しろってこった」
が、あっさりとその先を秋山が続けた。
「いやですー! 大体、なんで俺なんですか! そりゃ、女性を囮にするのはやばいですけど、何で俺が………」
必死の抗議に出る坂井に、にっこりと菜摘が説く。
「だって、坂井さんが一番適役なんですもの」
適役?
「お前なら、背はちょっとあるけど細いし、髪だって今なら女の子のショートカットくらいじゃないか」
にこにこと子供のような顔で川中が続ける。
こんなことなら、不精せずにさっさと髪を切ればよかった。
「よく見りゃ、わりと幼い顔つきしてるしな」
そりゃ、どうすることもできません。俺のせいじゃないです。秋山さん。
「それに」
と、下村。
こいつには今、一番黙っていて欲しい。
「日頃の豚足のおかげで肌も綺麗だしな」
悪魔だ。
俺が天使ならこいつは悪魔。
と言うか、ここにいる人みんな悪魔だ。
叶が菜摘を呼んだ理由がようやく理解できた。
「……嫌、です」
脱力しながら、はっきり拒絶するが……
「坂井」
どこか浮き立った川中の声が、
「社長命令だ」
坂井にとどめを刺す。
さらに、
「はい。坂井くん♪」
優しく菜摘が巨大な紙袋を差し出してきた。
「……何ですか? コレ」
「お洋服よ。かわいいの選んできたから」
語尾にハートマークが見える。
「着替えてこいよ。坂井」
叶の満面の笑み。
カウンターの中から出るのを渋っていると、
「手伝ってやろうか?」
これまた、満面の笑みを浮かべた川中。
「手伝ってやるよ」
と、有無を言わさずに下村が坂井の安全地帯であるカウンターに強行突入してくる。
「えっ、ちょっと、待ってくださいよ。ホントにするんですか?! 今日、野郎が出てくるとは限らないじゃないですか!」
酒棚には充分注意しながら、坂井は後退さる。
「出てこなかったらまた明日」
奇妙な節をつけて叶がカウンターに肘をついて、坂井と下村のやりとりを眺めならが歌う。
「そんな人事だと思って!!」
「人事だからなぁ。楽しいけど」
「叶さん!!」
坂井が怒りの矛先を無責任な発案者に向けた隙をついて下村は、坂井の腰に腕を回して抱き上げた。
「なっ、何すんだよ!! 下村っ、降ろせ馬鹿野郎!!」
「暴れるなよ。坂井。高岸、服持ってこい」
ばたばたと暴れる坂井を無視して、下村は控え室に消えた。
呆然としていた高岸に、秋山が大きな紙袋を差し出す。
「流血沙汰にならないように、お前ちゃんと見てろよ」
「……は、はい」
と、どうしたらいいのかわからないような困惑した返事を返して、高岸も控え室へと消えた。
「……本当は、坂井の面倒見てる連中とか使えば早いんだろうけどな」
「気が付かねぇか。今の坂井の頭じゃ」
「叶」
「なんだ?」
「確信犯だな」
「いいアイデアだろ?」
「確かに」
大人達の不穏な会話に、坂井の怒声と悲鳴が飛び込んできた。
「ちょっと……気の毒ではあるがな」
「仕方ないだろう? アイツが可愛いのがよくない」
坂井が聞いたら、泣き出しそうな会話に再び悲鳴が割り込んできた。
今度はガタンガタンと激しい物音。
高岸の情けのない悲鳴まで聞えてくる。
さすがに、大人達もヤバイかなと顔を見合わせ始めた頃になって、控え室の物音はピタリと止んだ。
ややあって、カチャリとノブが回る。
出てきたのは高岸で、惚けたような顔を提げてすごすごと歩いてくる。
「どうした? 高岸」
川中が陽気に問えば、僅かに頬を紅潮させて、
「似合うんですよ……」
とだけ言って、あらぬ方へ視線を泳がせた。
「ほう」
と、面々の視線が控え室に再び向けられる。
下村が立っていた。
ご満悦と書いてある。
「お嬢さんはどこだ? 下村」
「お嬢さんって言わないで下さいよ!」
叶の揶揄に、下村の背後から抗議の声があがった。
一瞬の間があって、空気にしまったと言うニュアンスが漂った。
「出てこいよ、坂井」
川中が呼ぶ。
ここまで来て出ないわけには行かないだろうが、決心がつかないのだろう。
下村のタキシード姿の黒の向こうから、チラチラと華やかなピンク色が見える。
「化粧もしなきゃならんだろう?」
「なんでですか!!??」
盾にされている下村は、笑いを必死で噛み殺している。
「夜なんか見えないじゃないですか」
「今日は月明かりが綺麗でな。それに、やっぱり雰囲気だろう?」
「早く片付けたかったら、色気で変態さん引き寄せろよ」
「そんな無茶なこと言わないで下さい!」
声だけが元気に届くが、姿はちらりちらりとしか見えない。
ひらりひらりとベージュのスカートの裾が見える。
期待の滲む視線を受けた盾役の下村が、にやりと笑った。
かと思うと、次の瞬間一歩横に移動する。
「しもむらっ!!」
縋るようにも聞える悲鳴は虚しく響く。
空気が止まる。
華やかな、赤い大きめのパーカーにスカート。
足元は、いかにもおぼつかない茶色いブーツ。
菜摘の見立てた服を着込まされた坂井の頬が紅潮している。
視線を意識した途端、俯いてしまう。
「……舌噛んで死にたいんですけど……」
消え入りそうな声で、それだけ告げた。
ヒューと口笛。
惚けっぱなしの高岸の気持ちがよくわかった。
「異常に似合うじゃないか。坂井」
と、秋山。
「よかったぁ。サイズも大丈夫ね」
と、菜摘が嬉しそうに言う。
「はー、似合うもんだな」
感心したように、叶。
「しかも、可愛いじゃないか」
楽しそうに川中も笑う。
さらに、
「似合うな。坂井」
しみじみと藤木までが言うものだから、余計坂井は浮かばれない。
お世辞でないぶん余計に。
「でしょ?」
とのたまうのは下村だ。
「……なんでわざわざスカートなんですか……」
蚊の鳴くような声で坂井が問えば、
「皆さんのご要望なんだけど?」
ダメだったかしら? と菜摘が小首傾げる。
「ばっちりだ。菜摘さん」
「なら、良かったわ」
そんな会話をよそに、坂井はそれでもカウンターに向かおうと足を前へ動かすが、ブーツのヒールが不安定なのかよろついている。
「ホラ」
すっと差し出されたのは下村の生身の手で、坂井は仕方なさそうにそれをとる。
「歩きにくい……」
辟易してぼやきながらもなんとか辿り着くが、スツールは高く、それに座るのもまた困難。
舌打ちしそうな心情を理解しているのか、下村がひょいと脇を支えてスツールに座らせる。
紳士的な仕草なのはそうなのだが、女扱いのようで面白くない。
むくれたその表情も、この格好ではかわいいだけだと坂井は知らない。
「バーテンもいいが、客の隣にも座れるんじゃないか?」
「勘弁してください……人生最大の汚点です……」
坂井はますます項垂れる。
「ホラ、坂井、顔上げて」
冷たい義手が顎を支えて上を向かせる。
不意をつかれた坂井の見開かれた眼なんかは、かなり下村をそそるのだが。
「……何、する気だよ」
剣呑な坂井に、下村はにっこりと笑いかける。
手にはビューラー。
「何って、メイク」
「……い、やだ」
おそらく言って終わるだけの抗議とわかっているのだろう。
否定の言葉も小さい。
「そんなにしないって。お前、肌綺麗だから、目元と口元いじって終わり」
そう言う問題ではない。
なんたって、こう自分には災難ばかり降りかかるのか。
神様とやらがいるのであれば、今すぐお礼参りに飛んでいきたい。
泣きたい気分でいる坂井の視界が、いきなり何かで覆われる。
びくっとして、慌てて身を引く。
「動くなよ。坂井。眼、開けてろ」
ビューラーだった。
生まれてこの方、もちろんそんなものを使ったことがない坂井はおっかなびっくり。
再び、冷たい金属を目元に押し当てられそうになり、思わず眼を閉じる。
「眼、開けろって。目ん玉に何かするわけじゃねぇから」
「怖ぇんだよ! 大体、なんでお前がんなもん使えるんだよ!」
「学生時代に、連れがミスコンに出るーとかぬかして俺がメイクしてやったんだ。だから、大丈夫。可愛く仕上げてやるから」
大丈夫じゃない。
しかもなんて曖昧で、いい加減で頼りない経歴だ。
「睫毛少しいじったくらいじゃ、わかんねぇーって。やめねぇ?」
「それが、変わるもんなんだよ。いいから、動くな」
「いやだっ!」
「ガキか。お前」
「うるせぇ! 俺の今の気持ちがわかってたまるか!!」
痴話喧嘩に似た言い合いに、忍び笑っていた叶がふっと坂井の耳元に口を寄せてきた。
「大人しくしないと、またみんなの前でキスするぞ」
低く囁くと、身をひく。
ピタリと坂井は反抗をやめた。
みんなグルか。
そんなに俺を陥れたいか。
しがないバーテンでしかない男をからかって面白いか。
様々な思いが渦を巻く。
本気で泣きたい気分の坂井の瞼と目尻に、冷たい感触。
下村のブロンズよりも、もっと硬質な金属が押し当てられる。
思わず瞼が降りかけるが、なんとか我慢する。
意外に長い睫毛が震える。
ややあってから、ビューラーが離れ視界がクリアになる。
「あ、下村くん、上手ね」
坂井を覗き込んだ菜摘が感心したように言えば、でしょ? と嬉しそうに下村が返す。
居た堪れなくなって俯きかけた坂井の頤を再び左手で支えて、今度は反対の眼にビューラーを押し付ける。
「こんなもんかな?」
身をひいて観察し、同意を求めるために振り返る。
となれば、川中達の視線が集まるのは当然で。
「ふうん。変わるもんだな」
「かわいいぞ。坂井」
ちっとも嬉しくない感想を貰うことになる。
「睫毛長いからマスカラとかいらないな。これで充分」
「……お前が、したかっただけじゃないのか? コレ」
恨めしげに見上げられれば、それだけ可愛さが増す。
これ以上ないくらいのにやけ面で、下村は当初の目的を言い訳にしてみせる。
目尻の流れた眼はすっきりして、凛としている。
その睫毛に彩られた双眸の色が、エキゾチックな深い漆黒の色をしているから余計にそそる。
次に下村が取り出したのは、口紅。
ご丁寧に、新しいモノを菜摘が買ってきたらしい。
おそらくは、店の経費を川中が出したのだろう。
「最近、蜂蜜色って流行ってるでしょ?」
と、リップスティックとグロスをカウンターに置く。
そこまで凝らなくてもいいんじゃないかと思うのだが……。
「俺、ほんとに舌噛んで死にたい………………」
「全部終わったら、俺が噛んでやる」
すかさず応えた下村に、坂井は容赦のない鉄拳をお見舞いした。
さっきから意気消沈してはいるが、このくらいはしてやらないと気がすまない。
「イテテ………まったく、乱暴なお嬢さんだって、ハイハイ。黙ります」
調子よくホールドアップして、ベージュ色のリップスティックをひねる。
「顔、少し上げろよ」
「……………………」
殺してやるからと、眼で訴えられて下村は苦笑を浮かべる。
自分からは顔を上げそうもない坂井の顎を支えてやって、口紅を薄い唇にのせる。
「っ………」
途端、坂井に複雑な表情が浮かぶ。
眼を閉じていればいいのかどうなのかもわかならいで、困惑しているのだ。
頬は始終朱を刷いていて、かなりかわいい。
キスすれば存外に柔らかな唇の上に、薄い色付きの紅を塗る感触は妖しい。
「下村、お前かなり楽しいんでるだろう?」
「少し」
秋山の揶揄に応えてから、口紅をはなす。
坂井がギロリと睨んでくる。
「気持ち悪い………」
違和感を持った唇に触れようとする手をすかさず掴んで、
「だいじょーぶだって。かわいいかわいい」
「嬉しくないっ」
どっちかと言うと屈辱だ。
下村の手を見れば、今度はグロス。
ねっとりとした感触のグロスをのせられたかと思えば、下村の指がそれを左右に広げていく。
「やらしい図だな」
とは、叶の感想。
確かにと、下村も坂井も心の中で思う。
間近で真剣な眼で自分の唇を凝視して、そこにゆっくりと指を這わせる下村は、いつもの表情と微妙に違うと坂井は思う。
下村は下村で、坂井の唇の感触だとか指の動きで艶を放つのを見ていれば、自然とおかしな気持ちにもなってくる。
「はい、完成」
名残惜しそうに、指を離してグロスのついた指先を拭いながら坂井を眺める。
「こりゃ、いけるぞ。坂井。後は運だな」
「変わるものですね」
「似合うわ。坂井くん」
「しっかり襲われてこいよ」
「特別手当も出してやる」
「綺麗です………坂井さんっ」
様々な反応が返ってきて、坂井は眉間に深い皺を刻んだ。
面白がられているのは百も承知だ。
「あぁ、坂井。眉間に皺なんか寄せちゃ、美人さんが台無しだぜ」
至福の一時を過ごせた下村は、すっかりご機嫌。
例え、坂井の怒りの矛先を一身に買った肘鉄を食らわされようが幸せなのだ。
「それじゃ、まぁ、坂井嬢の準備もそつなく終えたことですし」
と叶が立ち上がる。
「参りましょうか、Fraulein」
こうして坂井の受難は続く。
この女装が書きたいがために、理由を探しましたよ。坂井に女装させるなんてよほどの状態でないと……と、少ない脳みそを使いました。しかも、製作がテスト期間中……他のことに脳みそ使え。シモムがやたらとメイクができるのは、私の中でのイメージです。なんかできそう。着物の着付けとかも(どんなフランス帰りだ)あ、もう、楽しかったですvv自己満足vv